2つの祖国の狭間で――中国残留孤児3世代に渡るライフストーリ―

アイデンティティの多様性

 

――中国と日本という2つの祖国の間で、中国残留孤児たちはどのようなアイデンティティを持つようになっているのでしょうか。

 

中国残留孤児や残留婦人、そして、二世らのアイデンティティに関する研究は、これまで、ほとんど彼らのアイデンティティの葛藤と動揺に注目してきました。ここでの「葛藤と動揺」とは、主に、「中国にいれば日本人と言われ、日本にいれば中国人と言われる」というように、周りの人びとに受け入れてもらうことができず、そのための、「自分はいったい中国人なのか、日本人なのか」、「それとも中国人でもない、日本人でもないのか」という所属感に対する動揺と悩み、特に彼らの自己認識上の葛藤を示しています。

 

私は、残留孤児のアイデンティティを、当事者の生活史全体の中で位置づけるという、これまでとは異なる新たな視点から考察した一方、中国人留学生というインタビュアーとしての立場から、アイデンティティが構築される多様かつダイナミックなプロセスを検討してみました。残留孤児のライフストーリーを詳細に分析していくことで、次の三つの自己の語りを取り出すことができました。

 

まず第一には、はっきりとした「私は日本人だ」、「中国で、日本人として生きてきた」という自己定義を持っている一方、日本社会でいじめや差別を受け、日本人とのコミュニケーションの中では、自分も気づかないうちに、「あんたたち日本人」、「彼ら日本人」というように、無意識に自分のことを日本人と対立した立場に置くようになった場合があります。

 

第二に、アイデンティティに拘らず生きている残留孤児らもいます。「中国人でも日本人でも、両方を言うが、人によるよ」といったように、相互行為の相手が日本人なのか、中国人なのかによって、自動的に自己認識を変えていく姿を見せてくれたケースもありました。

 

三つ目は、私が中国人だからこそ語られたかもしれませんが、アイデンティティの動揺を感じさせず、「私は中国人だ」というように自己が定着している残留孤児らもいました。

 

中国残留孤児のアイデンティティは、彼ら一人ひとりが日本社会でどのような状況に置かれ、また中国社会でどのような体験をしてきたかによって、そのあり様は大きく変化し、規定されてきました。

 

日本人アイデンティティか中国人アイデンティティかという二極の間の単純な揺れという視点だけではなく、日本人でも中国人でもない新たなカテゴリーの主体的な創造性も視野に入れるべきではないでしょうか。また、日本人でもある、中国でもある、というアイデンティティの多様性も無視することができないでしょう。

 

さらに、中国人アイデンティティが揺るぎなく、アイデンティティについての問題は生じない残留孤児の存在も忘れてはいけないと考えられます。このように、インタビューからは中国残留孤児のアイデンティティは、彼らと日本社会そして中国社会との歴史的でダイナミックな相互作用の中で、彼らの生きる戦略の中で形成されてきたことを確認できました。

 

 

――張さんは、さらに残留孤児二世、三世のおかれた状況にも注目されていますね。

 

はい。中国残留孤児二世は農村出身者が大多数で、来日後は都会に定住しているケースが多く見られます。社会発展の面で、中国の農村社会は日本の都市社会より何十年も遅れていると言って過言ではありません。そのような社会環境から出てきた彼らは、日本の都市生活に自分を適応させるために、短期間でこの社会になじまなければなりません。

 

大久保明男さんが指摘したように、衣食住などの日常生活から学校、職場、地域などでの社会生活まで、生活そのものを支える経済的基盤や、生活のあらゆる面における知識、習慣などを、二世はほとんどゼロに近い状態から築いていかなければならなかったのです。

 

その中で彼らは、言語や文化、意識形態などの違いから発生するさまざまなトラブルを克服し、乗り越えることが求められます。若いうちに来日して、言葉に全く問題のない二世であっても、文化・習慣など家庭において伝承される知識は著しく欠けていて、そうした部分で適応をもとめられます。

 

こうした文化や慣習の差異はさらなる問題の構造を生み出します。日本社会の排除の構図、あるいはマイノリティ化です。二世は言語の習得はできても、一世から受け継いだ文化や習慣の違いから、学校生活などにおけるいじめなどの排除を経験し、それが彼らの疎外感や劣等感を醸成させることになります。

 

日本社会における中国残留孤児二世は、中国残留孤児一世と同様、「かわいそうだ」という感情的な一言によって端的に表現される、「軽蔑的な同情」を注がれ、差異化された少数の存在でもあります。つまり、残留孤児二世は日本社会でマイノリティ視され、社会の周辺に置かれているのです。

 

例えば、大学で日本人にも中国人にも仲間として見てもらえず、居場所が見つからなくて、非常に苦悩していた二世がいました。また、小学校時代からずっとクラスメートに仲間はずれにされ、どんどん自分に自信がなくなってしまい、強い劣等感を感じていた人もいました。

 

アイデンティティは他者による規定と自己による規定によって形成されるものですが、残留孤児二世のアイデンティティは、マイノリティ視される日本社会の環境のなかで、受動的に形成されてきた部分が多いです。マジョリティの権力によって出来上がったネガティブなイメージが、社会のマイノリティに位置づけられる残留孤児二世に「私はいったい何人なの?」と考えさせているのではないかと思います。

 

 

中国に残るストーリー

 

――多くの残留孤児が日本に帰国した一方で、中国に残る選択をした残留孤児の方もいますよね。彼らはなぜ中国に残ることを選んだのでしょうか。

 

そうですね。2009年1月31日現在の厚生労働省社会・援護局の統計によれば、これまで日本政府によって認定された中国残留孤児は2815人とされています。そのうちの89.8%を占める2529人の残留孤児がすでに永住帰国しました。逆に言えば、残りの1割強の残留孤児は、残留孤児と認定されたにも関わらず、現在でも中国に住み続けているということになります。具体的にその数は285人にものぼります。さらに、その内訳を見てみると、身元判明者は188人で、在中残留孤児の66%を占めます。つまり、7割近くの在中残留孤児は身元が判明し、日本国内の親族を見つけたにも関わらず、帰国しなかったのです。圧倒的多数の残留孤児が帰国をする中で、なぜ彼らは日本に永住帰国しないのか、確かに疑問に思うかもしれませんね。

 

中国残留孤児が1945年に中国残留を強いられてから、中国定着か日本への永住帰国かを選択するまでの長いプロセスの間、彼らを取り巻く外部環境と社会背景にいくつかの大きな変化がありました。まず外部環境の変化としては、日中両国の間における変化として、1945年の日本の敗戦、1946~1949年の日本人前期集団引揚げ、1953~1958年の日本人後期集団引揚げ、また、1972年の日中国交正常化などが挙げられます。

 

次に、中国残留孤児が長期間暮らしてきた中国の国内情勢の変化としては、1949年の社会主義新中国の成立、1950~1952年の土地改革、1950~1952年の三反五反運動、1957年のインテリ批判の反右派闘争、1966~1976年の大規模なプロレタリア文化大革命、また、1978年以降の改革開放路線、市場経済政策の実施などが挙げられます。これらのいくつかの時代の変遷と外部環境の変化が、中国残留孤児が中国定着もしくは日本への永住帰国を決めるのに影響を与えていると考えられます。

 

 

――と、いいますと。

 

日本政府に認定され、日本の親族を見つけたにもかかわらず、彼らが中国に住み続けることを選択した理由はいくつか考えられます。その一つとして、一部の残留孤児は中国で安定した職業に就き、しかも、能力が認められ、高い職位に就いています。中国社会で非常に居心地よい暮らしができているからと考えられます。

 

一方、中国政府によって「中国残留孤児」として認定されたものの、日本政府に認定されていない在中残留孤児の存在もあります。認定されない理由はさまざまですが、例えば、日本人の生母と対面はしたものの、生母が残留孤児の帰国によって、これまでの生活が壊されてしまうのではないかと恐れ、実子の帰国を拒否した場合などがあります。または、「証拠不足」という理由で、詳しい説明もないまま、日本政府から日本人として認められない人もいます。さらに長年日中両政府から認められず、近年になって、ようやく中国政府によって認定されたものの、日本政府の認定にはさらに時間を要している人もいます。

 

在中残留孤児の中には、暮らし向きに満足し、帰国を希望しなかった人や、帰国を望みながらも認定が下りず帰国がかなわずにいる人など、さまざまな人がいるのです。

 

 

――中国残留孤児に関するあまり語られないストーリーとして、養父母との関係があります。張さんはこちらにも注目され、養父母へのインタビューをされていますが、そこからはどのようなことが分かったのでしょうか。

 

残留孤児の養父母たちは、終戦時、大きなリスクを背負い敵国日本の子どもを引き取り、戦後の貧しい生活と文化大革命の恐怖に耐えながら、養子を育てました。彼らはみな日本の侵略・支配によって直接的または間接的に被害を受けました。彼らがなぜ、敵である日本人の子を引き取り、養子として育てることにしたのか。その闊達さはどうやって生まれたのか。養父母へのインタビューの中核はこの疑問から成り立っていました。

 

回答から考えられる理由の一つとしては、養父母は残留孤児を一人の日本人として引き取ったというより、一人の人間として引き取ったということです。つまり、国籍や国家の境界線を超え、血統よりも、一人の人間として重視したといえるでしょう。「なぜ残留孤児を引き取ったのですか」という質問に対して、養父母たちが一致して口にしているのは、「子どもがかわいそう。助けないと死んでしまう」、「戦争は国と国の間のことで、子供たちとは関係ない」という言葉でした。

 

しかし当然ながら、動機は多層で複雑です。さらに深く聞いてみると、残留孤児を引き取った動機はいろいろあることがわかります。一部の養父母が「自分が子どもを産めない」、「老後の頼りとして子どもがほしい」という動機で、残留孤児を引き取ったということは否定できないと思われます。

 

また、残留孤児が帰国する際、中国政府は「養父母の同意なしでは、残留孤児は日本に帰国することができない」とし、養父母が同意書にサインをしなければ、残留孤児を帰国させない方針でした。しかし、「自分の子と同じように育てた」と涙しながらも、同意書にサインしない養父母は一人もいませんでした。私は養父母たちが耐え難い別離の悲しみに押しひしがれつつ、それでも養子の永住帰国を認めた背景にも興味を持ちました。インタビューからは、彼らが養子の帰国を認めたのは「日本人の血を引く日本民族」だったからではないことがわかりました。多くの場合、中国東北地方の経済・社会状況を踏まえ、日本に永住帰国した方が、養子や孫たちの生活展望が開けるだろうと考えたからでしょう。

 

 

――養父母の経験は今後の紛争の和解などにも示唆的だと感じます。今後さらにストーリーを深めていってもらいたいです。

 

そうですね。生存している養父母の総数を知るすべはありませんが、中国のある行政関係者は「生きて話ができる養父母は数十人しか残っていないのではないか」と語ります。彼らがどのように生活し、どのような思いで日々暮らしているかについてはほとんど知るすべがありません。養父母から直接に話を伺うことのできる時間は決して長く残されていないのです。彼らが中国残留孤児とともに歩んできた人生を記録することは喫緊の課題であるように思われます。

 

 

――戦後時間が経過する中で記憶が消えてしまう前に、伝えられることを残していきたいですね。張さん、お忙しいところありがとうございました。

 

参考文献

大久保明男(2000)「アイデンティティ・クライシスを越えて―「中国日裔青年」というアイデンティティをもとめて―」『「中国帰国者」の生活世界』行路社

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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