「空虚な幻想」から目を覚ますために――オウム真理教事件の根底にあるもの

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オウム思想の根源

 

――ご寄稿では「事件のすべては麻原の独断によるものであり、また同時に、その「真相」のすべてを麻原が了解していたかといえば、とてもそうは考えられない」とおっしゃっていますが、これはどのような意味なのでしょうか。

 

実は、オウム事件の「真相」というのは、ある意味で非常に単純なのです。オウムの目的は、新人類によるユートピア社会を建設することにあり、そしてそのために、物欲に塗れた現在の日本社会の人々を、可能な限り大量に粛清しなければならないと考えた──あたかも、部屋にバルサンを焚いて、害虫を駆除するような仕方で。オウムでは、70トンのサリンの製造計画が進められており、95年11月から、本格的な「最終戦争」に突入することが予言されていました。記事でも触れたように、旧人類と新人類の「入れ替え」が、オウムの最終目標だったのです。

 

ただ、ここで問題となるのは、どうしてこのような荒唐無稽な幻想を「真理」と信じ込むことができたのか、なぜこのような動機で実際に人を殺すことができたのかということが、一般の人々にはとても理解しづらいということです。これに対して、麻原やオウムの信者を含め、ニューエイジ的な精神革命論に深く呪縛されている人々は、この種の世界観のリアリティをよく分かっている。しかし、であるからこそなおさら、それを客観的に理解したり、説明したりすることができない。思想の魅力を心身で感得し、それに呪縛されている人と、その種のリアリティが分からない人のあいだで、大きな意識のギャップが生じているのだと思います。

 

本来であれば、そうした「意識のギャップ」を埋めるために、客観的・第三者的立場から説明を行うというのが、宗教学者の役割のはずなのですが・・・。ニューエイジの影響というのは、アカデミズムの内部にまで深く及んでおり、そうした過去の反省と清算を未だに行えていないというのが、現在の宗教学の偽らざる内情です。

 

 

――ニューエイジの思想というのは、今も受け継がれているように感じました。いまの若者論の中には、「ゆとり世代」や「さとり世代」と呼ばれている世代は、すでに物欲には執着しておらず、むしろそれ以上のものを求めている、という話が出てきますよね。それとすごく似ているなと思います。

 

オウム事件の経験から、空虚な精神論が暴走すると危険だということを、社会全体で身に沁みて実感したところがあって、それ以降、過激なものは目立たなくなったと思います。ですが、例えばamazonでベストセラーになっている本を見てみると、その多くが、「新しい自分に目覚める」「思考が現実を作る」といった自己啓発本ですよね。コアなニューエイジ思想が希釈されて流通し、未だに麻薬的効果を及ぼしているという現状があります。

 

早くも忘れ去られてきたところがありますが、2012年にはマヤの予言が話題となり、その際には「アセンション」が起こると囁かれました。アセンションというのは、「次元上昇」という意味です。3次元の物質性にとらわれてきた人類の意識が、4次元レベル、5次元レベルに上昇し、目に見える世界は消滅していくという終末論が唱えられていました。

 

 

――なんだかすごい話ですね。

 

80年代から90年代にかけては、テレビで毎月のように「ノストラダムス特番」が放映されていました。かつてオウムの信者だったある人物から、「ああいった番組を子どものころからテレビで見せられ続け、1999年になったら何かが起こるという強迫観念を刷り込まれていた。しかし、それらの番組を放送し続けた大人たちは何の罪も問われず、真に受けたオウムだけが悪いというのは、どう考えても納得できない」という意見を伺ったことがあります。若い人にはあまり実感が沸かないかもしれませんが、ある世代以上の日本人にとっては、とても共感できる話だと思います。

 

 

責任の取り方

 

――「ニューエイジ」や「ノストラダムス」「マヤの予言」など、非常に胡散臭いなぁ、信じる人がいるのかなぁと、思ってしまうのですが。オウムの事件が起こった後の現在も、こういった思想が受け継がれていることがわかりました。今回の寄稿では、宗教団体・アカデミズム・マスメディアの責任についても問うていますね。

 

オウム事件の総括が難しい理由として、事件の本質が「思想」にあること、そしてその思想の影響が及んでいる範囲を探っていくと、日本全体がスッポリと覆われてしまうほど広い領域に及ぶということがあります。「思想的責任」と一言で言えば簡単ですが、実際にはその輪郭がきわめて広大となり、そうした責任を問われるべき人々も、膨大な数にのぼるということになってしまう。

 

自分がかつて入れ込んでいた思想や宗教も、どこかしら「オウム的」であったのではないか、と感じている人は多いでしょうが、自分からそういうことを言い出す機会もメリットもないため、自然と口をつぐまざるを得なくなる。また、ニューエイジ的な幻想を売り捌くことで生計を立てている人間もまだまだ沢山いますから、そういう人は、自分のやっていることのいかがわしさ、怪しさを自覚しながらも、今さら手を引けないということがあるでしょう。一昔前のレポートですが、斎藤貴男氏がお書きになった『カルト資本主義』(文春文庫)という本を一読すれば、ビジネスの世界にも、ニューエイジ的・オカルト的幻想が根深く浸透しているということをお分かりいただけるかと思います。

 

 

──困難であるにもかかわらず、総括が必要とお考えになる理由は何でしょうか。オウムのような事件が再び起こるからでしょうか。

 

あれほどの事件がまた起こってしまう可能性は、過度に心配しなければならないほど高くはないでしょうね。しかしそれ以上に、霊性進化論やニューエイジといった思想に今後も関わり続けるのは、端的に言って「時間の無駄」だと思います。

 

今の日本社会は、地に足のついた現実的な話をすればするほど、気の滅入るようなことばかりです。それらを直視するよりは、スピリチュアルな革命が起こって一気に世の中がバラ色になるのではないかという話の方が、確かに夢があるし、元気が出てきます。しかしそれは、現実から目を背けて妄想に逃げているだけです。現実が厳しいからこそ、それを冷静かつ理論的に捉えることができるような思考態度を身に付ける必要がある。宗教学にも、あるいは学問全体にも、ニューエイジ的な幻想に浸る余裕があるくらいなら、もっと時間やエネルギーを割かなければならない課題は沢山あります。

 

また、個人的にとても気掛かりに感じているのは、オウム事件の被害者やその遺族の方々が、なぜ自分たちはあのような災難に見舞われたのかが分からない、と今でも仰っていることです。被害者やその関係者の方々に対して、少しでも腑に落ちる説明をするためには、何らかの方法で、思想的な問題を議論の土俵に上げる必要があります。

 

その際には、こちらから個別に「思想的責任」を追及していくというよりも、そういった問題に関して心当たりのある人が、自主的に発言できるような場を設けるのが良いと思うのですが……。具体的にどのような形が可能なのか、今の私には、それを実現するアイディアも力もありません。記事でも申し上げたように、われわれはそろそろ、オウム事件を総括するための最後の時期を迎えることになります。今の状況を変えることはとても難しいでしょうが、一人の宗教学者として何か責任を果たせるような機会があれば、積極的に協力していきたいと思っています。

 

 

サムネイル「Distribution Religion」The Art Gallery of Knoxville

http://urx2.nu/gfh9

 

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シノドス国際社会動向研究所

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