社会の原理を追い求める――先人たちはこの社会をどうとらえていたのか?

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哲学書は先人たちからの手紙

 

――環境問題への関心は、いつ頃からあったのですか。

 

中高生時代からですね。資源や環境破壊の問題というのは、70年代以降大きなテーマとして存在しています。そうした中で子供時代を過ごしたので、環境への関心はごく自然に身についていきました。それだけでなく南北問題にも強い関心を持っていました。

 

特に中学、高校と学ぶ中で環境問題と南北問題の二つに興味を持つようになってきて、次第に自分たちの文明そのものに疑問を持つようになりました。今の言葉を使えば、文明に持続可能性を感じられなかったんです。そして、近代社会をつくりあげている基本原理や思想には、どこかに欠陥があると考えるようになりました。直感的に感じた、というのが正確かもしれません。

 

その欠陥がおそらく自然環境に負荷をかけてしまっている。このままアメリカ人や日本人のような文化モデルで、南の貧しい発展途上国を含めた全世界の人が生活するようになれば、世界規模で生態系に破壊的なダメージを与えてしまいます。つまり、今の文明のモデルでは、全ての人が生きられない。どこか近代の文明の理念に、おかしいところがるのではないか、そう思っていました。それで、大学院に進んだ時に指導教授に環境問題をテーマにしたいと言いに行ったわけです。

 

 

――結局ジンメルを勧められて環境問題とは少々違う方向に行ったけれども……(笑)。

 

はい(笑)。

 

 

――先生ご自身は社会科学部を卒業されていますよね。社会科学部で環境をやろうと思って受験されていたのですか?

 

いや、それは本当にたまたま受かったところが社会科学部だったんです(笑)。

 

 

――ゲオルク・ジンメルの話といい、なんだか運命的にこの道を進まれている気がします。

 

確かにそうですね。ボタンひとつふたつの掛け違いが、今の自分の人生のベクトルを決めているところはある気がします。

 

 

――哲学や社会学にも関心はあったとおっしゃっていましたが、そうした分野への関心はいつ頃からお持ちだったのですか。

 

大学の講義を受けてからです。社会問題に対する興味はそれまでも強くあったのですが、大学で学んでいるうちに、哲学や社会学が1番自分の関心とマッチしたというか、馬が合ったんです。楽しくやれた。

 

 

――どのような点に楽しさを感じられたのですか。

 

自分が考えていたような社会問題や人間関係の問題について、先人の哲学者や社会学者が、自分より明快にちゃんとした言葉で説明してくれているんですよ。より洗練された言葉で。その議論とか、やり取りを見ていて、「ああ、こういう蓄積があるんだ」と思って、むさぼるように読んだのがはじまりです。自分の悩みや疑問の大半は、学者の人たちが考えているんですね。そうやって哲学や社会学にはまっていきました。

 

けれども学んでいるうちに、哲学は少々物事を抽象的かつ普遍的に考えすぎているように感じるようになりました。そして哲学的な問いの多くも、社会的な事柄によって媒介されていると考えるようになっていったんです。端的に言えば、言葉です。言葉は社会的なコミュニケーションの中で存在していて、コミュニケーションの外に抽象的な言語がそれ自体で存在しているわけではと思ったんです。ジンメルの考えで言えば、言葉はコミュニケーションの中から立ち上がっていくものであって、それ自体が先に存在するわけではない、と。

 

やはり、ジンメルは哲学者ですが、社会的なモノを非常に重視していたと思います。だからこそ、社会学というものを立ち上げざるを得なくなったのでしょう。当時の民族主義や国家主義など、社会を全体主義的に考えることで個人の尊厳を否定しかねない視点に対して、違う社会の見方というのを提示していかなければならないと考えたのだと思います。

 

 

――抱えているもやもやを、先人の学者たちが言語化してスッキリさせてくれるようなところがあるのですね。

 

ええ。哲学者にしろ、社会学者にしろ、自分たちと似たような様々な問題を抱えて、それらを彼らなりに解いてくれている先輩なんです。だから、特に偉い人というわけじゃないと思うんですね。ドイツの哲学者、ペーター・スローターダイク氏は、哲学書は、受取人がさだかではない不特定多数の他者に宛てた手紙だと言っています。分厚い手紙だと思えばいい。それを読んで、「ああ、前の人はこう考えていたんだなあ」と思えばいい。私自身も、本を執筆する時は、手紙のつもりで書いています。

 

もちろん自分だけの悩みもありますが、多くの事柄で、同じようなテーマをめぐって悩んでいる人がいると思うんです。だから、自分だけで悩むのではなく、先輩たちの知恵を借りて、自分のこととか現代社会の問題を考えるツールとして使っていければいいのだと思います。

 

学問というのはそういうものではなないでしょうか。プラトンにしろアリストテレスにしろ、カントにしろジンメルにしろ、そんなに気負わないで、先輩くらいに思って、彼らがどう考えていたのか、触れてみるといいと思います。自分の悩みとかも、もしかしたらその先輩たちが同じように悩んでいて、なんらかの解決へといたる道の痕跡を残してくれているかもしれません。せっかく大学に行くのなら、そういう書物に出会いたいですよね。

 

 

重要なのは自分にとって大切な問題をみつけること

 

――先生はどんな高校生だったのですか。

 

普通の高校生でしたよ。ボーっとしていて(笑)。ただ、疑問はよく持っている子どもだったと思います。不思議なことが多くて困っていました。

 

 

――どんなことが不思議だったんですか。

 

それが、ほとんど覚えていないんですよ。本当に普通の高校生だったんです。ごく普通の中高生が悩む青春の葛藤みたいのを持っていて、たぶん未だにそれを抱えてる。ジンメルとかカントとか、ウェーバーとかデュルケムとか、そういう人たちの知識を媒介にしながら、未だにその青春の通りをめぐっている感じです。

 

 

――哲学の本を読んでいても思うのですが、理論ってとても難しいですよね。どのように研究なさるんですか。

 

そうなんですよ。私も、ジンメルがもともとカント研究者だったこともあって、カントを理解しようと思ったことがあったんですけど、ものすごく難しくて、ショックを受けました(笑)。その時は学部のゼミにカント研究をしていた大学院生の先輩が出入りしていたので、その人にいろいろとアドバイスをもらいましたね。

 

あとは『プロレゴメナ』という、カントの『純粋理性批判』を初級者向けに解説している本があるのですが、それを読んでも全く分からなかったこともあります。その本の冒頭に、「これを読んでもわからない人は哲学に向いてないからやめた方がいい」みたいなことも書かれていて、指導教授の所にやめるべきか相談にいったようなこともありますよ。そしたら教授に、あの本は当時の哲学者に向けてかかれてるのであって、君に向けて書かれているのではないから気にするな、って励まされたり……(笑)。

 

 

――いろいろな方のサポートを受けて研究されてきたのですね。

 

そうですね。私が在籍していたゼミは仲が良くて勉強好きだったので、ゼミの仲間には助けられました。毎回ゼミが終わった後に飲み会があって、そこでも喧々諤々議論をしていました。サブゼミという、関心のある社会学者・哲学者・経済学者などの研究を自主的にする幾つかのグループもあったので、わからないことはそこのメンバーに聞いたりして、お互いに高め合うことができる学習環境でしたね。いまでも当時の仲の良かったゼミ生たちとの付き合いは継続していて、お互い刺激し合っていますよ。

 

 

――大学で学ぶことの魅力とはなんでしょうか。

 

まずは何よりも、今言ったような書物や考え方と出会うきっかけを作ってくれる場であることですね。私が中高生だった時もそうですが、やはりなんでも自分の言葉で考えてしまうんです。誰でもメディアから流れるさまざまな情報を自分なりの言葉に置き換えることで作り上げた考えは持っています。でもそれって、井の中の蛙なんですよね。

 

私も、身近な友人たちと話しながら考えていくことが好きで、そのなかで作り上げていった自分なりの考えは持っていました。でも、カントや他の哲学者、社会学者と出会って、自分が井の中の蛙であったことに気づきました。世の中には、こんなにすごいことをいってる人がいるんだな、と思ったんです。

 

最近、橋本治さんの『知性の転覆』という本を読んでなるほど、と思ったことがあります。彼は知性と知識を分けて考えています。人は皆、ものを考える力としての知性を持っています。そしてヤンキーを例に出して、彼らを知性はあるけれども知識を軽んじている人々だとしています。ヤンキーは知性があるので、経験を頼りに自分の身の回りのことなら考えることができます。しかし、学問という普遍的な知識へとアクセスしようとしないので、自分の経験知でしかものを考えられなくなっているというのです。

 

ヤンキーは、知識を軽んじているから、教科書やその先のより広い知識の大系に触れようとしません。先生という知識へのゲートキーパーのような存在も拒絶するでしょう。すると、物を考えても自分の身の回りにある有り合わせの言葉でだけでしか考えられなくなります。そうなると世の中が、自分の等身大の見え方でしか現れなくなってしまいます。

 

もちろん、等身大の視点や感覚も非常に大切で、それがないことは不健全でおかしいことなのですが、それを超えた知識にアクセスしないと自分だけのナルシシスティックな世界を超えでることができません。

 

学問という知識の枠組みにアクセスすることで多角的に自分や世の中の問題が見えるようになっていく。つまり学問をすることを通じて、わたしの世界という閉じた殻を突き破って、他者が存在するわたしたちの世界に入っていくのです。その世界には膨大な知識が存在します。大学はそうした知識にアクセスするための、非常に良い場所なのではないかと思っています。インターネットでアクセスできる情報は、さらに膨大ですが玉石混淆です。無尽蔵に増え続ける膨大な石ころのなかから埋もれてしまった玉を見つけ出すのにインターネットは向いていないようです。インターネット時代の膨大な情報なかから、優れた知識を選びだすためにも、大学で学問的教養を身につける必要があります。

さらに大学は、そうした知識と教養を身につけた多くの他者と出会える場所です。大学生にとって大学の教員たちは学問という知識の世界へと分け入っていく際の最良のガイドとなってくれるでしょう。

 

そして私が大学教育でひとつ重要だと思っているのは、真理に対する尊敬の念を持つような学習・研究環境を提供することです。ニーチェやジンメルのような相対主義者がいうように客観的な真理にたどりつけないかもしれません。しかし、到達できるか分からない真理に対して、尊崇の念を持つ。それは言い換えれば、他者への尊敬の念ともいえるでしょう。

 

他者から得る知識を通して、自分の浅知恵を実感し、自分がまだ真理から遠いことを理解する。大学で真理への尊敬の気持ちを学べば、その人はたぶんずっと学問に敬意を払って、学んでいくことになるでしょう。たとえ研究者としての職につかずとも学問はその人の生涯の友となるはずです。それが、大学がしなければならない教育の最も重要なことだと思います。

 

 

――専攻に悩んでいる高校生にアドバイスはありますか。

 

重要なのは、自分にとって大切な問題を見つけることだと思います。龍谷大学社会学部では卒論を書かなければなりません。卒論を書いて卒業するためには、大学生活をかけて取り組める、自分にとって大切な問題を見つけること。それが鍵です。

 

それを見つけるためには、自分自身を掘り下げることも必要です。またいろいろな本を読んでみるのもいいかもしれません。ちゃんとしたテーマが見つからない人は、自分の趣味や好きなことでも構いません。何かしら学問のテーマにつなげられると思います。特に社会学では、さまざまなことをテーマにできますから、ぜひ挑戦して欲しいですね。

 

もし今、大切な問題が分からずに適当な選択をしてしまっても大丈夫です。大学では一般教養の科目がありますから、その中で広い学びをすれば、きっと関心のあるテーマが見つかると思います。もし見つけたテーマが在籍している学部で研究ができなかったら、転部や編入をすればいい。何かひとつ、熱中できる学問のテーマを見つけられれば、きっと充実した大学生活が送れるようになると思いますよ。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

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