PRは悪なのか?――パブリック・リレーションズの歴史社会学

PR(パブリック・リレーションズ)、私たちが日常的に耳にするありふれた言葉だ。しかし、このPRこそが社会の形成に大きく影響を及ぼし、またその様相を鏡のように映し出す。『パブリック・リレーションズの歴史社会学――アメリカと日本における〈企業自我〉の構築』で、PRの基本構造を解き明かした河炅珍氏が、社会学者の開沼博氏とともに、PRという切り口から現代社会を解き明かす。(構成/服部美咲)

 

 

「HOW」の前に「WHAT」を考える

 

開沼 『パブリック・リレーションズの歴史社会学』は重厚でありながら、とても面白い本でした。河さんの長年の研究の対象であるPRというテーマですが、これは現代社会において、両義的な、興味深い存在だと思うんですね。

 

一方では、かつてのようにはモノが売れない、人も集まらない社会になっているなかで、例えば地方自治体が斬新な切り口でPRをおこなってインターネットで話題になるなど、最先端の明るい雰囲気を持っている。他方では、PRという概念には、企業や政府が秘密裏に意図を広めるような不純な、生臭いイメージもまとわりついている。ここを掘り起こしていくなかで、恐らく現代社会の根底に存在する、社会を動かす重要なメカニズムが見えてくるように思うんですね。

 

河さんは、なぜPRの研究をされているのでしょうか?

 

河 まず、個人的な理由から言えば、学部時代、私はPR・広告を学んでいました。卒業後は広告やPRの会社で働こうと思っていましたが、当時の私には「PRはそもそも何なのか」という問いに答えることができませんでした。そこで、まずはこの問いに答えてみたいと思い、研究の道に進みました。

 

本書の必要性をもう少し社会全体に広げてみると、近年、PRや広報、さらにCSR、ガバナンス、コンプライアンスなどの言葉が示すように、経済的主体・行政的主体の区分にかかわらず、ほぼ全ての組織にとってコミュニケーションはきわめて重要な問題になっています。でも、そのなかでも重要な位置を占めているはずのPRについて、「それはそもそも何なのか」という問いにはっきりと答えてくれる学術的な研究書はやはりありませんでした。

 

開沼 なるほど。PR自体は、社会に広く広がった概念だし、ビジネスのツールだし、研究の対象でもある。書店のビジネス書や経営学の棚には、すでにマーケティングやPRの本がたくさんありますね。でもそのなかには河さんが求める答えがなかったということですね。

 

河 そういえば新宿の紀伊国屋に行ってみたら、本書は経営学とマーケティングの隣の棚に並んでいました。おそらく「PR」とタイトルに入っているからだと思います。同じ棚には、PRのいわゆるハウツー本がズラリと並んでいました。もちろん、そのなかに、PRの理論的・歴史的な部分に触れている本が一冊もないわけではありません。でも、メインはあくまでも、「優れたPRが実践できる方法」を教えることが目的で、PRを「経営の実践に役立つ技術」として捉えている場合が多い。このような傾向は、アメリカのPR関連書籍に関しても言えることです。

 

これまでのPR研究は、その歴史から概念を抽出したり再構築したりすることよりも、むしろ、その手法における効果に焦点が置かれてきました。そのせいか、PRは、広告やプロパガンダと混同されてきました。手法だけなら、広告もプロパガンダもジャーナリズムも、とても近接していますから。

 

ただ、何かの概念を論じるとき、そもそも「WHAT」(これが何なのか)を理解せずに「HOW」(どのようにするか)を考えてもしかたがありません。従来の実践的・技術的な議論を超えたところで、「PRの概念とはそもそも何なのか」ということを、理論的・歴史的に議論してみたいと思いました。

 

開沼 言い換えると、PRについて、目的をもって何かを実現するために「どうするべきか」という方法として工学的・経営学的に研究する人はいたけど、そもそも「どうあるのか」という科学的・社会学的な研究が不足していたということですね。

 

河  そうです。研究者として、「人がまだやっていないことをやる」ということは重要ですね。それと同時に、研究を進めていくうちに、PRという現象やコミュニケーションの様式そのものが、現代社会の構造・メカニズムを理解するカギになることを確信するようにもなりました。企業や政府をはじめとするあらゆる組織は、なぜ必死にPRをするのか。なぜ彼らはPRを必要とするのか。

 

本書の見方でいえば、PRは、それを行う主体の〈自我=アイデンティティ〉に密接に関わるものです。すなわち、PRという概念は、現代社会の――厳密には、現代社会を構成するアクターたちの――非常に特徴的な問題を体現しています。ただし、そこにたどり着くためには、既存のPR研究や広告研究、プロパガンダ研究の視界を超えなければならないと思いました。また、それらを超えたときにもし新たに見えてくるものがあれば、それは「HOW」的な知識・技術にも役に立つのではないかと思っています。

 

 

510cYx6lsVL._SX353_BO1,204,203,200_

 

 

経営学と社会学に橋をかける

 

開沼 にも関わらず、今回の本は、書店で書店員さんに、「役に立ちそうなPR」の本という棚に分類されてしまった。そうするしかなかったということなんでしょう。であれば、あえて聞きますが、実際のところ、この本は何かの役に立つのでしょうか?

 

河 本書の読者としては、まず、自分が携わる分野の専門知識を身につけようとしているPRの実務家たちが想定できます。彼らが顧客や同業者から「PRって何?」と訊かれたときに、狭い意味での「PRとは何か」だけでなく、その必要性や社会的な意味を、歴史的・理論的に語ることができるようになる。そういう意味で、本書は実用的な場面でも役立つと思います。

 

また、本書は、実務だけでなく、社会学の観点から現代社会を考えていく上でも役に立ちます。たとえば、本書は今までわりと分離されていた、しかし現代社会の顕著な特徴である、マネジメント研究(経営学)とマスコミ研究(社会学)という二つの領域を架橋します。

 

現代の資本主義社会を象徴する「企業」という組織体を中心に考えるマネジメント研究において、いままでPRは道具の一つとみなされてきました。一方で、マスコミ研究において、PRは商業的かつ企業から社会への一方向的なコミュニケーションとされ、周辺的なものとして扱われてきました。まったく別の系統で成立したこの二つの議論が、しかし、「PR」というフィルターをあてることで、緊密につながります。

 

本書で述べているように、現代社会において、企業などの組織は、〈自我=アイデンティティ〉を維持形成するためにPRを行います。そして読み進めると、マスコミ研究でいうところのオーディエンス、つまり〈他者=パブリック〉が、組織の〈自我=アイデンティティ〉とともに想像され、また創造されていく過程が浮かび上がってきます。

 

開沼 そこの接合をしているのが本書の大きな価値ということですね。今回の研究では、恐らくこれまでの経営学的、一般ビジネス書的な切り口として多用されてきた共時的な分析、つまり、PRの流行や成功事例の紹介ではなく、通時的に、PRが生まれたであろう19世紀のアメリカから、現代につながるPRの根本にあるメカニズムを見ようとしていますね。

 

まず、この「19世紀のアメリカがPRの起点である」ということ自体、PRの議論の初心者の私には「そうなんだ」といろんなことを考えさせられました。このことは、研究の初期から発見できていたのですか?

 

河 PRの原点をローマ帝国にまで遡って考える研究者もいますが、個人的には19世紀半ば以降の産業社会と大衆情報社会を背景にその成立を考えるのが自然だと思います。その一つの理由として、PRという概念やその技術的土台が、ジャーナリズムに根づいて出発していることが挙げられます。商業的で、かつニュースの生産・流布過程が制度化したジャーナリズムが成立する社会、すなわち情報社会がまず必要です。

 

このようなジャーナリズムの発達は、イギリスやドイツ、日本でも見受けられます。にもかかわらず、なぜアメリカなのか。19世紀半ば以降、アメリカでは、イギリスやドイツ、日本とは違う形で、社会全体をまとめる組織としての巨大企業が現れました。アメリカは移民社会であり、その爆発的な成長により、それらの巨大企業は自らの組織のなかに多様な人々を労働者・従業員として抱えるようになりました。PRは、このいわば内なる〈他者=パブリック〉である労働者・従業員を捉え、彼らを鏡として巨大組織の〈自我=アイデンティティ〉を生み出すところから出発しています。

 

このように、動機と目的を持つ組織が現れ、その動機と目的が実現する技術やメディアの状況が整えられたのが、19世紀末以降のアメリカ社会です。ここは研究を進めながら、ある程度歴史的状況を把握した上で、理論的な枠組みを設定したおかげで整理できた部分もあります。

 

 

河炅珍氏

河炅珍氏

 

 

トランプ現象の普遍性

 

開沼 まず、アメリカ社会の特徴がPRという非常に特異な社会現象を生んだという点が、とても面白いなと思いました。

 

イギリスのように、私的なものとして企業がある社会と、逆にドイツのように、法的なものとして企業や資本主義を発達させてきた社会とがあり、アメリカはその両者の間をとってやってきた。そこに、国民の多様さゆえに簡単にはまとめられない何かがあって、PRが生まれた。

 

現代の問題に引きつければ、トランプ政権誕生の背景を見てもわかるとおり、アメリカでは多様な国民をとりまとめる夢を見せるようなPRが効くし、ときにはそれが効きすぎてしまう。河さんの研究を見ると、あたかもトランプ現象が前代未聞の新しい現象のように語られているのが大嘘だと気付かされました。

 

PR研究者としては「普遍的な現象が起こっている」と、結構冷静に見ているのでは?

 

河 やっぱりそうだと思いますよ。トランプ現象は、政治学者が見るとありえないことなのかもしれないし、また世論調査の研究者からすると、いかに世論調査というものが当てにならないかということの証拠にもなりうる。もしくは、人がいかに自分の信じたいことだけを信じるのか、というような、否定されるべきであり、また否定しなくてはならない問題や現象も含んでいると思います。当然ながら民主主義の理念からも、トランプの今の言動には明らかに問題となる要素を含んでいることが指摘されます。

 

ですが一方で、この現象の基底にある、世論が形成されるプロセスに注目すれば、アメリカ社会で政府と市民の関わり方に対する基本的姿勢は、100年前にはすでに成立していたと言えると思います。それが徐々に洗練されていき、同時に調査技法も発達していく。本書の第4章で述べた、ニューディール政策を進めたルーズベルトのやり方を、現代ではトランプのそれと比較すれば、大統領と彼を支持する有権者との心理的な結びつけ方を歴史的に論じることもできます。

 

そう考えると、トランプ現象を、トランプという政治家の性質の良し悪しとは別の基準で、アメリカ社会の政治的コミュニケーションにおける特徴的な問題として捉えなおすことも可能だと思います。その上で、PRやジャーナリズムに対する大統領や政治家の関わり方についても改めて考えてみたいですね。

 

 

変遷する「忘れられた人々」

 

開沼 その4章がまた興味深い。書店で本書を手に取ったら、まず4章だけでも読むといいと思いますが、ここに「忘れられた人々」という言葉が出てきます。そもそもこの本はトランプ現象前に書かれているし、この言葉はトランプと直接関係ないところで出てきますよね。でも今、これがぴったり当てはまる。PRの本質を端的に表すキーワードだと思います。ニューディール政策がそうであったように、「忘れられた人々」の発見が進める社会の変化が、今起こっていることは間違いない。

 

河 ニューディールはきわめて成功した政治・経済的キャンペーンだと思います。アメリカだけじゃなく、第2次世界大戦後は、日本を含め、世界各国でニューディールは拡大再生産されてきました。もちろん、ルーズベルトはトランプに比べたらはるかに国民的尊敬をあつめ、愛され続けている大統領ですので、この二人を単純に比較するのは難しいでしょうけれど。

 

本書では「アメリカの大統領が、いったい『誰』に向かって語りかけるのか」を検討しています。ルーズベルトは「忘れられた人々」に向かって語りかけました。この「忘れられた人々」という言葉は、もともと中産階級の納税者を指していましたが、ルーズベルトは同じ言葉を使って、まったく違う階層である貧しい人々や農村地域の人々を捉え、彼らを自分が語りかけたい〈他者=パブリック〉として見出したのです。

 

そして、こう呼びかけました。「私こそがあなたたちを救うことができる」と。その上さらに、「私はあなたたちの友達なんだ」と言ったのです。支配者や権力者じゃなく、「友達」なんですね。この、有権者や支持者との間における「フレンドリーさ」は、アメリカ政治の特徴でもあります。ヒラリーが負けた原因の一つとして、彼女のエリート主義、大衆が近づきにくいという印象が弱点となったという指摘もありました。そういう意味でトランプは、皮肉にもアメリカ社会で歴史的にどういう戦略が成功してきたのかをよく理解していたとも言えますね。

 

 

PRは「悪」なのか?

 

開沼 そういうアメリカの社会像が見えるのも面白いですね。そしてこの本では、PRという言葉とあわせて、それに近い、広告やプロパガンダ、あるいはマーケティング、パブリシティといった、概念が整理されていきます。

 

そこで伺いたいと思ったのが、「PRって、不純で、社会正義の実現のためにあんまりない方がいい」という、今の社会でも少なからず共有されているだろう感覚についてです。つまり「これは実はPRなんだ、あいつはPRに加担しているんだ」って言われたら、例えば、この「PR」というところに「洗脳」とか「私利私欲の追求」とかを代入しても成立する文になるわけです。たしかにそういう側面もある。でも、本来のPRはそう単純な話でもないはずです。

 

この「PRは公共圏をゆがめるものである」という感覚は、以前から強くあるのかもしれないけれど、今はそれがますます強くなっているのではないか。welq問題やフェイクニュースもそうですが、実際に人の認知をゆがめるものが、いろんな意図で出てくる。それが政治的な意図ならプロパガンダになるし、経済的な意図なら広告になる。その総体として、「PR=悪」とされる現代社会の雰囲気がある。

 

でも、あらゆる経済行為も政治行為も、パブリックとリレーションシップを結ばなければ成立しないし、現にそのなかで経済活動、政治行動を私たちはしている。パブリックの側もまた、そのリレーションシップによって利益を得ている。でも、とにかく原理主義的に「PRは悪だ」という。

 

そこで何が起こるかといえば、既存のPRの手法らしくない手法を使うようになるわけです。最近のPR手法として、ステマ(ステルスマーケティング)という概念が社会問題になり、一般にも広く知られるようになりました。

 

この概念を使って言うならば、ひたすらステマ、それがダメならステマらしくないステマを開発して実践で使って目的達成を目指す、さらに、それもダメになるとステマらしくないステマらしくないステマの開発と実践で・・・という無限後退現象が起きている。こういうある種のPRの潔癖症のような状況に陥らざるを得ない。こういう現状の構図については、どう思われますか?

 

河 特にその傾向が顕著な例は「プロパガンダ」ですね。この言葉が負のイメージを持つようになったのはナチスドイツ以降です。今も、我々が日常生活で「プロパガンダ」と言うと、そこには強烈で、非倫理的行為を連想させるようなイメージが付随している。

 

このような傾向は、PRにおいてもある程度進んでいます。PRという言葉ももう古くなっていて、「政治家や企業経営者のためだけに役立つような活動ばかりではないか」という認識が既に形成されています。そのため、「コーポレート・コミュニケーション(CC)」をはじめ、新しい概念や言葉がどんどん作られる。

 

実態は同じことをしながら、それを指す言葉だけを変えていく。日本だけではなく、世界全体でそういう風潮があります。業界の人からすれば、クライアントを説得しなければなりませんから仕方がないのかもしれませんが、それではかえって問題となる概念をきちんと捉える道を閉ざしてしまうことになります。

 

研究者としては、一方では新しい言葉の流行に注目しながらも、他方では「それが代替しようとする現象が、そもそもなぜ『PR』と呼ばれてきたか」を問うていく必要があります。

 

それは、一部の研究者がいうような「PRは、組織と社会との間に双方向的・対称的関係を構築するものであるべきだ」という主張を鵜呑みにすることとは異なります。そういった「PRのあるべき姿」を論じることもときには重要かも知れませんが、個人的には「企業などの巨大組織が社会に向けて行うコミュニケーションが、なぜPRという言葉・概念で呼ばれてきたのか」を究明することに重点を置いています。

 

PR活動の結果として社会に害が与えられたり、あるいはPRコミュニケーションをなしていた情報が嘘であったりした場合には、その実態は厳しく批判される必要があります。しかし、かといって「PR」という言葉・概念そのものを否定し、死語にしてしまうと、つまり、「悪いからこの言葉は使わないようにしよう」ということになると、我々が直視し、分析しなければならない現象も言葉と共にどこかに消えてしまう。

 

 

PRは企業自我形成のためのコミュニケーション

 

開沼 そういうことですね。研究をする上では、起こっている現象について、「良い・悪い」というのは言えなくても、「どうあるべきなのか」というところまでは言えると思います。これまでの歴史的な経緯から、どういうPRが良いのでしょう。あるいは、それは公共圏をゆがめないところで成立するものなのかもしれない。どうでしょうか。

 

河 やや抽象的な議論になるかもしれませんが、「PRによって公共圏をゆがめられる」という問題に関しては、ハーバーマスやチョムスキーなど、厳しく批判する論者がたくさんいます。彼らは、哲学的、倫理的に重要な議論を形成していると思います。

 

本書では、そういった議論に真っ向から対抗するつもりも、また企業や政府のやり方を擁護するつもりもありません。むしろ、同じ現象を捉える上で異なる視点を提供することで、「市民社会がPRにいかに対応していくべきか」ということの方向性を示したいと思っています。本書の主な意義は、PRを、「企業や政府が〈自我=アイデンティティ〉を形成するためのコミュニケーション様式」として捉え直したところにあります。

 

批判的な論者にとって、PR活動が広範囲にわたり、その頻度やパワーがどんどん加速している状況は、公共圏をゆがめて市民社会の自然なコミュニケーションに害を為しているように見えると思います。しかし一方で、そういった状況を「PRはなぜ行われるのか」「組織は何を求めてPRをするのか」という側面から考えてみれば、PRが氾濫している社会では、組織のアイデンティティの形成や維持が厳しくなっている状況だということがわかります。

 

企業や政府が、なぜPRをやらざるを得ないのか。それは、組織が属している社会、そしてその社会を構成する〈他者=パブリック〉と深くかかわってきます。PRが盛んな社会とは、PRをしている政府や企業の社会的な〈自我=アイデンティティ〉の形成や修正をめぐって〈他者=パブリック〉からの圧力が増加している状況であるとも読み取ることができるのです。

 

公共圏に害を与えないために「PRはこうあるべき」というような、理想と理念に基づく議論も重要でしょう。ですが一方で、「PRの主体と〈他者=パブリック〉との関係性のなかで、主体の〈自我=アイデンティティ〉が形成される」という構造を理解すれば、そのメカニズムに沿って、「市民社会側がPRの担い手たちに対してどのような対応ができるのか」ということは、自ずから見えてくるのではないでしょうか。

 

本書で提示したかったのは、まさにこのような方向性と視点の転換です。単に「企業や政府のPRがいかに優れていたか」や、「ルーズベルトのニューディール政策がいかに成功したか」ということだけが語られているわけではありません。【次ページにつづく】

 

 

◆◆「αシノドス」購読でシノドスを応援!◆◆

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.228 特集:多様性の受容に向けて

・安藤俊介氏インタビュー「『許せない』の境界を把握せよ!――アンガーマネジメントの秘訣」

・【PKO Q&A】篠田英朗(解説)「国連PKOはどのような変遷をたどってきたのか」

・【今月のポジだし!】山口浩 ことばを「『小さく』すれば議論はもっとよくなる」

・齋藤直子(絵)×岸政彦(文)「Yeah! めっちゃ平日」第九回:こんなところでジャズ