東京に部落差別はない?――見えない差別を可視化するBURAKU HERITAGEの挑戦

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 「わたし」の体温がこもったリアルな言葉がもつ力

 

部落差別はある。しかし、その事実を知らない人や、リアリティをもてない人たちがいる。「差別をなくす」以前の問題であるこのギャップをどうしたら埋められるのだろうか。そのアプローチのひとつとして部落問題と関わっている友人たちと2011年に立ち上げたウェブサイトがある。

 

「わたし」から始まる「部落」の情報発信サイトBURAKU HERITAGEである。

 

メンバーは、自分の状況を明らかにしたうえで、自分の感じていることを「わたし」として発信する。「わたし」を軸に発信することで、差別を受けているリアリティを伝えることができると考えているからだ。

 

「今ここに暮らしているこんな『わたし』のこと」としてひとりひとりの声を提示することが、なかなかもたれにくい「リアリティ」を伝えるために有効だと考えるからだ。

 

例えば、週刊朝日で当時大阪市長であった橋下徹氏の出自に関する記事が書かれた問題を受けて、BURAKU HERITAGEサイト内で、「部落の名前や場所を、報道することってアリ?ナシ?」という座談会記事を公開した。以下、一部を引用する。

 

 

たみ この中で、実際に今現在部落に住んでるのは、みどりんとC?

 

みどりん 生まれ育った部落には、今は住んでない。春から実家に戻るからまた住むことになるけど。

 

C 住んでる。

 

たみ 自分が住んでる部落の地名が雑誌とかで出されるのはどういう感覚?

 

C 問題ない。お父さんとかBH(BURAKU HERITAGEの略称)とかセーフティネットがあるから。自分に関してだけだったら問題ない。差別されるのはイヤだけど、自分のルーツや家族を誇りに思っているし、何も恥じることはないから。

 

たみ それはでも「自分に関しては」なんだよね?

 

C うん。そう、自分にはセーフティネットがあるからそう思えるんだと思う。でも、部落出身を隠したい人がいて、地名が公表されることによって差別される恐怖を感じてしまうんだったら良くないのかなと思う。

 

みどりん 地名を出す、とか、出てOKとする、というのは、地域ぐるみでのカミングアウトみたいな意味をもつと思うねん。

 

たみ なるほど。

 

みどりん 例えば、地域のリーダーが、地域の取り組みを取材してくれた新聞やテレビに「この地域は○○市の●●」という情報を出してOKと言って、実際に報道されたとするやん?その場合でも、住民全員に同意をとって出すのは無理やんね。

 

同じように、私個人が、自分のこととして、地名や場所を含めてカミングアウトしたら、同じ地域の人のことも、カミングアウトしちゃった意味合いを自動的にもってしまう。それは難しいことだな、と思う。けど、実際は、ええい、言っちゃえ、と思って言ってる。

 

たみ 躊躇したりとかはあまりなく?

 

みどりん 最初はあまり、そのことの意味に気付いてなかったんだけど、気付いたときは躊躇は、した。

 

たみ でもまたそこから変化があって今は言っちゃえ!になってる?

 

みどりん 今は、やっぱり差別を避けるよりも、オープンにして発信していくほうが大事だと、考えてるからかな。

 

たみ それで地域のほかの人に何か言われたりとかはない?

 

みどりん 今のところは。

 

C さっき言ってた難しいっていうのは、どのへんが難しいと思うの?

 

みどりん 私のことやけど私のだけのことじゃないから。

 

りゅうし でも「わたし」のことでもあるやんなー。わたしってみどりんのことね。

 

(中略)

 

たみ あと私は、隠したい人は地名をオープンにされることに対してどう思うのかなっていうことを、どうしても考えちゃう。私自身は隠したらいいと思っているわけじゃないんだけど、隠したいっていう人の権利はどう守るのか、守れないのか、守られないのか…。

 

りゅうし オープンにしたい人と隠したい人がぶつかるね。

 

たみ そこがひっかかって、私はイマイチ、オープンでいいんじゃない?とは開き直れない。

 

みどりん だから、「私のことでもあるんだから、勝手にオープンにしないで」って言われたら、謝ると思う。単純に、ごめんなさい、ってなる。

 

りゅうし でも、出したい私もいると。

 

たみ 引き裂かれる感じだね。気持ち的にも。

 

 

これをまとめると、「個人として自分の住む部落の地名を表明したのだとしても、それは結果的にその地域に住む人すべてを巻き込むことになる。表明したい人と隠したい人の想いは両立し得ない」という数行で済むのかもしれない。

 

しかし、そんな顔の見えないコンパクトな情報としてではなく、一人ひとりが自分の言葉で、自分の想いや細かいディテールを語ることで、その言葉に体温が宿り、それこそがリアリティのある情報として伝わるための力となるのではないか、と私は考えている。

 

さらに、最近ではウェブでの活動にとどまらず、フィールドワーク、ワークショップ、トークセッションなどのイベントを開催し、実際に部落問題や部落出身者・関係者の意識に直接触れたり意見を交わしたりする場をつくることにも力を入れており、今後は部落に限らず様々なマイノリティの子どもや親たちのセーフティネットとなるような子ども会活動を立ち上げることも計画している。

 

私たちの活動は、大きくも派手でも早くもなく、小さくて地味で、そしてゆっくりだ。メンバーひとりひとりが、仕事をしたり、ご飯を食べたり、遊びに行ったり、映画を観たり、そんな生活の一部として自分たちにとってリアルなスタンスで取り組んでいると、どうしてもこんな風になってしまう(実際、ウェブサイトの更新も度々止まる……)。

 

でも、それでもいいのかもしれないな、と思う。大義名分ではなく、「わたし」がリアルだと思う情報を、「わたし」を主語にして、「わたし」の生活の一部として伝えていく。それは、部落問題を「教科書の中の話」から「あそこに暮らしているあの人の話」へと変化させてくれる力をもつ。それは小さくても力強い確実な前進なのだという確信を、BURAKU HERITAGEを運営してきたこの5年で感じているからだ。

 

BURAKU HERITAGEのHERITAGEには、遺産・財産という意味がある。

 

「差別する・される」という文脈でみれば部落問題は「負の遺産」だ。しかし、その事実と向き合い、自分たちが生きる社会をどうつくっていくのかという方向に活かすのならば、それは「財産」に転じる。どちらを選択するのかは、私たち次第だ。いや、この社会に暮らす、すべての「わたし」次第だ。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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