2017.12.08
「わかりやすさ」の時代に抗って――古くて新しいジャーナリズムの可能性
新聞社からネットメディア「BuzzFeed Japan」に転身した石戸諭さんの初の著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)が刊行された。東日本大震災被災地での長期にわたる取材から描き出されたのは、「怒り」や「悲しみ」といった感情だけでは割り切れない、複雑な感情を抱えて生きる市井の人々の姿だ。
わかりやすさに回収されることのない無名の人々の言葉は、私たちに何をもたらすのか。『中央公論』『婦人公論』『考える人』などの編集長を歴任した河野通和さんとの対話で浮かびあがったのは、かつて起こった「新しいジャーナリズム」の波との共振だった。(構成 / 小原央明・亜紀書房編集部、柳瀬徹)
「科学の言葉」と「生活の言葉」
石戸 『リスクと生きる、死者と生きる』の第一章には、いわき市の末続という小さな集落に住む米農家の遠藤さんという方が登場します。福島第一原発事故の影響で、末続のすぐ隣の広野町までが帰還指示区域(広野町は2012年3月31日に解除)となり、末続は人が住む地域ではもっとも第一原発に近い場所になりました。
遠藤さんたちは自ら土壌の線量を測り、獲れた米も測って、科学的な知見だけでいえば2011年の秋には米は作れるし出荷もできる、というところまでこぎつけます。実際に、全量買取りではありますが、農協に出荷もしています。
でも、そのお米を自分の幼い子どもに食べさせられるのか、と彼はとても悩んでしまった。自宅の裏山で、自家用のお米を全部捨ててしまったんです。
「科学的には納得した、でも……」というのは、僕らが生きている感覚からするととてもリアリティのある感情だと思うんです。
遠藤さんと出会ったのは、毎日新聞にいたときなんです。新聞に書こうと思って取材もしていました。
ただ、このエピソードをどうやって新聞記事にし、見出しを立てるのかというところで、僕は「やっぱり書けないな」と思ってしまったんですよね。
普通の新聞記事にすることはできたと思うんです。でも、半端な行数でこの話を出してしまうと、遠藤さんは「何で子どもに食べさせられないようなものを出荷するんだ!」って読者から批判されるか、「子どもに食べさせりゃいいじゃん。科学的に正しいんだから、率先して食べさせるべきだ」って批判されるかのどちらかになってしまうことは目に見えていた。
でもその批判って、僕からするとすごく無意味なものです。そうじゃなくて、遠藤さんの悩み方とか揺れ方とかを丹念に聞いて、その言葉をきちんと伝えないと、この人が本当は何に悩んでいて、どうしたかったのか、そして遠藤さんがなぜ土地を捨てず、それでも「来年はもう一度子どもに自信を持って食べさせられるお米を作ろう」と決意したのかということが、わからないと思うんですよね。
河野 なるほど。この本の特徴のひとつは、石戸さんが取材先で会った人の発言の引用の仕方ですよね。普通の記事というのは、地の文があって、それを補強するために取材先の語りがある、というスタイルなんだけど、石戸さんの記事では石戸さんが書き起こしている取材者の発言の分量が圧倒的に多いんですよね。しかも、それはある文脈にのっとって、書き手にとって都合の良いところを切り取っているわけではない。
私は1953年生まれで、石戸さんより31歳ほど年長なんですけど、この本をとてもおもしろく読みました。最初に感想を言うと、もう「嬉しい」の一言です。自分よりもずっと下の世代の人が、こういう語り口で東日本大震災後の世界を切り取って書いてくれたというのが、読んでいてとても嬉しかったんです。
『リスクと生きる、死者と生きる』を読んだ人はほぼ同じ感想を持つと思うんですけど、はっきりいってこれを読んだからといって、すごく得心がいくとか、すっきり視界がクリアになるかというと、ぜんぜんそうじゃない(笑)。えもいわれぬ固まりみたいなものを、ボンと手渡されたような印象を持つ人が少なからずいると思います。取材相手から聞き取った言葉を、その「わからなさ」も含めて石戸さんが書き取っていくということ、そこに記者としての自分の誠実さみたいなものを賭けようとしている、ということを強く感じました。
石戸 ありがとうございます。僕はこの本の中で、「科学の言葉」と「生活の言葉」というキーワードを使いました。
「科学の言葉」というのは、簡単にいえばファクトを重視する合理性に基づいた言葉のことです。遠藤さんはきちんと数値を計って、「このくらいなら食べても大丈夫だし、出荷できる」と判断しています。つまり科学の言葉を根拠にして物事を考えていて、いうまでもなくその作業はとても大事です。
その一方で、そうした科学的な合理性だけでは割り切れない「生活の言葉」の重要さというものがあるんだ、と遠藤さんの話を聞いていて思いました。
科学的には、遠藤さんの作ったお米は子どもに食べさせても問題ない。そうするのが合理的なはずなんだけど、どうしてもそれができない。とても迷いながら、やっと「これなら息子に食べさせられる」という気持ちになれるまでの納得のプロセスが科学とは別のところにあって、そういう揺らぎに満ちているのが「生活の言葉」だと思うんです。
河野 私自身も「中央公論」と「婦人公論」という二つの毛色の違う雑誌の編集に関わってきたのですが、「中央公論」という雑誌は、石戸さんの言葉でいえばちょっと「科学の言葉」に寄っているところがあるんですね。「科学」といっても社会科学や人文科学ですけど。
それに対して「婦人公論」は「生活の言葉」に寄っていて、読者が生きながら感じているリアリティを大切にするところがあります。「中央公論」の言葉は、世の中の大きな問題をわかりやすく考えるためのベースになるものですけど、「婦人公論」はもっと体温のある、生活の中の言葉を取り扱っているわけです。
これはどちらの言葉が優れていて、どちらの言葉が劣っているというような話ではありません。ただ、私はその二つの雑誌を行き来しながら編集に関わることで、世の中ではいかにその二つの言葉の間に溝があるかってことを強烈に感じたんです。同じ出版社が出している雑誌で、少なからぬ社員が行き来しながら関わっている雑誌であるにもかかわらず、媒体によって扱われる現実が違う色合いで世の中に出ていくことになるんです。
1978年から2010年までその二つに関わりましたが、私は「この二誌のギャップは日本社会の中の大きな溝と重なっているんじゃないか」と思っていました。石戸さんがおっしゃっていることを聞いて、その時感じたことを思い出しました。
人間は「科学の言葉」には収まらない「生活の言葉」で生きている部分がたくさんあるのに、それを「震災だ」「事件だ」というときの決まった手つきや文法で切り取ってしまうと、その出来事に遭遇した人の生きた言葉には触れられないんじゃないかと思います。石戸さんはきっと取材先でそういうことを強く感じたんでしょうね。その二つの領域のバランスをとろうとした試みが今回の本で、そういう意味での石戸さんの出発点になる作品だと思います。
なぜ今「ニュー・ジャーナリズム」なのか
石戸 新聞記事を中心に書いてきた人間からすると、そういうことを伝える文章を書くのがとても難しいんです。まず書けなくなっちゃうんですよね。社会面の記事を書けと言われたら、そんなに悩まなくて書けるんですけど、この本に収録した記事を書く際は、一文字も書けないまま一週間が過ぎ去ったみたいなことがよくありました。
僕がインターネットメディアに移って最初にやったのは、新聞記事の文体を意識的に捨て去ることでした。ネットでは新聞のような文字数の縛りは小さいし、比較的自由な長さで書けるんですけど、自分の身に染みついた新聞文体のクセを解き放っていく時間が必要でした。
そのときに参照にしたのは、さっき名前をあげた沢木耕太郎さんや山際淳司さんなどの、70~80年代にかけてのいわゆる「ニュー・ジャーナリズム」の影響を受けた、先達のノンフィクション作品だったんです。河野さんは沢木さんや山際さんとたくさんお仕事をされてきた方なので、お話できるのがとても楽しみでした。
河野 沢木さんとは「たくさん仕事をしたかった」にもかかわらず、幻に終わった企画が多い、というめぐり合わせですが(笑)。沢木さんが登場したのは1970年代ですね。1978年に『テロルの決算』、1981年に『一瞬の夏』、その後『深夜特急』(1986~1992年)で文名を確立していきますが、それはデビューからだいぶ後になって出てきた作品で、デビュー時の沢木さんは、それまでのノンフィクションではあまり日の当たらなかった世界に着目して、やわらかな感性と斬新な切り口でアプローチする若武者といったイメージでした。
70年代というのは、それまで高度経済成長を遂げていた日本にやや翳りが見えてくる時代ですが、従来語られてきた日本の物語というのは、「敗戦から復興を経て成長していく日本」の力強い物語だったり、そのネガとしての「都市と地方のひずみ」のような物語だったりしました。向日的な戦後版「プロジェクトX(エックス)」のようなサクセス・ストーリーか、その裏返しとしての、「忘れてはいけない」「直視すべき」社会の影の部分の物語か。冷戦期であり、イデオロギー対立の時代です。いずれも紋切型の語り口になりがちなテーマ設定だったんです。
沢木さんが新鮮だったのは、そのどちらでもなくて、それまで見過ごされてきたような意外でシャープなアングルから等身大の人間の姿を、その愚かしさも含めて、悲喜こもごもリアルに書き留めたルポルタージュを世に問うたことでした。世の中に溢れているルポルタージュの切り口がちょっとパターン化しているな、と感じていたときに、沢木さんの著作はそれを鮮やかに裏切る物語性を持っていました。若々しく爽やかなフットワークを感じさせました。私を含めて当時の若い編集者にとっては、それがとても新鮮だったんです。沢木さんが出てきたとき、ご本人がどう思われていたかはともかく、世間の評価は「ニュー・ジャーナリズムの旗手」でした。
石戸さんが沢木さんの名前を挙げましたが、『リスクと生きる、死者と生きる』でやろうとしたことは、まさにそこに連なる試みだと思います。私が石戸さんの本を読んで「嬉しい」という感想を持ったのは、私自身のちょっとした懐かしさとともに、それがいまの若い人たちにも新鮮だということが、とてもおもしろいなと思ったんです。
石戸 ありがとうございます。
書き手として言うと、沢木さんの初期作品『人の砂漠』(https://goo.gl/jm3Kjq)などがとても好きで、何度も読み返しています。『人の砂漠』の中に「屑の世界」という、いまでいうと廃品回収業者、鉄くずの仕切り屋に集う人々を取り上げたルポルタージュがあるんですけど、仕切り屋とそこに鉄くずを持ってくるおじさんたちとのやりとりなどを介して、社会の片隅にも人の生活があり、小さな世界が成立していることを丁寧に描いているところが、本当に素晴らしいなといまでも思っています。
もうひとつ、今回の本を書くときに指針にした作品が『彼らの流儀』(https://goo.gl/5rXuRg)という本なんです。この本は「朝日新聞」にコラムとして連載されたものですが、日本の新聞コラムって「ベテランの記者が社会や政治に対して意見をもの申す」みたいなものが多いんですよね。
でも、沢木さんは普通に生活している人の、一瞬のきらめきがあらわれるシーンを切り取ってコラムにしていました。たとえばペットショップをやっている人が、盲学校の生徒たちに興味を持った瞬間を描く。有名な人の一瞬を描くことよりも、「普通の人のありふれた一瞬」描くことが本当に難しいんですよね。有名な人の話は、どうやってもドラマになりますから。
河野 もともと「ニュー・ジャーナリズム」というのは、アメリカのトム・ウルフという作家が名付け親だと言われています。客観報道を至上命令としてきた従来のジャーナリズム手法に対して、取材対象により深くコミットした新たな表現方法の試みとして輝きを放っていました。それは、現代社会と接点を失いかけている20世紀文学を、かつての19世紀文学、たとえばドストエフスキイやバルザックの小説のように、時代や社会の総体をとらえる仕掛けとして再活性化することはできないか、という小説世界の気運とも連動していたと思います。トルーマン・カポーティがノンフィクション・ノベルと名づけた『冷血』(https://goo.gl/tSDZ1L)が、ニュー・ジャーナリズムの形成に大きな影響を与えたことは周知の通りです。
小説界にそういう動きがある一方で、当時のジャーナリズムの世界でも、パターン化した報道の枠組みを打破する思い切った手法の模索が始まっていました。「調査報道(Investigative journalism)」などのアプローチです。それらの総体がニュー・ジャーナリズムの波を起こしていました。そんな中で、1972年にウォーターゲート事件が起こり、カール・バーンスタインとボブ・ウッドワードという若い「ワシントン・ポスト」の記者たちの報道によってニクソン政権が倒れていくという出来事が起こります。
かたや日本では、田中角栄首相のロッキード事件などが起こります。「新聞、テレビなどメディアの果たすべき役割とは何か?」といった問いかけが真剣に議論されました。そういう大きな時代潮流のなかに、立花隆さんや柳田邦男さんが登場し、沢木さんも颯爽と走っていた。
ノンフィクションの倫理と誘惑
石戸 この時代に積み上がったノンフィクション作品は、僕たちにとってとても大きな財産だと思います。
ニュースというものは、ともすれば無味乾燥な事実を淡々と伝えればOKと考えられたり、逆にセンセーショナルな言葉で注目を集めて読者をすっきりさせる、とういう方向に陥りがちなんです。
僕みたいなタイプは、そのどちらにも馴染めないんです。もっと社会の底に息づいている何かに目を向けて書きたいと思ってしまう。だから彼らの作品に、今につながるヒントがたくさん眠っているんですよね。
本を書く上に僕がいちばん指針にしたのは、沢木さんの「発光体は外部にあり、書き手はその光を感知するにすぎない」という言葉でした。
これはすごく大事なことで、震災とか原発事故の報道では、ついつい自分が主人公になっちゃう書き手が多いんですよね。自戒をこめて言うのですが、歴史的にとても大きな出来事なので、書いているほうも現象そのものに酔ってしまったり、取材している自分そのものに酔ってしまうということが起こりがちなんです。「被災者に共感する自分に共感してほしい」という欲望が強くなってしまう。
でも、僕はそういうやり方はあまりいいとは思えません。そこで生活している人たち、あるいは生活を取り戻そうとしている人たち、というのは単なる「被災者」でも「かわいそうな人たち」でもないんです。
本の中でも「『被災者』という名前の被災者は存在しない」と書いたのですが、そういうおおざっぱな括りではなくて、実際に生きている人々の個的な揺らぎに満ちた言葉の中に、僕が理解したいと思ったことがたくさんあったんです。そのときに指針になったのが、沢木さんの「発光体は外部にある」という言葉でした。つまり「書き手は発光体ではない」ということです。
新聞の言葉は、どうしても事実をきれいにまとめてしまう。でも現実には、遠藤さんのようにきれいにまとめられない感情がある。本人でさえ、自分の感情を把握しきれているわけではありません。当事者だから、そこで起こったことをすべて知っているなんてことはありえないです。取材をしたからといって、相手のことを全部わかるはずもない。それでも、できるかぎり理解したい、接近したいと思っているだけで、わかったなんてとても言えない。
河野 それはすごく大切なことだと思います。新聞の文体に収まるか収まらないかっていう問題とは別に、今の時代状況につなげていうと、ある種の「わかりやすさ」の陥穽というものがあると思うんですよ。
インターネットの中にはたくさん情報があるように見えるけれど、意外と同じような仲間内で「共感」を呼ぶだけの言葉が選択されて目立つようになっていて、わかりやすさの中で共感を増幅する一方的な言葉だけが流通してしまいがちですよね。でも、実際に取材をしてみると、とてもわかったなんて言えないと思う。
「わかりやすさ」の罠というものが、「ニュー・ジャーナリズム」の頃も問われていたと思うんです。いま「朝日新聞」のパブリックエディター(読者代表という立場で紙面をチェックするポスト)を三年くらいやっているのですが、その就任の弁で、かつて話題になった上前淳一郎さんの『支店長はなぜ死んだか』(https://goo.gl/F9h447)という本について述べたことがあります。
1975年に、障害をもった2歳の娘を餓死させた父親が逮捕され、「子殺し」として社会的に非難されて、判決の後に自殺してしまった事件がありました。父親は東大出のエリート銀行マンだったんですが、この事件を報じた警視庁詰めの新聞記者が、「一流銀行に勤めている鬼のように冷血なエリートサラリーマンが、子どもを殺してしまった」というようなストーリーに仕立てて記事を書いたんですね。
それを読んだ朝日新聞編集委員の疋田桂一郎さんという方が、「この記事は事実報道としておかしいのでははないか?」と疑問をもって、事実関係と経緯を調べ直して「疋田レポート」と呼ばれるレポートをまとめます。これは当初、朝日新聞社の社内報に発表されます。「ある事件記事の間違い」という視点で冷静に書かれた、自社報道の検証報告でした。のちにそれに基づいて上前さんがノンフィクションとして書いたのが、『支店長はなぜ死んだのか』という作品です。
「東大出の鬼のようなエリートサラリーマン」というわかりやすい物語にのせて情報が流通していくことの危険性と、ジャーナリズムに関わる人間は常に隣り合わせにいると思います。いまの時代状況を鑑みると、SNSなどは、ややもすると色分けを鮮明にした決めつけの危険性に溢れている空間でもあるわけです。世の中で「善」といわれているものも「悪」といわれているものも、仔細に見ていくと、簡単な「わかりやすさ」には回収されないいろんな問題があるはずなんです。そこをくみ取って行かなくてはなんの課題解決にもつながらない。
石戸 今回の本でも少し書いたのですが、「わかりやすさ」の問題というのは、10年ほど新聞記者をやって、インターネットメディアの記者になってからも、ずっと考え続けてきたテーマなんです。
二項対立の図式を作るとか、ステレオタイプな物語に落とし込むっていうことは、すごくわかりやすいし、やろうと思えば簡単にできる。その誘惑は僕にもわかります。「被災した人は悲しんでいる」とか「原発事故に直面した人は怒っている」はわかりやすいけど、現実はそれだけじゃないでしょう、ということを僕はしっかり書きたかったんですね。
それはとてもわかりにくい話かもしれないけれど、そのわかりにくいモヤモヤこそが僕の知っている事実であり、現実です。そのことを知りながら、あえてわかりやすい物語に落とし込んでいくというのは、率直に言って読者に嘘をついていることになると思うんですよ。
たしかに、フィクションもノンフィクションも、究極的には「物語」でしかありません。そういう意味では同じなんですけど、フィクションに許されてノンフィクションに許されないルールがあるとしたら、それは、事実と違うと知っていながら書いてはいけないということだと思うんです。
でも、ノンフィクションの世界はすごくそのルールを踏み外しやすいんですよね。言ってみれば、その歯止めは書き手一人の倫理観にかかっているんです。僕も記事を書きながらついつい「こうやったほうがシンプルでわかりやすいかも。こうしたほうがもっと読まれるだろうな」という誘惑を感じてしまうことはあります。でも記事として成立していても、根本で嘘をついてしまったら、とても陳腐な文章になってしまうんですよね。
河野さんがおっしゃるように、誘惑に負けやすいメディア環境ではあるんです。でも、それに耐えていかなくてはいけないし、そういう状況の中でも、もっとおもしろいものや新しいものを模索していかなくてはならないと思っています。だからこそ、かつてのノンフィクションの先輩のやってきたことを踏まえながら、書いていきたいんですよね。
河野 石戸さんは取材で被災地に入ってから、ずっとそういう問題意識を持って、震災後のレポートを書き続けてきたのでしょうね。30年前のジャーナリズムで問われていたことは、いまでも克服しなくてはいけない問題としてそこにある。お話をしていてそう思いました。
※2017年9月24日 東京・本屋B&Bにて収録
プロフィール
石戸諭
1984年生まれ、東京都出身。2006年立命館大学法学部卒業、同年に毎日新聞入社。岡山支局、大阪社会部、デジタル報道センターを経て、2016 年1月にBuzzFeed Japan に入社。
河野通和
1953年、岡山市生まれ。東京大学文学部卒。1978年、中央公論社(現・中央公論新社)入社。主として雑誌編集畑を歩み、雑誌「婦人公論」(1997-2000年)、「中央公論」(2001-2004年)の編集長を歴任。2008年6月、取締役雑誌編集局長兼広告総括部長を最後に、中央公論新社を退社。2009年1月、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。2010年6月、新潮社に入社し、雑誌「考える人」編集長を務める。2017年3月、『考える人』休刊とともに新潮社退社。4月よりほぼ日入社。著書に『言葉はこうして生き残った』(ミシマ社)、『「考える人」は本を読む』(角川新書)がある。