2011.02.04

田舎で育ち、都会で老いる ――「孤族の国」を考える(3)

斉藤淳 政治学

社会 #高齢化#孤族の国

急速に進む都市型高齢化

『朝日新聞』連載の「孤族の国」が大きな反響を呼んでいるとのことだ。この大きな反響にはいくつか理由があるだろう。誰でもいずれは死を迎える。しかし、今を生きる自分自身が現在営んでいる生活様式が、どのようなかたちの末期につながりうるか、必ずしも自明ではない。しかし連載記事を読んだ読者には、現在の生活が孤独な老後と末期に直結しうることを確認し、少なからず狼狽しているのではないか。

十分な医療や介護も受けられず、人知れず一人ひっそりこの世から姿を消す孤族の姿は、核家族化や都市化、あるいは社会安全網が脆弱なまま貧困化してしまった日本社会の抱えるさまざまな問題を反映している。原因も解決方法も多岐にわたるが、ここでは主として地域を軸に孤族問題を考えていきたい。

地域政策からみる理由は、田舎で育ち、都会で老いることが孤族のひとつの特徴だからだ。孤族問題は、その問題のすべてとはいわないものの、戦後日本社会を支えてきた地域的再分配、再循環のメカニズムが抱える構造的な問題が表出した側面がある。

つまり、東京をはじめとする都会に人もモノも金もいったん集中させて、地方に分配するモデルのしわ寄せが、孤族の出現というかたちで現れたのである。ある意味で、高度経済成長の裏側に横たわっていた地方経済の停滞、地域政策の失敗が、孤族問題の背景にあることは間違いない。

大量の孤族が発生し、その行く末を悲観する事態が発生した理由のひとつは、人口の急速な都市化である。総務省統計局や国立社会保障・人口問題研究所の資料によれば、2005年から2015年のあいだに、高齢者人口がもっとも急速に増加するのは埼玉県であり、つづいて千葉県、神奈川県である。増加率首位の埼玉県では、およそ55%の高齢者人口増加が見込まれ、全国平均でも30%を上回る。一方で高齢者人口増加率を下位から並べると、すでに高齢化の進行していた鹿児島県、山形県、秋田県が並ぶ。

つまり、「金の卵」と持て囃され、集団就職で上京した団塊世代(1940年代後半生まれ)と、これに引きつづくかたちで都市部に流入した人口が、退職し老後を送ることで都市部が急速に高齢化するのである。しかも都市部での高齢化にあっては、深刻ながらも緩慢なかたちで進行してきた地方での高齢化とは、まったく異次元の問題が発生するであろう。たとえば、多くの高齢者が認知症を抱え、地域的な相互扶助の基盤が脆弱ななかで、孤独な末期のときを迎えることになる。

経済の「55年体制」と急速な都市化

このように30年から40年前に起こった現役世代人口の急速な都市化が、これから急速に進む都市高齢化の直接の原因である。それでは、日本列島の都市化はどのような仕組みで起こったといえるだろうか。

日本だけでなく一般的に、経済が未成熟な段階での経済成長は、農村部から都市部への急速な人口移動を伴う。生産性の低い農村部門から、高生産性部門を抱える都市部への労働力移動をうながすことは、とくに労働集約型製品を輸出しながら経済成長をする局面において、必ずといってよいほど発生する。

たとえば、国勢調査で就業者総数に占める第一次産業の比率をみると、戦後初期でおよそ半数を占めていたが、この数字は70年代初頭にかけて2割を切るまでに急速に下落し、80年に11%、2005年の数値で4.8%である。同時期、都市部人口は一貫して増加してきた。

開発経済学の教科書に必ず登場するモデルのひとつに、アーサー・ルイスの二重経済モデルがある。ルイスは西インド諸島出身の経済学者で、1979年にノーベル賞を受賞しているが、彼の議論は途上国経済が生産性の高い近代部門=都市と、生産性の低い生存維持的部門もしくは伝統的部門=農村に分かれるとの前提に立つ。このモデルで経済発展のカギになるのは、農村部から都市部に、安価な労働力がほぼ無制限に流入することである。これを促進するためには都市部で経済インフラへの投資を行い、賃金インセンティブを通じて農村部から、労働力人口を都市部に吸い出すことが重要になる。

もちろん、こうした政策を取ることには一定の経済合理性がある。グローバリゼーションの進む世界で、競争力を保持するためには大都市という集積の利益が働く地域をもつことが重要だ。しかし、経済学の教科書で「投入労働量」と、抽象的な概念として導入される労働力とは異なり、現実世界の労働者はやがて老い、終末のときを迎える。つまり、大多数の労働者が出身地に帰り職業を探す行動を取らないかぎり、高度経済成長と急速な都市化の代償として、都市部の高齢化は急速かつ劇的に訪れるのである。

戦後日本経済が成長軌道に乗ったのは1950年代前半の朝鮮特需以降のことだ。経済が軌道に乗りはじめた55年には、保守政党が合併することで自民党が結党され、政治の安定性も確保された。ここでいわゆる55年体制が確立される。当時、自民党の前身となった保守政党の得票率を合計すると6割近く、たとえ急速な都市化を経験したとしても、自民党が容易に政権を維持するであろうことは自明であった。

政治の55年体制は、経済の55年体制と表裏一体であった。データの存在する1958年以降の都道府県別行政投資実績をみると、当時は大都市圏での経済インフラへの支出が目立つ。本格的に経済成長を促進するための政策が取られたのである。当時、太平洋ベルト地帯を中心に新幹線や高速道路が開通し、その建設資金として世銀からの融資が用いられた。1960年代、日本の人口一人当たり所得の成長率は年率で9%に達し、人口も急速に都市化を遂げたのであった。

経済の「73年体制」と地方の停滞

しかし経済の55年体制は、政治の55年体制を弱体化させるものであった。急速な都市化は、農村に基盤をもつ自民党支持基盤の縮小をもたらした。60年代を通じ、自民党の得票率はフリーフォールが続き、70年代前半に差しかかる頃には国政選挙での保革伯仲が現実のものになり、衆参両院の定数格差によって、自民党が過半数議席を維持するような状況がつづくことになった。

じつは、この自民党長期低落傾向に一定の歯止めをかけたのが、73年のオイル・ショックと変動為替相場制への移行による長期的な円高傾向であった。この時期を境に、経済成長促進型の政策は大きく転換し、地方での雇用確保を目指した支出に予算が使われるようになる。

筆者は、この経済構造の転換以降を便宜的に「73年体制」と呼ぶことにしている。全国的に、都市部への人口移動は鈍化し、冬期間は出稼ぎに出ていた兼業農家が、地元のスキー場や工事現場で働きながら冬をすごすようになった。しかし、都市部への人口移動が鈍化したということは、残念ながら、地方に持続可能で競争力のある産業基盤が形成されたことを意味するものではなかった。

公共事業は地方で雇用の受け皿を創出したが、事業支出の対象は高速道路や新幹線など経済インフラというよりはむしろ、ダムや農業土木など支出を自己目的化するような分野に対して、非効率なかたちでなされた。農業政策もコメ減反に象徴されるように、小規模の兼業農家戸数を維持することに汲々とし、決して農業全体の競争力を高めるものにはならなかった。

地方の産業構造は必ずしも重層的なものにはならず、大学を卒業して地元でふさわしい就職先をみつけようとすると、公務員と教員以外に選択肢がないという状況がつづいた。結果として、田舎で育った若者が、都市部に出て就職する状況は変わらなかった。そしてバブルの終焉と、長期的な円高傾向によって、地方の製造業が空洞化し、海外に流出する傾向に拍車がかかった。地方に仕事がない状況に変わりはなく、結局は田舎で育って都会で老いることを余儀なくされる場合が多かったのである。

しかし田舎から都会に出てきた第一世代にとって、近親者のいない都会は、子育てのための社会基盤が脆弱なだけでなく、長時間の勤務や通勤が強いられる状況があり、結果的に出生率の低下が進むことになった。それだけでなく、同時並行で進行していた晩婚化や非婚化も都市部で早期に進行しており、長期的には少子高齢化を加速させることになった。この時期に多様な生活様式を自ら選択したことで、意図せざるかたちで孤独な老後を送ることになった事例も多いのかもしれない。

出生率の低下は都市部でより急速に進展したが、このことは、結果的に自分の老後を支えてくれる子どもの人数が、都市部において相対的に少なくなったことを意味する。つまり「都市部で育ち、都市部で老いる」ことは、少なからぬ場合、孤独な老後を生きる選択であった。しかも引きつづき「田舎で育って都会で老いる」パターンを歩む現役世代が、人数としては増大していったのである。

孤族問題へ、地域政策からの視点

孤族問題は、少なくとも部分的には、不況の長期化にともなう貧困により発生している。これについては、基本的にマクロ経済政策によって対応すべきものである。たとえば、デフレ脱却が最重要課題なのはもちろんで、日本全国の景気回復を図るべきなのはいうまでもない。この点を無視して、個別の対症療法で救済することを優先する発想には疑問をもつ。

しかしその一方で、孤族出現の直接のきっかけになっているのは、都市部の急速な高齢化であり、これを後押ししたのが、都市部に人もモノも金も集め、それを地方に分配する自民党型公共政策モデルであったことも忘れてはならない。

田舎で育ち都市で老いることがライフ・コースとして一般化しただけでなく、都市部は子育てのしにくい地域でありつづけた。結局は、自分の縁者と離散したまま老いることを、半ば自ら選択しつつ、半ば状況から迫られたかたちで、孤族が大量発生したのである。

日本の高度経済成長は、人類がそれまでに経験したなかで、もっとも急速かつ長期間にわたる都市化をともなったといえる。そして、引きつづいて少子化が起こった。この裏返しとして、日本の都市、とくに首都圏は、これまで人類が経験したことのなかった速度で高齢化する。

考えてみれば、高校を卒業したときに、井沢八郎「あゝ上野駅」(1964年)が流行していた世代は、今年もう60歳代前半である。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」は1976年に流行したが、この時期に高校を卒業して「東へと向かう列車で」都会に出て行った若者も、今年で53歳。もう十数年で高齢者人口の仲間入りである。つまり、孤族は未曾有のスピードで進む高齢化の入り口に差しかかったなかで、とくに都市部で表出した問題なのである。

このように、高度成長期を支えた農村部から都市への人口移動も、時差をともなって社会的な費用を顕在化させることになった。もちろん、積極的に都市部での自由として孤独なライフ・コースを選択したのであれば、これは責められるものではないかもしれない。しかし問題は、積極的選択ではなく、貧困や結婚の機会に恵まれなかったなどの理由で、望まないかたちで孤族になることを強いられた事例が多々あることであろう。

田舎で育って田舎で老いる、都会で育って都会で老いる、しかも家族に囲まれながら老いるパターンを取り戻す。これを容易にする政策がいかなるものか、構想しなければならないのではないか。国勢調査統計をみれば明らかなように、核家族化は、都会でも田舎でも進行していた。一方で正確な統計はないものの、何かあったときにすぐ駆けつけられる、いわゆる「スープの冷めない距離」で暮らす人口は、「田舎で育って都会で老いる」パターンの増加にともなって、急速に減少したと思われる。

孤族問題の解決には、家族や共同体をどう再構成していくのか、共同体の集合としての地域とこれを支える産業構造をどうデザインするのかという基本構想を忘れてはならないだろう。家族の絆だけでなく、「遠くの親戚よりも近くの他人」という地域共同体の絆や、経済的取引すなわちサービス産業を通した絆など、多様な選択肢を模索していかなければならないのであろう。

日本での孤族出現の経験は、これから同様の状況に直面するだろう途上国にも、多くの教訓をもたらすと予想される。この意味で、孤族の国の問題は、全世界が見守っている課題でもある。

プロフィール

斉藤淳政治学

J Prep 斉藤塾代表。1969年山形県酒田市生まれ。山形県立酒田東高等学校卒業。上智大学外国語学部英語学科卒業(1993年)。エール大学大学院 政治学専攻博士課程修了、Ph D(2006年)。ウェズリアン大学客員助教授(2006-07年)、フランクリン・マーシャル大学助教授(2007-08年)を経てエール大助教授 (2008-12年)、高麗大学客員助教授(2009-11年)を歴任。これまで「日本政治」「国際政治学入門」「東アジアの国際関係」などの授業を英語 で担当した他、衆議院議員(2002-03年、山形4区)をつとめる。研究者としての専門分野は日本政治、比較政治経済学。主著『自民党長期政権の政治経済学』により第54回日経経済図書文化賞 (2011年)、第2回政策分析ネットワーク賞本賞(2012年)をそれぞれ受賞。近著に『世界の非ネイティブエリートがやっている英語勉強法』など。

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