「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治

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二種類の差別:「同化型」と「隔離型」

 

この「差異の承認と主流社会への受け入れ」の問題を、理論的な側面から補っておきたい。

 

フランスの社会学者タギエフは、次のような指摘を行っている。人種主義には「同化型」(assimilation)と「隔離型」(ségrégation)の2タイプがあり、一方の差別に対する告発は、もう一方の差別を容認してしまう、と(Taguieff, 1987)。

 

仮に、同質であることを少数者に要求する「同化型」の差別があるとする。これに対する反発として、同化からの解放を求める分離主義が生まれた場合、実はそれが「隔離型」の差別を招く結果となってしまうことがある。逆に、「隔離型」の差別に対し、怒りをもって批判する立場がある。しかしそうした主張が、気付かぬうちに「同化型」の差別を助長してしまうことがある。自分では反差別を唱えているつもりでありながら、もう一つのタイプの差別を招き寄せてしまうことがあるという事態を指摘した、ある意味でシニカルな警句である。

 

しかし、この命題には、一つ見えない前提がある。「もしも、主流社会がそのあり方を変えることがないならば」という条件が隠されているのだ。

 

なぜ、少数者は、主流社会との距離において「近寄っても地獄、遠ざかっても地獄」の二択の立場に立たざるをえないのだろうか。そして、どちらか一つを選んだ時に、なぜ「自己責任」の名において、どちらか一方の差別を受忍せねばならないのか。それは、主流社会が自ら一向に変わろうともせずに、少数者に対して一方的に「同化か/隔離か」の二択の踏み絵を強いているからに他ならない。

 

少数者たちが差異をそなえたままでありながらも、主流社会とつながり続ける。そのための居場所をともに新たに創ろうとする努力は、少数者のみに課せられた責務ではない。主流社会こそが、その変化のために汗を流すべきなのである。

 

 

同化と隔離のはざまで:手話をめぐる共存の課題

 

この「同化/隔離」のテーマは、私がかねてより取り組んでいる手話言語とろう者コミュニティの研究の分野でも、先鋭化した課題として立ち現れる。

 

耳の聞こえない人たち(ろう者)は、身体的に、音声言語を習得して用いることが困難である一方で、視覚的な自然言語である手話を世界各地で生み出してきた。しかし、19世紀から20世紀にかけて、主流社会に参加させるためとして、日本を含む世界の多くのろう学校で、手話を教えず、むしろ音声言語の習得を義務付ける教育が行われてきた。この状況におけるろう者たちの反発、怒り、そして苦痛ははかりしれないものがあった。まさに、「同化型」の抑圧が行われていたと見ることができる(木村・市田, 1995; 金澤, SYNODOS 2015年2月17日)。

 

近年では、音声言語のみによる教育の限界が指摘され、手話の使用を容認する教育が世界で普及しつつある。学校教育から一度排除された手話は、ろう者たちのことばとして復権を果たしつつある時代にある。このこと自体は、少数者の文化の自由が解禁されたできごととして、評価することができる。

 

しかし、私たちが忘れてはならないのは、それがいつしか「強いられた自文化の実践」、つまり、「差異の承認」を口実とした、主流社会からの強制的隔離の事態を招くことがあっては絶対にならない、という強い意志を確認し合うことである。

 

「ろう者たちがそんなに手話を話したいなら、社会の隅の方で勝手に使っていればよろしい」というふうに、主流社会がこの言語の存在を軽視し続けていたら、どうなるであろうか。一見、差異を承認し、自由を認めたかに見えて、それは結局「同化型」差別から「隔離型」差別へと移行するだけで終わってしまうのである。重要なことは、「手話という異なる言語の存在を承認しつつ」「それを主流社会につなぎとめる」ための、何らかの積極的な措置を講じることが必要だという点である。

 

南アフリカに限らず、手話を国や自治体の公用語の一つと位置づけて、法制化する事例が増えている。ニュージーランドでは、英語と先住民のマオリ語に加えて、ニュージーランド手話が第三の公用語となった。日本ではまだ国レベルでの法制化の動きは顕著でないものの、鳥取県手話言語条例を始めとして、地方自治体レベルで手話を言語として公認し、その使用を奨励する動きが見え始めた。

 

人びとの多様性に寛容であることを基本として展望しながらも。頭のどこかで、それがアパルトヘイトの再来になりはしないかという警戒心をもって、慎重の上にも慎重を重ねつつ、差異の承認とつながりの確認の両方の歩を進めていく。「同化か/隔離か」の二択を迫る踏み絵を行うのではなく、主流社会こそが率先して変わる努力を常に伴わせる。

 

この綱渡りのような繊細な作業を通じてこそ、初めて、文化の差異の尊重と、それを相互に越境し合う自由が両立するものと考える。アパルトヘイトの成立を後押ししてしまった、あのあまりに軽率な人類学者たちの姿を、反面教師として思い起こしながら。

 

南アフリカのアパルトヘイト撤廃と手話公認の二つの歴史は、多言語・多文化の共存をはかろうとする私たちにとって、得がたい重要な先行事例であり、学ぶべき教科書である。

 

 

異なりつつも、確かにつながり続ける社会へ

 

冒頭のコラムの問題に戻ろう。曽野氏のコラムには、人種をめぐるずさんで悪意に満ちた「第一の誤謬」があった。ただし、これはあまりに明白な間違いであり、論理的に破綻していて、多くの人びとの賛同を得られないはずである。油断はできないが、たやすく論破することができる点である。

 

実は、このコラムがはらむ危険性の本丸は、文化をめぐる「第二の誤謬」にある。こちらは、一見説得的に見えてしまうだけに、かえってその危うさに気付きにくい。

 

しかし、「文化が違うから分ければよい」というあまりにも無邪気な言説が、いかに暴力に満ちたものであるか、そしていかに歴史から学んでいないか、すでにお分かりであろうと思う。これは、そのまま「隔離型」の差別を奨励している。「文化的に同質な人たちと一緒にいたい」という素朴な心情に訴えかけ、動員しようとする点において、より悪質である。

 

アパルトヘイトが利用した「差異の承認の政治」の過ちを何度でも思い起こし、その轍を踏まないために学び直す必要がある。自分たちが、我が手と心でアパルトヘイトを招き寄せてしまうかもしれないという危機感とともに、その負の歴史を引き受ける姿勢が必要なのである。

 

文化人類学も、その後、大きな変化を遂げていった。かつてのような、自他の文化の差異を固定されたものとして強調する本質主義は、厳しく批判されるようになった。文化相対主義の原則を振りかざすことで、たとえば暴力や差別の存在を開き直ったり、対話を打ち切ったりするなど、文化を一種の「隠れ蓑」として用いてはならないとの認識も広まりつつある。今日では、常に同時代の他者と出会い続ける学問として、自画像の修正をも重ねながら、「文化という枠組みを何らかの絶対的な根拠にしない」、相互の理解と共存のために努力し続ける学問の営みとしてある。

 

軽薄に自他の文化の差異を根拠として、「隔離型」差別を公然と煽動する新聞コラムの出現。文化を語ってアパルトヘイトを成立させた歴史を忘却し、あるいは隠蔽することで、その再来すら予期されうる今日の状況。こうした事態を、改めて文化人類学徒のひとりとして批判するとともに、通俗的かつ固定的な文化観に基づいた隔離への潮流にうっかりと共感してしまわない慎重な姿勢を、読者のみなさまに呼びかけたい。

 

新しい、他者との共存のあり方のために。新しい、文化人類学の営みを手にたずさえながら。

 

■文献

『朝日新聞』「曽野綾子氏「アパルトヘイト称揚してない」」(2015年2月17日).

NPOアフリカ日本協議会「産経新聞 曽野綾子さんのコラムへの抗議文」(2015年2月13日).

大阪大学外国語学部(旧大阪外国語大学)スワヒリ語専攻在学生・卒業生有志 (Facebook).

「荻上チキ・Session-22」「曽野綾子氏のコラムが波紋、改めて考えるアパルトヘイト」(直撃モード)(2015年2月17日).

金澤貴之「日本にあるもう1つの言語: 日本手話とろう文化」SYNODOS (2015年2月17日).

・木村晴美・市田泰弘. 1995. 「ろう文化宣言: 言語的少数者としてのろう者」『現代思想』23(3). 354-362.

産経新聞コラムに抗議する日本アフリカ学会有志 (Facebook).

・曽野綾子「透明な歳月の光: 労働力不足と移民」『産経新聞』2015年2月11日朝刊. 7.

・ヘイスロップ, ジョナサン. 1999=2004. 山本忠行訳『アパルトヘイト教育史』横浜: 春風社.

・峯陽一. 1996.『南アフリカ: 「虹の国」への歩み』東京: 岩波書店.

・Dubow, Saul. 1995. The elaboration of segregationist ideology. In: Beinart, William and Saul Dubow eds. Segregation and Apartheid in Twentieth-Century South Africa. New York: Routledge. 145-175.

・Taguieff, Pierre-André. 1987. La force du préjugé : essai sur le racisme et ses doubles. Paris: Edition La Découverte.

 

 

サムネイル「Apartheid Museum」Joao Vicente

http://urx.nu/hK9h

 

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