「わかりやすさ」の時代に抗って――古くて新しいジャーナリズムの可能性

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ノンフィクションの倫理と誘惑

 

石戸 この時代に積み上がったノンフィクション作品は、僕たちにとってとても大きな財産だと思います。

 

ニュースというものは、ともすれば無味乾燥な事実を淡々と伝えればOKと考えられたり、逆にセンセーショナルな言葉で注目を集めて読者をすっきりさせる、とういう方向に陥りがちなんです。

 

僕みたいなタイプは、そのどちらにも馴染めないんです。もっと社会の底に息づいている何かに目を向けて書きたいと思ってしまう。だから彼らの作品に、今につながるヒントがたくさん眠っているんですよね。

 

本を書く上に僕がいちばん指針にしたのは、沢木さんの「発光体は外部にあり、書き手はその光を感知するにすぎない」という言葉でした。

 

これはすごく大事なことで、震災とか原発事故の報道では、ついつい自分が主人公になっちゃう書き手が多いんですよね。自戒をこめて言うのですが、歴史的にとても大きな出来事なので、書いているほうも現象そのものに酔ってしまったり、取材している自分そのものに酔ってしまうということが起こりがちなんです。「被災者に共感する自分に共感してほしい」という欲望が強くなってしまう。

 

でも、僕はそういうやり方はあまりいいとは思えません。そこで生活している人たち、あるいは生活を取り戻そうとしている人たち、というのは単なる「被災者」でも「かわいそうな人たち」でもないんです。

 

本の中でも「『被災者』という名前の被災者は存在しない」と書いたのですが、そういうおおざっぱな括りではなくて、実際に生きている人々の個的な揺らぎに満ちた言葉の中に、僕が理解したいと思ったことがたくさんあったんです。そのときに指針になったのが、沢木さんの「発光体は外部にある」という言葉でした。つまり「書き手は発光体ではない」ということです。

 

新聞の言葉は、どうしても事実をきれいにまとめてしまう。でも現実には、遠藤さんのようにきれいにまとめられない感情がある。本人でさえ、自分の感情を把握しきれているわけではありません。当事者だから、そこで起こったことをすべて知っているなんてことはありえないです。取材をしたからといって、相手のことを全部わかるはずもない。それでも、できるかぎり理解したい、接近したいと思っているだけで、わかったなんてとても言えない。

 

河野 それはすごく大切なことだと思います。新聞の文体に収まるか収まらないかっていう問題とは別に、今の時代状況につなげていうと、ある種の「わかりやすさ」の陥穽というものがあると思うんですよ。

 

インターネットの中にはたくさん情報があるように見えるけれど、意外と同じような仲間内で「共感」を呼ぶだけの言葉が選択されて目立つようになっていて、わかりやすさの中で共感を増幅する一方的な言葉だけが流通してしまいがちですよね。でも、実際に取材をしてみると、とてもわかったなんて言えないと思う。

 

「わかりやすさ」の罠というものが、「ニュー・ジャーナリズム」の頃も問われていたと思うんです。いま「朝日新聞」のパブリックエディター(読者代表という立場で紙面をチェックするポスト)を三年くらいやっているのですが、その就任の弁で、かつて話題になった上前淳一郎さんの『支店長はなぜ死んだか』(https://goo.gl/F9h447)という本について述べたことがあります。

 

1975年に、障害をもった2歳の娘を餓死させた父親が逮捕され、「子殺し」として社会的に非難されて、判決の後に自殺してしまった事件がありました。父親は東大出のエリート銀行マンだったんですが、この事件を報じた警視庁詰めの新聞記者が、「一流銀行に勤めている鬼のように冷血なエリートサラリーマンが、子どもを殺してしまった」というようなストーリーに仕立てて記事を書いたんですね。

 

それを読んだ朝日新聞編集委員の疋田桂一郎さんという方が、「この記事は事実報道としておかしいのでははないか?」と疑問をもって、事実関係と経緯を調べ直して「疋田レポート」と呼ばれるレポートをまとめます。これは当初、朝日新聞社の社内報に発表されます。「ある事件記事の間違い」という視点で冷静に書かれた、自社報道の検証報告でした。のちにそれに基づいて上前さんがノンフィクションとして書いたのが、『支店長はなぜ死んだのか』という作品です。

 

「東大出の鬼のようなエリートサラリーマン」というわかりやすい物語にのせて情報が流通していくことの危険性と、ジャーナリズムに関わる人間は常に隣り合わせにいると思います。いまの時代状況を鑑みると、SNSなどは、ややもすると色分けを鮮明にした決めつけの危険性に溢れている空間でもあるわけです。世の中で「善」といわれているものも「悪」といわれているものも、仔細に見ていくと、簡単な「わかりやすさ」には回収されないいろんな問題があるはずなんです。そこをくみ取って行かなくてはなんの課題解決にもつながらない。

 

石戸 今回の本でも少し書いたのですが、「わかりやすさ」の問題というのは、10年ほど新聞記者をやって、インターネットメディアの記者になってからも、ずっと考え続けてきたテーマなんです。

 

二項対立の図式を作るとか、ステレオタイプな物語に落とし込むっていうことは、すごくわかりやすいし、やろうと思えば簡単にできる。その誘惑は僕にもわかります。「被災した人は悲しんでいる」とか「原発事故に直面した人は怒っている」はわかりやすいけど、現実はそれだけじゃないでしょう、ということを僕はしっかり書きたかったんですね。

 

それはとてもわかりにくい話かもしれないけれど、そのわかりにくいモヤモヤこそが僕の知っている事実であり、現実です。そのことを知りながら、あえてわかりやすい物語に落とし込んでいくというのは、率直に言って読者に嘘をついていることになると思うんですよ。

 

たしかに、フィクションもノンフィクションも、究極的には「物語」でしかありません。そういう意味では同じなんですけど、フィクションに許されてノンフィクションに許されないルールがあるとしたら、それは、事実と違うと知っていながら書いてはいけないということだと思うんです。

 

でも、ノンフィクションの世界はすごくそのルールを踏み外しやすいんですよね。言ってみれば、その歯止めは書き手一人の倫理観にかかっているんです。僕も記事を書きながらついつい「こうやったほうがシンプルでわかりやすいかも。こうしたほうがもっと読まれるだろうな」という誘惑を感じてしまうことはあります。でも記事として成立していても、根本で嘘をついてしまったら、とても陳腐な文章になってしまうんですよね。

 

河野さんがおっしゃるように、誘惑に負けやすいメディア環境ではあるんです。でも、それに耐えていかなくてはいけないし、そういう状況の中でも、もっとおもしろいものや新しいものを模索していかなくてはならないと思っています。だからこそ、かつてのノンフィクションの先輩のやってきたことを踏まえながら、書いていきたいんですよね。

 

河野 石戸さんは取材で被災地に入ってから、ずっとそういう問題意識を持って、震災後のレポートを書き続けてきたのでしょうね。30年前のジャーナリズムで問われていたことは、いまでも克服しなくてはいけない問題としてそこにある。お話をしていてそう思いました。

 

※2017年9月24日 東京・本屋B&Bにて収録

 

 

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