震災後の日本社会と若者

デモは若者がやるものではない

 

小熊 ご新著の中で、原発デモの取材に行って意外と年長者が多かったと書かれていましたけれども、ずいぶんと古い感覚してるんだなと思いました。若者は政治に一番無関心な層だというのは、1970年代以降は定説です。知識もないし、生活の厳しさも実感していないからです。

 

昔は若者が政治に敏感だった時代がありました。ただそれは、大学生が敏感であったという意味で、一般的に若者が敏感だったわけではありません。大学生はどの国でもかぎられたエリート層だったので、我々がこの国を引っ張っていかなければならない、我々が立ち上がって政治を変えていかなければならないという使命感が高かった。しかし、それは大学進学率が10パーセント台ぐらいのときまで、日本でいえば1960年代までしか続きませんでした。韓国なんかでも80年代末はそうでしたが、それもどんどん変わってきています。

 

日本の68年というのはその境目の時期でした。しかし今どき、大学生に自分は特権階層だから立ち上がらなければなんて使命感があるわけがない。あとは知識と経験の不足があるだけですから、必然的に一番鈍い層、一番デモに来ないはずの層だと思う。もちろん、そういう統計的多数像が当てはまらない人は、いくらでもいるでしょうが。

 

古市 でも、僕と同じような感覚を持っている人も思かったと思います。オキュパイ・トウキョウにしても「若者のデモ」というかたちでメディアでは括られましたよね。

 

小熊 単に60年代末に作られたイメージの残存です。「世界を変えるべく立ち上がるのは若者だ」とかいうのは。

 

古市 その通りだと僕も思います。オキュパイ・トウキョウは僕も見に行ったのですが、20代はほとんどいなかった。参加者のほとんどが中高年でした。

 

小熊 当たり前だと思います。大学生は気楽な状態の人が多いし、20代のフリーターでもまだよくわかっていない人が多いから。雨宮処凛さんも赤木智弘さんも、30代になったときに変わったわけですしね。

 

古市 学生運動をテーマにした映画『マイ・バック・ページ』の論考で、小熊さんは「後ろめたさ」をキーワードに論じられていました。その後ろめたさというものは、今の大学生でも持っていると思います。

 

小熊 あると思いますが、それは遠い国とか、被災地とかに対するものでしょうね。そこでボランティアをすることで、自分が承認される機会を得たいとか。自分の状況は、よくわかっていないか、悪いとすれば自己責任だと思っている。

 

承認の機会を得たかった点は68年の日本の若者も変わらないですが、日本の68年の若者の場合は、国内的な貧困への後ろめたさがありました。たとえば自分の村で大学に行けたのは自分だけだとか、自分より優秀だったけど学費がなくて行けなかったやつがいるとか、そういうことを知っているんですね。しかも、大学生がまだエリートたるべきという価値観から抜け出せていない時代ですから、自分は特権階級だという感覚が強まった。

 

しかし68年前後には、日本だけでなく他の先進諸国でも学生運動が起きています。景気もよかったから大学生以外はみんな安定していて、大学生以外は動かなかったんですね。

 

古市 当時も若者が一番安定していない状況にあったということですか?

 

小熊 雇用は良かったから、経済的に安定していないという意味ではありません。大学生以外は、年下だったら校則のある高校に通っているし、年長だったら会社勤めをしているか、お嫁に行っているかなんです。人生の自由期間が18歳から22歳の大学生にだけあった時代です。そのときに突発的に大学生の運動が起きたのですが、学生以外には広がらなかった。学生も22歳になると就職するかお嫁に行って政治活動から引退してしまう。あの時代は、30代や40代がデモに来てくれない、労働者が立ち上がらないとだめだ、ということが悩みだったんです。

 

古市 逆になぜ今のデモは年配の人しかいないのでしょうか。

 

小熊 あの頃の運動の残滓をひきずっている人たちが今もやっているのが一因でしょう。しかし最近のデモを見ていると、たとえば「素人の乱」の主催デモなどに来ていたのは主に30代です。30代になると知識も経験もあるから、社会意識が高くなるのは当たり前の話です。そして68年と違うのは、30代で自由度の高い人が増えたことです。スーツ姿の正社員ではない30代、会社の縛りが強くない30代が、いろいろな意味で多くなったということですね。

 

今の時代に20代前半の大学生がデモに来るとしたら、「社会に対して意識を持たねばならない」とか、観念的なかたちで問題意識を持ってということが多いのではないでしょうか。もちろん大学生でも自分の状況に本当に困っている人たちはいますが、観念的に問題を考える人は、社会参加の機会を探しているわけですから、題材は何でもいい。カンボジアにボランティアに行こうか、脱原発のデモに行こうか、フジテレビに韓流ドラマの抗議に行こうか、みたいな選択になると思いますね。

 

古市 20代の政治離れは仕方がないとすれば、30、40、50代の人たちが勝手に社会を変えてくれればいいと、とりあえず若者は座視していればよいということになりますか。

 

小熊 任せておいたら中高年に都合のいいようにしか変わりませんよ。

 

 

変革主体は若者ではない

 

古市 高円寺で4月10日にあった脱原発デモは20、30代が多くて、逆に5月以降の脱原発デモは、労組などの看板や旗を掲げた昔ながらの人が多かったと思います。しかもそれがお互い交わっていなかったのが印象的でした。

 

小熊 政治文化が違うのだから、無理に交わる必要もないと思います。

 

私のところに、最近のデモについてどう思うかといった取材に新聞記者がよく来てくれますが、「大学生は立ち上がっているんですか」とよく聞かれます。いまだに40年前の68年のイメージが強いんだなと思いますね。

 

古市 先ほどもあった「若者が変革主体である」というイメージを引きずっているということですね。

 

小熊 そうです。社会運動はこの20年ぐらい停滞していて、あまり最近の現物を見たことがないから、いまだに68年のイメージに縛られているんでしょう。大学生やミュージシャンが立ち上がってくれるんじゃないか、と思っているようです。

 

68年のようなカウンターカルチャーは、今ではありえないでしょう。68年の頃は、本来ただの商品だったジーンズやロックミュージックが、若者だけが享受しているものだったために、年配者に対するカウンターカルチャーになったんです。「エレキを弾いていれば不良」という時代でしたからね。ファストファッションのブランドが68年をうたったり、年長者もジーンズをはいていたり、ロック雑誌の表紙に70代の人がなる時代に、ファッションや音楽がカウンターカルチャーになるわけがないですよ。

 

古市 現代において、当時にカウンターカルチャー的なものを担保するとしたら、どこから出てくる可能性があるのでしょうか。もはやそんなものはありませんか。

 

小熊 今どき若者だけが享受しているカルチャーなんてありますか。

 

古市 ないですね。あらゆるカルチャーは年齢に関係なく遍在してしまっています。

 

小熊 たとえば北朝鮮みたいな国だったら、ロックミュージックを聞いているのが最大の抵抗だということはありえます。

 

古市 日本では何をしても、もはや抵抗にはならないんですね。

 

小熊 でも、タブーはいくらでもあるでしょう。

 

古市 タブーを出していくということですか?

 

小熊 どういうかたちで出すかを考える必要がありますけどね。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.272 

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