広がる衝突と「文化戦争」――《むき出しの暴力》を防ぐために

危惧されてきたもの

 

2015年1月、フランスで起きたシャルリー・エブド事件を報じるニュースを見て、まず連想したのは、かつてアメリカで頻発した人工妊娠中絶クリニックの医師殺害事件、そして2004年に起きた映画監督テオ・ファン・ゴッホ殺害事件だった。その後の関連事件の地理的広がりや一般社会・国際社会の反応は、今や比べ物にならない大きさになっているが、すべて宗教的価値感情が関わっている(少なくともそう見える)点では共通している。アメリカでは、とくに人工妊娠中絶をめぐる社会的衝突は、「文化戦争」culture warsの典型例とされている。

 

フランスの事件の直後、これを報じた記事の中に「文化戦争」という言葉を取り上げていたものがあった。ひとつ確認をしておくと、「文化戦争」は物理的な戦争を指す言葉ではないので、テロ事件の衝撃性そのものを取り出して「文化戦争」と呼ぶべきではないだろう。殺害行為などの暴力そのものに対しては、それに応じた対処が論じられるべきである。今、問題はあまりにも大きく複雑な国際問題になってしまったように見える。しかし、私たち自身がこの問題を悪化させる一因とならないために、本稿のような角度からの考察も必要だろうと考えた。

 

起きた事件への心痛と嫌悪感はまったく正当な反応だが、これがイスラム文化(に属する人々)への偏見や憎悪や沈黙強制に転じる懸念、つまり「文化戦争」に向かう懸念が深刻化している。この傾向を回避する必要については、シャルリー・エブド事件やIS人質殺害事件以来、イスラム文化に属する多くの人が社会に向けて訴えているとおりである。

 

他方で、事件の背後にあった社会問題として、それらの風刺表現に宗教的心情を傷つけられてきたとする人々の問題があるわけだが、その問題をあまりにもナイーブにこれらの事件への情状酌量として語ることは、その裏返しとして「イスラム=テロリストの温床」というステレオタイプ化に滑り込んでしまう。これも「文化戦争」の特徴である「アイデンティティの衝突」に陥る道である。そのような衝突のありようと危険については、先に「シノドス」誌上に掲載された論考をはじめとして、多くの識者が示しつつある。

 

 

「文化戦争」とは

 

「文化戦争」という言葉には、主に二つのルーツがある。一つは19世紀ドイツでビスマルクがカトリック教会の勢力を封じるために行った政策“Kurturkampf”のことで、一般に「文化闘争」と訳されている。もう一つは英語の“culture wars”で、この言葉は1980年代の終わりにアメリカでハンター(James Davison Hunter)という宗教社会学者が使って有名になった言葉で、こちらは「文化戦争」と訳されることが多い。

 

19世紀ドイツの「文化闘争」も20世紀アメリカの「文化戦争」も、宗教が深くかかわっている点では共通しているが、今危惧されるのは、後者の意味での「文化戦争」だろう。以下では、アメリカの「文化戦争」から抽出できる普遍的な分析枠組みを足場にして、危惧されている状況がどういうことなのか、考えてみたい。

 

アメリカで論じられてきた「文化戦争」は、価値観の対立や生活文化・芸術文化のあり方などの文化的な事柄が政治上の争点となり、どちらをとるかをめぐって政治と社会の両方が二分される状況を言う。アメリカでは主に宗教、人工妊娠中絶、同性愛、歴史教育、芸術への助成、(人種)差別是正策などを具体的な対立軸にしてそうした現象が起きてきた。今日であれば、医療費政策(オバマケア)や移民政策改革をめぐる議論もここに入るだろう。

 

この分裂・対立には三つの特徴がある。一つは、この分裂が政策論争と大衆社会の両方の領域にまたがって起きることである。たとえば選挙候補者のテレビ討論があれば、それに呼応して一般社会のほうでも、どちらを支持するかが人々の政治的関心事となるわけだが、これが選挙をめぐる議論にとどまらず、雇用拒否や憎悪表現や憎悪暴力などを含む社会的分断・衝突につながるような状況が典型的な状況と言える。

 

二つめの特徴は、論争の関心が利害の対立よりも社会がとるべき価値の問題へ向かうことである。女性の社会進出に対しては「家族の価値」が対抗し、出産に関する自己決定に対しては「生命の価値」が対抗し、同性愛者の権利承認に対しては「道徳と伝統の価値」が対抗する。人々の利害にもっと直接にかかわる経済政策や、人々の安全・生命に直接にかかわる軍事政策の議論はその背後で進み、人々の関心の対象となるのは価値の問題としてのライフスタイルや、安心感の問題としての危険な文化アイデンディティとなり、さらにこれが監視と排除の対象としての関心を集めるようになる。たとえば、1960年代のゲイカルチャー領域、冷戦期の「赤」、2001年以降の「イスラム」などがその例である。

 

ここでは《価値の選択をめぐる討議》というよりは、ゼロサム的な勝敗を賭けた《価値の争奪戦》が起きる。しかも、一方の当事者にとっては価値観や道徳感や安心感の問題であっても、その結果はもう一方の当事者の市民生活上のさまざまな利害につながってくる。

 

三つめの特徴は、価値観やライフスタイル、歴史観などをめぐる論争が、人種や民族や宗教などの「文化的アイデンティティ」のレッテルへと単純化されていき、アイデンティティ集団への排斥感情や相互衝突に結びつきやすいことである。

 

つまり、近代国家の思考法では個人の価値選択の問題とされて良さそうな事柄が「〇〇愛者」や「〇〇系移民」や「〇〇信者」といったアイデンティティに結び付けられやすく、そのアイデンティティに極端に単純化されたイメージ(ステレオタイプ)が与えられてしまう。同性愛者は性犯罪者、イタリア系移民はマフィア、といった具合である(思考法としては、共産主義に共感を示す者はすべて危険人物、という冷戦期のステレオタイプに通じるものがある)。これがアイデンティティ集団相互の排斥や衝突を引き起こす危険も高い。

 

アメリカでこの状況がいつから起きていたかは論者によって見解が異なり、1960年代にすでに「文化戦争」が見られたとする見方もあるし、1980年代後半以降の、新保守主義が政界に大きな影響力を持つようになった時期に特徴的なこととする見方もある。たしかにこうした状況は市町村のローカルな政治単位では1960年代かそれ以前から起きていたことだが、全米レベルで大統領候補者や議員がこの動きを利用する傾向を見せたのは80年代以降に特徴的なことに見える。筆者は、これはローカルな現象であると全国規模の現象であるとを問わず、また、よりグローバルな規模の現象となっていることも含めて、あらゆる政治・社会に起こりうることとして普遍化できる問題だと考えている。【次ページにつづく】

 

 

 

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