「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治

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アパルトヘイトの成立を後押しした人類学

 

白人とそれ以外の住人を、居住地、参政権、結婚、教育、職業などのあらゆる側面で分離したアパルトヘイトは、「前近代的な差別的慣行の残存」のイメージで見られることがあるかもしれないが、そうではない。20世紀に入って次第に強化され、20世紀中葉に完成した、近代国家における法に基づいた制度的な差別である。この政策が導入された背景には、オランダ系移民をルーツとする貧困白人層(プアホワイト)の救済という問題があった。

 

アパルトヘイトを推進した白人政権は、もちろん政治・経済的な側面を計算し尽くして、計画的にこれを導入したが、この政策に対して文化面での装飾を施し、人びとを同意へと誘った役割を果たしたものの一つに、イギリス系の社会人類学の存在があった(注:「文化人類学」と一般に呼ばれる学問であるが、イギリスではしばしば「社会人類学」の呼称が用いられる)。

 

この経緯について、明快な指摘を行っている著作を、以下に引用する。

 

 

「当時(引用者注:居住区の隔離が法制化されていった20世紀初頭)の隔離政策のブレーンとして、「原住民」の境遇に同情するイギリス系の知識人が積極的に利用された」

「白人権力による征服と抑圧、さらには部分的な同化の容認によって、伝統的なアフリカ人社会は崩壊の危機に瀕していた。白人社会と伝統的なアフリカ人社会を引き離しておくことで、それぞれの集団は、それぞれの価値観に従って生存していくことができる。こうした考え方は、「文化相対主義」を信奉し「原住民の伝統文化の保護」を求める当時の人類学者によって、強く唱導された。」(峯, 1996: 124)

 

 

人種による隔離を唱導していた人びとの思想的な立場はさまざまであり、その中にはたとえば人種と社会を明白に序列化してとらえる進化主義者や社会ダーウィニズムの信奉者なども存在していたが、同時に、文化相対主義を唱えるリベラルな人びとが存在していたことが指摘されている(Dubow, 1995)。

 

たとえば、「文化的適応(cultural adaptation)」ということばが、政治的な場面で称揚され、広く用いられた。「バンツー文化(Bantu culture)」(引用者注:黒人住民の文化)は認知され、奨励されるべきだとし、「原住民の義務とは、黒いヨーロッパ人になることではなく、自らの理想と文化をそなえたよりよい原住民になることである」と述べる者もいた(Dubow, 1995: 162)。

 

こうした言説が、アパルトヘイトの成立と強化にどのように加担したかについては、たとえば以下のような指摘がある。

 

 

「人類学者が人種隔離政策を積極的に提唱したわけではないが、彼らの知的営みは、隔離政策に理論的根拠を与えるものとして、南アフリカ連邦の官僚と政治家に大いに活用された。」(峯, 1996: 124)

 

 

当時、強制的な移住や隔離居住区の設置に対して、疑問を抱いたり、心を痛めたりする人びとが一定数存在したことも考えられる。しかし、自他の文化の本質的な差異を強調し、それを承認しようとする、一見して「良心的で、多様性に対し理解を示す」言説が、隔離政策を正当化し、異論を封じ込める側の陣営にいたことは明らかである。少なくとも、文化人類学は、この隔離政策強化の時代にあって、明快な否を唱えてはいなかった。

 

 

バンツー教育:黒人には黒人の言語を与えよ

 

アパルトヘイト成立期に唱導された、「黒人には黒人の文化を」という、一見、異文化を尊重するふれこみで巧妙に強化されていった隔離の思想は、その後も別の形で政策として実行に移された。その典型が「バンツー教育」である。本節では、ヘイスロップ(1999 = 山本訳 2004)を引きつつ、その巧妙な文化的支配のあり方を見てみたい。

 

「バンツー教育」とは、アパルトヘイトの一環として、黒人居住区の子どもたちを対象として計画、実施された教育である。それまでは、ミッション・スクールに丸投げであった黒人教育に、白人政権が乗り出し始めたのである。その背景として、都市部の不就学の黒人若年層が非行に走ることを脅威と受け止める見方があった。同時に、白人層の特権を脅かさない程度に、従順な黒人労働力を調達する必要性もあったとされる。

 

このバンツー教育として整備された初等教育では、黒人住民たちの母語であるコーサ語やズールー語などの民族諸語が用いられた。さらに、黒人の教員を雇用し、黒人の有力者を学校運営に参加させるといったふうに、自律性を尊重するかのようなリベラルな装いを伴っていた。

 

しかし、そこには、民族意識をあおり、言語集団ごとに黒人たちを分断するねらいがあった。さらに、「ホームランド」という、名目上、南アフリカから「国」として独立させる形式をとっていた黒人自治区の制度にふさわしい政治意識を作り出すことが目的とされていた。

 

この教育によって、かつては存在していた初等教育における英語へのアクセスの機会は奪われ、英語能力が下がり、中等教育への進学は困難となった。また、白人の学校とは異なるシラバスが用意され、園芸などの実業科目が多く設置された。黒人居住区における中等学校の設立は制限され、初等教育を終えた黒人の生徒たちは低賃金労働者として働くか、遠方のホームランドにある中等学校に通う以外の選択肢をもつことは困難であり、かつ後者の道もきわめて限られていた。

 

黒人には、黒人の母語による教育を。これは、一見すると今日の多言語主義の思想にも近いかに見える。しかし、それは自らの決定権により選んで行っている自律的な母語教育ではなく、明白な隔離原則のもと、それを補完する目的と効果とともに行われていた「強いられた自文化の実践」であった。そして、白人支配層にとって脅威とならない、低賃金労働者を供給する役割を負わされていた。

 

アフリカ民族会議(ANC)などの反アパルトヘイト勢力は、このバンツー教育の危険性を早くから見抜き、反対運動を展開していた。ANCの活動家たちは、世界に対して英語によりアパルトヘイトの不正義を告発するという運動を展開し、黒人たちを民族諸語の中に封じ込めるというもくろみは、結局、失敗に終わる。

 

今日、アフリカ諸国の民衆の間には、母語による教育よりも、公用語である英語やフランス語の教育を望む声が多いと指摘される。なぜだろうか。人びとの記憶の中には、表向き、多言語・多文化に対して理解を示すふりをしながら、その実、政治・経済的な資源へのアクセスを遮断しようとした、南アフリカのアパルトヘイトの歴史がある。このような側面を十分に理解しないままに、安易に文化の差異を強調し、分離を支持することはあまりに軽卒であるし、もしそれが計画的に構想されているとすれば、当然のことながら非難の対象となる。

 

文化の差異を承認することを、隔離の口実にしてはならないし、また、結果として隔離の事態を招くこともあってはならない。差異を承認しつつも、その差異を越境する自由は、あらゆる人間の基本的な権利だからである。それを、特定の集団や階層に居合わせた者が一方的に否認することなど、できようはずもない。

 

最終的に、南アフリカはアパルトヘイトを放棄する道を選んだ。反アパルトヘイト活動にたずさわっていた政治犯たちを釈放、全人種参加の総選挙を経て、ネルソン・マンデラ氏が大統領に就任した。弾圧の対象であったANCが政権与党となり、今日の民主社会を築き上げるにいたる。

 

 

南アフリカの手話通訳者の事件

 

2013年12月10日、故ネルソン・マンデラ元大統領の追悼式に手話通訳者として登壇した男性の所作が、まったく手話の体をなしていなかったとして、世界の笑いものになった。この話題は、どうかすると「福祉が未整備の後れたアフリカで起きた変わった事件」という程度のイメージとともに消費されてしまった可能性があるが、実態はそうではない。南アフリカは、世界に先駆けて憲法で手話を公認した国の一つとして知られている。

 

1996年に採択された南アフリカ共和国憲法は、アパルトヘイト体制を打破する固い意志とともに制定された、世界で最も民主的な憲法であると言われる。人種はもちろんのこと、性別、民族、性的指向、年齢、障害、宗教、信条、文化、言語、出生など、あらゆる差別の禁止を明確に記している。そして、第6条では、多くの民族諸語と並んで、手話の地位が明確に示されている。

 

法律の上で手話を公的に位置づけ、大学で手話の研究や教育を行い、世界中の首脳が集まる重要な国家の式典で手話通訳が用意されるという、それこそ日本が達成していないことも含めて、一つずつ実践している姿がある。このデタラメ手話のニュースを世界に対して発信したのは、他ならぬ南アフリカのろう者たち自身であった。ろう者たちの厳しい問題提起を受け、追悼式に続くマンデラ氏の埋葬の場面ではベテランの手話通訳者が配置され、多くの南アフリカのろう者たちが満足したという。

 

こうした歴史的背景と実態を考えると、南アフリカの手話の事例を笑いものにしている場合ではなかろうと私は考える。そこに見えるのは、「手話を話す少数者の差異を承認しつつ」「それを主流社会に受け入れる」という、一見逆の方向を向いているようにも見える、しかし確かに両立可能な二つのことを着実に行っている国の姿である。

 

南アフリカが、これまで「黒人たちの文化の差異を承認しつつ」「そのまま主流社会から切り離してしまった」アパルトヘイトの苦痛に満ちた歴史から学び、克服しようとしている努力の一端を見ることができるポジティブな事例として、私は受け止めていた。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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