2018.04.27
立憲君主制の国、日本――カイザーの体制を崩壊させなかったほうが・・・
先の世界大戦[第一次世界大戦]後に、ドイツ皇帝(カイザー)の体制を崩壊させなかったほうが、われわれにとってはよかったと思う。ドイツ人を立憲君主制の方向に指導したほうがずっとよかったのだ。彼らから象徴(シンボル)を奪い去ってしまったがために、ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまったのであるから。
第二次世界大戦(1939~45年)の末期にあたる1945年7月。ドイツの戦後処理問題などを話し合うため、廃墟となったベルリンの郊外ポツダムで開かれていた連合国首脳会談の場で発せられた言葉である。
発言の主(ぬし)は、ときのイギリス外相アーネスト・ベヴィン。貧しい労働者の家庭に生まれ、労働組合の指導者として頭角を現した生粋の社会主義者であった。
もともとは貴族制度はおろか、君主制にも大反対だったはずのベヴィン。だが、連合軍に追いつめられ、いまや壊滅寸前となっていた日本の「天皇制を戦後に廃止すべきか」という、アメリカ海軍長官フォレスタルの質問に応じて、彼が答えたのが冒頭の言葉であった。
こうした考えはベヴィンひとりに限られたものではなかった。戦後の占領政策を実際に推し進めたダグラス・マッカーサーやコートニー・ホイットニーといった「共和制」国家アメリカの首脳部らも、天皇にすべての尊厳と名誉を与えるが実際政治には介入させない「民主的な天皇制」を、新たに構築することを基本にすえていったのだ。
こうして戦後の日本には、天皇を「象徴」とする新たな立憲君主制国家が築かれた。
君主制の区分
それでは戦前の大日本帝国憲法(1889年制定)下の天皇と、戦後の日本国憲法(1947年制定)に基づく象徴天皇とは、どのように違うのであろうか。
ドイツに生まれアメリカで活躍した憲法学者のカール・レーヴェンシュタインは、名著『君主制』(1952年)のなかで、親から子・孫へと代々引き継がれる世襲君主制を大きく三つに区分している。
まずは「絶対君主制」である。絶対的な支配者である王が、法からも解放され、神意の命じた権利によって思うがままに統治でき、神に対してのみ責任を負う体制だ。17世紀後半のフランスの「太陽王」ルイ14世(在位1643~1715年)がその代表格であろう。
次が「立憲君主制」。国王が統治者であると同時に支配権の所有者でもある。この体制では王権は議会と並存するが、国王の背後には軍隊・警察・行政がついているため、両者に対立が生じた場合には、国王が有利となる。「国王は君臨しかつ統治する」体制であり、19世紀プロイセン(現在のドイツ)やハプスブルク帝国などが代表例となる。
最後に「議会主義的君主制」がある。こちらは、立法は議会に委ねられ、行政は議会内で多数派を形成している政党の信任を得た内閣によって担われる。「国王は君臨すれども統治せず」が基本であり、19世紀のイギリスで確立され、ベネルクス諸国や北欧諸国でも広く採用された君主制である。
ただし、先に紹介したベヴィン英外相の言葉に出てくる「立憲君主制(Constitutional Monarchy)」とは、レーヴェンシュタインの区分にあてはめれば「議会主義的君主制」のことを意味する。第一次世界大戦(1914~18年)による敗戦で、プロイセン・ドイツ帝国やハプスブルク帝国が崩壊し、さらに大戦中の革命でロシアのロマノフ王朝が倒壊されるや、ヨーロッパの大半の君主制は、議会主義に立脚するのが当たり前となったからである。
本稿でも「立憲君主制」と定義づけるものは、この「国王は君臨すれども統治せず」の体制である点に注意していただきたい。
専制的君主制から立憲君主制へ
上記のレーヴェンシュタインの区分にのっとれば、戦前の日本では「天皇が君臨しかつ統治する」体制がとられていた。大日本帝国憲法がプロイセン・ドイツの憲法やオーストリア(ハプスブルク)の憲法学から影響を受けていたことからも、このことは推察できるであろう。
ただし実際の運用面では、天皇にはドイツ皇帝やハプスブルク皇帝のような絶大な力はなかった。政府や議会、陸海軍などが個々に権限を持っていた。ただし、伊藤博文や山県有朋、さらに原敬といった有能で有力な指導者たちが全体を統御できるような時代が過ぎ去り、1930年代以降にこれら諸機関のあいだで調整が利かなくなると、混乱は深まった。
とくにドイツやハプスブルクにも見られた「帷幄上奏(いあくじょうそう)」という、軍部が政府や議会などに諮らずとも、君主に直接軍事に関する意見を上奏できる権限が残り、これもまた日本が太平洋戦争へと突き進む要因のひとつとなった。
ベヴィンが指摘したかったのは、こうしたドイツ流の専制的な君主制を廃し、イギリス流の立憲君主制に先導しさえすれば、第二次大戦後の日本の天皇制も「健全な」体制として、国の安定に貢献できるだろうということだったのではないか。
実際に、日本国憲法においては、戦前の天皇に保障されていた統帥大権や外交大権などはすべて剥奪され、内閣の交替も総辞職か解散・総選挙の結果によるものとされている。
第一次世界大戦後には、ドイツや東欧諸国では「民主主義と君主制は両立しない」という考え方が強まり、それらの国々では共和制が採用された。しかし、これまたベヴィンが鋭く指摘するとおり、それまで君主がしめてきた「象徴」としての存在が急にいなくなってしまったこともあり、独裁者アドルフ・ヒトラーの登場にもつながったのである。
「君主制か共和制か」という国家形態と、「専制主義か民主主義か」という統治形態とは、必ずしも合致はしない。
共和制下のドイツ(ヴァイマール共和国)が史上最悪とも言われたナチスの独裁主義を生みだし、君主制下のイギリスやベネルクス、北欧諸国にいまも世界の最先端をいく民主主義が成熟しているさまを見れば、その点は明らかであろう。
ベヴィンも、マッカーサーも、そして戦後日本でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とともに新たな国造りに邁進した日本の指導層たちも、それに気づいていたのであろう。
「国家元首」としての天皇
戦後70年を経過した現代のわれわれが誤解しがちなのは、この象徴天皇制下の「天皇」の位置づけについてである。現在の憲法では、天皇は「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」とされている。それでは「象徴」とはいったい何なのか。
これについては、戦後の憲法学の世界でも様々な議論が展開されてきたが、ここでは外国が天皇をどのように見ているかを解説しよう。結論を先に述べてしまえば、天皇は「国家元首(Head of State)」に相当する。
この点では、イギリス女王やヨーロッパの君主たちと同様であり、現在の立憲君主たちは事実上の「政府の首長(Head of Government)」をときの首相(内閣総理大臣)に委ねている。そして彼ら君主たちの役割は、現行憲法下の天皇のそれと同じく、内閣総理大臣の任命や大臣の任免、外国大使の接受や国会の召集といった「国事行為」を務めることにあり、また様々な行事を主催し、全国を行幸される「公的行為」にも現れている。
たしかに、日本国憲法には天皇を「国家元首」と表記はしていない。しかし天皇が公式に海外を訪問する際には「国賓」として赴かれるのであり、各国はそれぞれの宮殿や大統領官邸で晩餐会を開いて歓迎する。実際に日々の政治を取り仕切っている首相は「国賓」にはなれず、あくまでも「公賓」の資格でしか公式での海外訪問はできない。
逆に、日本を訪れる国賓を正式に歓迎する宴(うたげ)は、総理官邸で催される晩餐会ではなく、天皇が主催する「宮中晩餐会」である。英語で表現すれば、天皇が国賓として海外を訪れるのは「State Visit」であり、その天皇を海外で歓迎したり、天皇が海外からの国賓を遇する宮中晩餐会は「State Banquet」と表現される。まさに「国(State)が国を接遇する」という意味なわけである。
現在の明仁天皇も、皇太子時代から数えてじつに65年にも及ぶ長い海外訪問歴をお持ちである。その端緒は、1953年6月に行われたイギリスのエリザベス2世女王の戴冠式へのご出席であった。爾来、皇太子時代には22回の渡航でのべ66ヵ国を、1989年に天皇に即位されてからは20回の渡航でのべ47ヵ国を歴訪されてきた。
その47ヵ国のすべてで、それが公式な訪問である場合には、「国賓」として接遇され、君主や大統領から一般の国民に至るまで、多くの人々と接してこられたのである。
象徴天皇制を再考するときに
その明仁天皇が満82歳にして、在位27年を超えられ、2016年8月8日の午後3時に、テレビを通じて「象徴天皇としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を放映されたことは、読者の記憶にも新しいことだろう。
上記のとおり、「国際親善(皇室による海外訪問や外国からの賓客の接遇は「外交」とは呼ばない)」ひとつをとってみても、この翌年(2017年2~3月)のヴェトナム、タイのご訪問に至るまで、長年にわたり世界中の人々と親交を重ねられてきた。さらに日々のご公務も80歳を過ぎたご高齢には負担が重くなってきている。
「おことば」の2~3年前に、明仁天皇とは半世紀以上ものお付き合いのあるオランダのベアトリクス女王(2013年4月退位)、ベルギーのアルベール2世国王(同年7月退位)、スペインのフアン・カルロス1世国王(2014年6月退位)が、次々と「生前退位」され、次代に譲られたことも影響しているかもしれない。
来年4月末には明仁天皇も退位され、5月1日から日本は新天皇とともに門出を迎える。これを機に「戦後日本にとって象徴天皇制とは何だったのか」を考えるとともに、「立憲君主制国家としての現代日本」の持つ意味についても、われわれはもう一度真剣に、考え直す時期にさしかかっているのではないだろうか。
プロフィール
君塚直隆
イギリス政治外交史・ヨーロッパ国際政治史。上智大学大学院博士後期課程修了。博士(史学)。『物語イギリスの歴史』(上下巻、中公新書、2015年)、
『立憲君主制の現在』(新潮選書、2018年)など著書多数。