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『日本沈没』とふたりの女性

 

新城 去年夏のSF大会で1コマ持って小松先生の話をしたんですが、いつ何が発表されたかを並べただけでも新しい発見がありました。

 

田中 経済制度だけでも固定為替制度から変動に移っていますし。

 

稲葉 あれは石油ショック以前の小説ですよね。

 

田中 ニクソン・ショック以降の高度成長が終わった時代の小説として読まれたじゃないですか。堺屋太一の『油断!』もそうですが。

 

新城 あれはあれで興味深い作品ですね。下手をすると『日本沈没』より起承転結がしっかりあって、内面の描写があって、小説として妙にちゃんと体裁を整えている。『日本沈没』は投げっぱなしのエピソードとかありますから。作品の完成度と価値は必ずしも比例しないという好例、と言いますか。

 

田中 銀座の女の子の話とか、どうなったのかなと思ったら最後は死んでいたという。使い捨てですよ。

 

稲葉 銀座の女の子の話は、東浩紀の小松左京論「小松左京と未来の問題」(http://www.webmysteries.jp/sf/azuma1001-1.html)でクローズアップされています。ただ彼は、『日本沈没』の第二部をオミットして、第一部の範囲において、2人のヒロインの対比をしているんですね。第二部は谷甲州さんの筆になるんですが、基本プロットは小松さんが提供して相談しているはずですね。小松さんの第二部構想の中ですでに、主人公小野寺と、ヒロインの一人阿部玲子が再会する予定は決まっていたはずなのに、東さんは論じていない。

 

第一部では、資産家令嬢の玲子とバーの女の摩耶子がいて、最後の方で資産家令嬢が死んで、記憶が混乱した状態でバーの女と日本を脱出する、となっているんですが、第二部では、死んだと思われていた令嬢は国際公務員として難民関連の仕事をしていて、30年を経て主人公と再会するんですね。

 

新城 一色登希彦の漫画版では、バーの女の子が死ぬvs令嬢と再会するという構造が活用されていますね。

 

稲葉 第一部末尾で、バーの女の子は「生き延びて子どもを生み、未来へとつないでいく」と宣言しているのに第二部ではそれがなかったことにされていて、それが非常に納得がいかない。「子どもみたいな女だった」と回想されて、あの女の子の存在そのものがファンタジーにされちゃっているんですね。

 

田中 エロゲーでいうとあるルートだと国際公務員とハッピーになりそうなんだけど、実はどこかで重要なヒロインが見殺しになって、そのトラウマをゲームのプレイヤーがずっと感じているという、そういったテーマを扱っていた東さんがねぐっているところが許せませんね(笑)。

 

稲葉 ひょっとしたらこの後書く予定なのかもしれませんが、webに乗っている範囲だと第一部までですね。あれはまとまった小松左京論としては秀逸なものなので、それだけにちゃんとやってほしいなと思います。

 

田中 第二部は女性があまり生きていないと思います。

 

稲葉 第一部は東も指摘しているように、小松的ないかにも古い女性観で通されているので、批判はありうるんですけど、谷甲州が担当する第二部になると、その辺のポリティカル・コレクトネスはクリアされてるんですけど、なんにもなくなっちゃう。彼は女性を書きたくないという人ではないと思うんだけど、『日本沈没』第二部には女性があんまり出てこないですね。谷さんは『エリコ』がトランスジェンダーの話ですよね。『パンドラ』を見ても重要な副主人公に女性科学者がいますし。それが『日本沈没』第二部では、国土沈没がきっかけで日本女性の社会進出が進む様を書いてはいるんだけど、話として上手く転がっていない。

 

田中 『日本沈没』を中学生の時に読んだんですが、真っ先に反応したのが伊豆の海岸でのベッドシーンですね。意外とSF小説はエロいのが多いじゃないですか。ジャーナリズム云々とか格好つけましたが、当時の僕にとっての小松はあのシーンに集約されていました。

 

稲葉 誰かが言っていましたが、小松は無重力セックスへのオブセッションがあると。

 

 

SFの大衆化

 

稲葉 改めて新城さんにお伺いしたいのは、蓬莱学園のTRPGからコンピューターゲームを含めての架空世界遊びが日本に定着したプロセスについてです。SFの大衆化といった時、いくつかの契機があると思うんです。『マップスシェアードワールド』で書かれた小説は、「スター・ウォーズ」小説ですよね。

 

『スター・ウォーズ』前後では確かに何かが変わったわけです。例えば、小林信彦も『唐獅子シリーズ』で取り上げている。『スター・ウォーズ』は世界文化史的に重要だけど、日本特殊的にも重要でした。あの頃は外国映画が日本で公開されるまでに、1年ほど時差があって、そのタメ自体に意味があった。これが1つ大きな契機です。

 

もう1つがコンピューターゲーム。特に日本にとってはファミコンの大衆化があります。たしかに日本では、TRPGは大衆化していない。けれど、一定のコアなファン層は存在していました。それ以上にSFプロパーにとってすごく重要だったのは、「安田均をゲームにとられた」ということです。日本SFは、文学的素養の深い先鋭な批評家であり実作家であった山野浩一と石川喬司を競馬にとられて、その上に、海外SFの精力的な紹介者であった安田均をゲーム――TRPGにとられたんです。

 

その安田均の薫陶を受けた水野良がライトノベル・ジュブナイルの牽引者になって、やはり安田の弟子筋にあたる山本弘がライトノベル作家からプロパーのSF作家になって、ようやく元が取れた、と言いますか。新城さんも傍目にはそういう、「ゲームからSFへ」という存在に見えるのではないでしょうか。大塚英志さんも「安田均が重要だ」と言い続けています。

 

あと、安田さんがSFから離れていくのとほぼ同時代に、荒俣宏さんが批評家、紹介者から実作者に転じていきました。批評家、書誌学者時代には、SF、ファンタジーをより広い文学史、文化史の中に位置づけて、『理科系の文学誌』などで一部に熱狂的なファンを持っていた荒俣さんはしかし、そうしたかつてのファンを『帝都物語』などの実作でいたく失望させたわけです。

 

安田や荒俣がSFプロパーから離れたこの時代は「SF冬の時代」と言われていたけれど、SF的な意匠それ自体は、むしろ大衆的に浸透したわけです。まさに70年代に言われていた「SFの浸透と拡散」がほぼ完了した。そこで一般的に目立つのがファミコンであり『ドラクエ』なんだけど、その底流にはTRPGを下敷きにできたコンピュータRPGの原点である『ウィザードリィ』や『ウルティマ』があります。

 

考えてみれば戦後SF翻訳の草分け矢野徹は、『ウィザードリィ』紹介者と言ってもよいほどだし、日本産のTRPGを作っていった安田均とその弟子たちの活動があって初めて、日本でこれほどライトノベルにおけるSFの層が厚くなったわけです。81年に書かれた中島梓の『道化師と神』での重要なテーマのひとつが、「日本SFには頂点ばかりで裾野がない」ということでした。

 

ところが、それ以降、裾野が、ゴミのような作品と、それを書くゴミのような作家たちが一気に広がって、文化として本来あるべき姿に移行したと言えます。彼女が『グイン・サーガ』を延々とか書き続けるのもそれ以降ですから。その中で、ゴミの山になっていったわけですが。

 

新城 栗本さんをきちんと評価するのは、ほとんど不可能なんですけど重要ですよね。私自身も彼女のやおい小説とか結構読んでいるつもりなんですけど、舞台は観ていませんし。そこまで観ないと彼女の全体像把握はできないのではと思います。

 

稲葉 彼女は変な人ですけど、評論家としてはおそらく一流で、小説家としては一流ではないかもしれないけど、それでも常人離れした力のあった人です。『ベストセラーの構造』はすごく重要な本で、社会学者の佐藤健二さんが非常に高く評価しておられました。あれは簡単に言えば「ゴミがこれほどたくさん読まれているけれど、ゴミは重要なんだ」という本ですね。(その当時ですと引き合いに出されていたのは『窓際のトットちゃん』でしたが、そういった)ゴミのような本があんなに読まれるということはどういうことなのか、をまじめに考えて、そのこと自体は決して否定されるべきことではない、とはっきり言っている。実作者として、それを実践した方だと思います。ただ、公平な評価がしにくいです。

 

田中 さっきの小松左京のジャーナリズム論にひきつけると、80年後半からネット社会が始まって90年半ばになるとネットを探るとゴミの知識がいっぱい出てくるじゃないですか。それまでは海外情報であるとか最先端の専門知識はごく一部の人間が得るもので、情報の独占性が強かったわけです。そうした独占性がネットにより弱まり、それと同時に間違った解釈などのゴミ情報の裾野が広がって、小松的なジャーナリズムのあり方も確実に変化していったんでしょうね。ゴミの中で小松左京を再評価するという。

 

新城 戦後情報化社会が成立するまでと、してからの大変化があるわけですね。昔は海外情報を持ってくる人が偉くて、その人が選んできてくれた。SF界で言うならば野田昌宏大元帥とかが全部読んだ上で『キャプテン・フューチャー』を翻訳しましょうと。

 

稲葉 野田さんで印象的なのが『奇想天外』のベスト10でバラードの『ヴァーミリオン・サンズ』が好きだと言っていて。

 

新城 小松先生も『日本沈没』や阪神淡路ルポを書くときに、ゴミのような膨大な情報を飲み込んで、これは言わなくていいやということをやっていてくれたと思うんです。ただ、情報化社会がものすごく進歩して、我々自身が日々ゴミに触れる時代になって情報とのつき合い方が決定的に変わってしまった。小松先生の悩みもそこにあったのではないかと。

 

稲葉 作家になる前の荒俣宏さんとか、澁澤龍彦とか、英文学で言えば高山宏さんですね。そういった人達と共振しますね。そういう構造が今では成り立ちにくくなっているのかもしれません。

 

新城 戦後には人間フィルターみたいな人たちがたくさんいて、同時に彼らは先ほどの梶山さんのように多作だった。または逆にものすごく絞り込んで、ものすごく素晴らしいものをあたかも海外にはそれしかないように紹介してくれた。栗本さんが、その系譜の最後の人だったのかもしれません。あのレベルで多彩かつ多作な人は最近はいないんじゃないでしょうかね。ライトノベルの人たちが多作なのは同じジャンル内の同じシリーズが長期に続いた結果にすぎない。

 

田中 サブカルチャーでいうとJJおじさん植草甚一とかが典型ですけど、かれのアメコミ論とかは自分の読んだものしか書いていないんですね。非常にバイアスがかかっているけれど、これがまさにいまのアメコミであると書かれると、そうなんだと思っちゃうんですね。

 

新城 海外から情報源が絞られているんだけれど、国内で雑誌なり何なりを印刷したらそれだけ売れるという状態が仮にあったとすると、それが80年代から90年代に変わってしまった。今では海外からの情報源はいくらでもあるけれど、刷ってもあんまり売れないという状況で、この対称性は何か関連があるのかも。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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