3.11以後の世界とSF第一世代の可能性

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『日本沈没』のジャーナリズム性

 

稲葉 小松左京論における一つのストラテジーとしては、『日本沈没』を焦点として一連の作品系列を論じる、というものがありますね。焦点のあて方やリーダーシップというものの考え方がそれぞれ違っていて、原点に『物体O』があって、『日本沈没』があって、その語り直しとして『首都消失』があって、という。

 

『物体O』では地方政治家しか生き残っていない中で大学人が張り切って、科学的知見をもとにテクノクラートとして統制経済をやっているけれど、『日本沈没』では政治家や官僚が主役になって、もっと泥臭い話をしているんですね。あと、70年代80年代までは「黒幕」とか「フィクサー」といったものへの信憑があって、『日本沈没』は黒幕がいたからこそ物事が上手く運んでいくという話ですよね。

 

新城 今回の地震が起きる前から「どうしたら小松先生に追いつけるかプロジェクト』を独りでひそかに進めていて、色々読み返してたんですよ。それで気づいたのは、『物体O』を発表した時にはもう『日本沈没』を構想し始めているんですよ。だから原点というよりは習作に近いのかなと。あの時点で出せるネタの反応を見た、とも言えるのかな。『日本沈没』を書き終わってから出したのが『アメリカの壁』で、他にも所謂『日本沈没』系列でないと思われている作品に、資料の再利用をしている痕跡もあったり。

 

稲葉 『アメリカの壁』は『日本沈没』で抜けていた「アメリカ」「日米関係」という主題を補う作品ですね。

 

新城 あるいは『日本沈没』を、もっと当時の娯楽小説ジャンルと比較して読む、とか。特に冒頭4分の1くらいは、当時流行していたサラリーマン小説の技法やアイテムを使っている。当時の梶山季之とかを意識しているのかな、とか。『日本沈没』が出たのは73年ですが、64年から構築を開始しているということを考えに入れないと、見落としてしまう所が結構あります。最終的に出たバージョンも、最初に書かれたものとどれだけ違っているのかという書誌学的研究もなされていないと思うので、それがあればもっと色々判明すると思います。

 

田中 梶山の話で思い出したんですが、この時期は日本のジャーナリズムの黎明期じゃないですか。梶山と並走しているような草柳大蔵だとか、彼らがジャーナリズムを確立していく時代と小松左京の日本沈没の形成過程は一致していますよね。いま思ったのが、小松左京のジャーナリズム的なものが『日本沈没』の中にはあるのかなと。

 

新城 最初に読んだときは当然ながらSF・日本人論として読んだんですけど、最近読み返すと、70年代小説・昭和40年代小説としても面白い。

 

田中 小松自身は自分でも自慢しているように飛行機の利用時間が並のパイロットより長いとか、海外旅行とかジャーナリスト的活動を強めていますよね。出ている本を観ると大宅壮一と変わらないですよね。

 

新城 当時、海外に行ける人間が限られていた時代から、ニクソン・ショック以降そうでなくなった時代への端境期に日本はあって、『日本沈没』はその真っただ中で書かれていますよね。『日本沈没』のジャーナリズム性を見るには、三島由紀夫の海外に行って帰ってきた話とか沢木耕太郎なんかと重ねあわせて、海外渡航が自由になっていく過程を見なければならないかなと思います。60年代は、通貨も渡航も自由化していない。そこが変わるとほぼ同時に『日本沈没』が出て、その後の沢木耕太郎になると個人が個人としてふらりと行ってくる時代になっている。

 

稲葉 『日本沈没に先立つ国際政治小説として『見知らぬ明日』がありますね。あといま言われた文脈でノンフィクションだと『歴史と文明の旅』があって、ちょうど1971年のチリ軍政復帰クーデター前後の貴重な話ですね。転向共産主義者としてストレートに「これじゃだめだ」と書かいたら本当にクーデターが起きてひっくり返されちゃったという。もう1つ、小松のジャーナリストとしての、それもライトな側面が出ているのが観光小説としての『エスパイ』。あれは、初期の五木寛之や小川国夫なんかと共通する「海外に行って見てきただけ」という小説です。

 

新城 そのベースとしてあるのが、観光としての娯楽映画かも。本音は観光名所を観たいし観せたいだけなんだけれど映画なのでストーリーもあります、みたいなのが、あの当時山ほどあったんですよね。

 

稲葉 最終章手前の章のタイトルが「ヨハネスブルグ」なんだけど、ヨハネスブルグは全く描かれていないという。

 

田中 あれ行ってないし。

 

稲葉 ホラだと思いますが「百科事典見て書いた」とか韜晦されてましたね。

 

新城 『観光映画』としての007がベースにあって、その他にも社長漫遊記シリーズとか若大将シリーズとか。当時のサラリーマンが欲しがっていた栄養分だったんだと思います。

 

田中 うちの親父は犬が大好きで、アメリカのドッグショウを見に行くために外貨持ち出し枠をめいいっぱい使って行ってしまったんですよ。そういう日本人がある程度いて、珍しいから現地のオタク同士で仲間ができるんですよね。そして日本にオタク的知識を持ち帰る。梶山季之なんかは海外に取材していましたけど、当時のジャーナリズムでは少数派ですよね。企業のスキャンダルについても経営者の下半身ばかりが注目されて、大きな枠で語る人がいない。その中で小松左京は既存のジャーナリズムへのアンチみたいな形で、「世界とは」「世界の中の日本とは」というものをぶつけていく気概があったのかもしれません。小松左京のジャーナリズムをいまお聞きした限りだと、僕も論文書きたいくらい面白い素材ですね。

 

新城 仕事とは関係なしに調べるのが好きで、年表とか作っていると、いろいろ符合することが結構あるんですよね。小松左京先生についてはまだ分かっていないことが沢山ありますが、こうすれば分かるだろうなという気がします。

 

 

戦後SF第一世代の群像

 

田中 今日は日本のSF第一世代の話なんですけど、率直に言って小松左京だけがいまだにまとめて読む価値があって、筒井康隆は最近ちょっと読み返したんですけど…。

 

新城 筒井さんはご本人がいまどこまで自分をSF作家と捉えているのかという問題も含めて、世間的にももっと安部公房的な立場になってしまったのかなと言う気もしないでもないです。

 

稲葉 筒井さんに関しては、ぼくは自分であまり公平な見方ができないことをお断りしたうえであえて申しますが、作家としては彼はどちらかというと早熟型ですよね。実は彼の魅力の根底には清新なリリシズムがあって、特に初期のスラップスティックはそうしたものに支えられていたからこそ説得力を持ったのだと思います。しかしそうすると彼の一番いい時代は60年代だった、ということになってしまう。筒井さんが私淑する大江健三郎にもそういうところがあって、彼の場合にも「作家として最良の時代はお子さん、光さんが生まれる前の学生作家だった時代ではないか」という評価がありえます。『芽むしり仔撃ち』が最高で『個人的な体験』以降は……と。

 

ある時期以降、筒井は直観とか体力に任せて書くのではなく、考えて、意図的に構築して書こうとしていくわけです。ラテン・アメリカ小説の影響もあると思うんですが、「小説にはやはり物語がなければならず、そのためには確固たる世界観が必要なので、それを構築していく」と、中年を過ぎると意識的になっていく。にもかかわらず、そういう成熟以降の作品より、深く考えずに力任せに書いていた時代のものの方が面白い、というタイプの作家に見えてしまうんです。そういう構造は大江だと露骨なのは『同時代ゲーム』以降だし、筒井だと『虚航船団』や『虚人たち』が分かりやすいと思います。

 

そうしてみると、小松左京は筒井などとはちょっと違う、晩熟型、老成型の作家だったのではないか。ただ、本当の意味での「老成」には失敗したと思います。

 

新城 作品数の分布がまずそうですよね。

 

稲葉 いろいろな意味で「若書き」ですね。でも正体が掴みきれない。戦後第一世代のSF作家で他に「文化現象」としての存在感を放っているのが平井和正でしょう。中島梓が『道化師と神』の中で、「平井和正は日本のSF史上とても重要である」と強く主張しています。確かに彼は、大藪春彦などと並んで、80年代以降隆盛する「エロスとヴァイオレンス」の原型を作った人であり、それと同時に、SFを超えてオカルトへ、さらに「新新宗教」「精神世界」といった「あっち側」に行ってしまった人ですね。平井は論じるのがすごく難しい対象です。行き詰ってはっちゃけちゃった人ではあるけど、文学的コンプレックスとか自意識が高い人でもあります。

 

戦後SF第一世代の中で、一番一貫してブレずにいるのは、実は眉村卓ではないかと思います。あたかも全く何にも影響されていないかのごとく、狭い意味でのSFを倦まずたゆまず書き続けて、しかも「文化人」化もしていない。もちろんお歳を召されてからは大学に職を得てらっしゃいますけど、「(純)文学者」になった筒井さんや、「文化人」になった小松左京とは対照的に、関西に根をはりながら、一貫して『SFマガジン』で誰も読まない ――というと失礼ですが、敷居の高い大長編を書き続ける。あのブレなさは第一世代の他の皆さんには見られないことだと思います。

 

眉村さんは「インサイダー文学論」という問題提起を60年代にしておられて、SF仲間のほとんどから「お前の言っていることは理解できない」と言われていました。しかしいま読んでみますと、「インサイダー文学論」はしごくまっとうな文学論、SF論として読むことができます。「文学者は往々にしてアウトサイダーを気取るが、近代社会においては実は誰もが「インサイダー」であり、誰もが「官僚」なのであって、そのこと自体は別によくも悪くもないんだ」と論じた彼は、まさにその論を実践して、『EXPO’87』そして一連の『司政官』シリーズと、官僚SFを何十年も書き続けている。

 

田中 平井は『道化師と神』でいうと神の方を目指してしまってますね。前半の冒頭で言ったように、生存の2つのあり方でクラーク的な選択肢の方ですよね。それを想像の世界だけじゃなくて実践でもやって、自分が神になろうとしている。眉村の方は、今の話を聞くと、道化師ですよね。官僚だとかの情けない話をずっと書いていて、管理しようとしているんだけど、細かい問題が出てきてうまくいかないということを書いているんでしょうね。眉村の方は、現実にはタッチせず、想像の世界だけにとどまっていますけど。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.265 

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