グローバル人材とは誰か?――若者の海外経験の意味を問う

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「自分探し」と「グローバル人材」の〈格差〉――インタビュー調査から

 

もう1つの、加藤が担当したシドニーとバンクーバーでのインタビュー調査は、海外に出てくる日本の若者たちの人生で海外経験がどのような意味をもつのかを、フィールドワークに基づき考察するために実施された。調査地のシドニーとバンクーバーは、日本の若者たちにとって海外渡航形態であるワーホリと語学学習の行き先としてもっとも身近な都市である。インタビュイー数はシドニー50人(2011―14年)、バンクーバー127人(2001―14年)だが、後者のデータは、シドニーでの調査とほぼ重なる期間に聴取した30人のものになるべく絞っている。

 

 

シドニー、ハイドパーク(2014年2月22日)

シドニー、ハイドパーク(2014年2月22日)

 

 

インタビューを通じて探ったのは、30歳前後で人生に行き詰まりを感じ、「本当にやりたいこと」を自省した結果、「海外に住む・働く」「英語」に行き当たった若者たちにとって、渡航先の国々がどのような場なのかということである。観察されたのは、余暇と労働、若者と大人、一時滞在と永住という、一見対立的な概念の境界線が、若者たちのあいだで次第にあいまいになっていくこと、また海外滞在が長引くにつれて、「やりたいこと」「仕事」「自分」が三位一体化していくことである。

 

では、近年すっかり日常語となった「自分探し」と「グローバル人材」は、それぞれどのような歴史的・社会的背景から生まれた言い回し・概念なのだろうか。

 

主にメディアでの言説の分析を通して考察すると、「自分探し」は、バブル景気崩壊後の20年間にわたる不景気(若者にとっては「就職氷河期」)に浸透していった言い回しであり、今日も「~な自分になる」といった変型を通して広く流通している。そのかたわら、「グローバル人材」は、もともと一企業の人事制度を指す語だったところ、「若者の内向き志向」を主張する一調査をきっかけに、若者全般への批判・叱咤に使われるようになったことが指摘できる。

 

注目すべきは、一見すると若者全般に向けられている「自分探し」「グローバル人材」という語が、実際にはきわめて階層化・ジェンダー化した広まり方をしていることである。「自分探し」は、日本国内の労働市場で周辺化されやすい非特権層(と)女性たちに向けて呼びかけられやすく、彼(女)たちもそれを求めやすい。1980年代以来の「語学やワーホリといえば女性」という現象、および留学産業の女性化は、彼女たちが「自分探し」の場を海外に広げた結果といえる。

 

一方、2010年以来、産官学が唱える「グローバル人材」育成は、国家・男性・大企業中心主義的な、いわば特権層向けの言説であり呼びかけなのだが、これに応えられる人口は少ない。「自分探し」を目的として海外渡航する人々(「自分探し移民」)と、企業・政府が求める「グローバル人材」は、ジェンダー(と)階層によって分離されているのである。

 

ここまでの議論を踏まえ、はたして日本がグローバル化に向かっているのかを吟味しながら、若者と日本社会(特に企業文化)、教育は、それぞれどのように変わるべきかを考えてみたい。

 

ここで「自分探し移民」や「グローバル人材」に代わってキーワードとなるのが、「グローバル市民」である。過去30年来、日本社会は海外経験がある若者たちを十分に活用してこなかったが、彼/彼女らの多くは高い自己肯定感や自己推進力をもっている。そうであれば、(大)企業に雇われるか否かを問わず、またそもそも日本に戻ってくるか否かを問わず、彼/彼女らはいまいる場所で、そこをよりよい場所にするよう努める「市民」であればいい。それが結果として、日本とその外をつなぎ、日本社会にも益することになる。

 

ただし「市民」であるためには、日本語や日本文化が自明視する「我を張らない」態度ではなく、西欧言語的な、常に「われ」を主語とする態度が必要である。また日本社会も、多様なライフコース、キャリアの不連続を認め、若者が一生をかけて自己を育てられる土壌となるべきである。

 

 

「内向き」な「グローバル人材」というねじれ

 

以上の分析から浮かび上がるのは、「グローバル人材」という概念がきわめて「国内性」(国際性ではなく)をもつということである。どの若者にも「グローバル人材」になることが求められているかというと、必ずしもそうではない。高学歴層であったり大企業勤務であったりというような(しばしば男性である)若者たちが「グローバル人材」になることを期待される一方、特に高学歴ではない女性たちや男性たちが、人生の活路を求めてワーホリなどで海外に出て、その後帰国したとしても、それは典型的な「グローバル人材」とはみなされない。

 

結局、大学を卒業してすぐ企業に入社し、そのまま長期間にわたって勤務し続けるというキャリアのあり方が、日本社会でいまなお規範的なモデルとみなされていることが、若者の海外滞在への評価にも大きく影響している。実際に若者に課されているのは、「規範的なキャリアモデルに従いながら、それから逸脱しない程度に「外向き」であること」という、複雑な要求なのである。

 

若者の海外経験をめぐる議論は、結局のところ、従来の規範的なキャリアモデルが根強いために、多様な経験を積んで多様なキャリアを歩む若者たちの増加に対し、日本社会のさまざまな側面で対応が追いついていないことに由来している。シンプルに言うならば、問題は若者の側にあるのでもなければ、海外云々にあるのでもなく、日本社会の側にあるのである。

 

一人ひとりの海外経験の有無や程度は「外向き」や「内向き」といった志向に還元しきれるものではなく、それぞれが置かれた社会的な状況の帰結として成立している。だからこそ、長期の海外滞在経験など、規範的なモデルにとどまらない多様なキャリアのあり方を、否定的にとらえずにフェアに位置づけていくことが、日本社会に求められているのではないだろうか。それは同時に、日本社会が、若者を「グローバル人材」ではなく「グローバル市民」として育む場になっていくことにもつながるだろう。

 

 

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