3.11以後の世界とSF第一世代の可能性

エンターテイメントの重厚長大化

 

稲葉 小説のあり方としても、やたら分厚いエンターテイメントが出てくるという時代に80年代あたりからなりましたね。スティーヴン・キングなんかもそういう時代に乗っかって出てきた人だと思います。日本でいうと、高村薫さんにはそれに近いものを感じなくもないです。純文学でも、トマス・ピンチョンやジョン・バースが原型を提示していて、日本では村上春樹なんかはそんな感じですね。物量作戦も京極夏彦さんにあたりになると、突き抜けたセルフパロディといった感じになるんですが。

 

昔は商業上の要請もあって、ことにエンターテインメントは長編でも1冊200頁位に話をまとめるのが普通で、SFの場合でも、大ネタになればなるほどネタを振っただけで終わって、ストーリーやキャラクターの方はないも同然 ――というのが基本形だったんですが、80年代、90年代でそういうあり方ははっきりと変わったと思います。

 

SFプロパーだと原型を提示したのは60年代のハーバートの『デューン』だと思います。あと、70年代にラリー・ニーヴンがジェリー・パーネルと共同作業を始めて以降の展開が興味深い。最初の『神の目の小さな塵』はプロパーSFだったんですが、彗星の地球への衝突を描く『悪魔のハンマー』は普通のパニック小説ですよね。それ以降、彼らはどんどん普通のパニック・ノベルとしても読めるものを出していきます。あと、キング以降の、モダン・ホラーのジャンルとしての確立。キング以外には、瀬名秀明が師と仰ぐディーン・R・クーンツがいます。

 

このような、出版、小説におけるいわゆるブロックバスター的展開と、『スター・ウォーズ』以降の、映画における特殊効果の発達、虚構世界を言葉を通してではなく、視覚や聴覚を通じて「体感」させる技術の発達や、娯楽としてのゲームの浸透は、連動していると思います。読者を架空世界にどっぷり浸らせるための小説の重厚長大化と、それに浸れるように映画やゲームなどで訓練された読者の登場が80年代以降の展開ではないでしょうか。

 

純文学もミステリーも映画も、この時期、少し体質が変わっている。『日本沈没』はあの長さ ――というか短さで、70年代には十分みんな満足したわけですが、今あれをやったら小説でも10巻くらいを要請されると思うんですよ。漫画もある時期以降、重厚長大化しましたが、これは大きく見れば世界的かつジャンル越境的傾向だなと思います。

 

田中 漫画の『日本沈没』も長いですよね。

 

稲葉 村上春樹も以前「小説における技術革新というのがあるんだ」と言っていましたが、まず非常に皮相なレベルでは、重厚長大化傾向を簡単に確認できると思います。冲方丁さんが『マルドゥック・スクランブル』でやっているのもそうで、あれは昔だったら文庫1冊で済んだ話を延々と書き続けていますね。

 

田中 栗本薫から始まっているんですが、SF第一世代とそれ以降とでは、読書環境でも違いがありますね。

 

稲葉 そういう意味では平井和正は端境期にいるんですよ。

 

新城 とにかく長い話を書き続ける人と、色々書く人と何パターンかありますよね。

 

稲葉 そういう意味では眉村卓さんは異例なんだと思います。『消滅の光輪』を書いた後で『引き潮のとき』を書いて、もうちょっとライトな『不定期エスパー 』を書いて。重厚長大化といった時に、第一世代でほぼ唯一彼だけがそれをやっている。

 

新城 未完で終ってますが半村良さんの『太陽の世界』があります。あれが最初かもしれません。どちらにせよ、角川戦略の流れなんですが。たしか栗本さんが『グイン・サーガ』を書くときに『太陽の世界』が80巻だよという話を聞いて、じゃあ100巻にするか、といった話を聞いたことがあります。でも最初に80巻とぶちあげて書くのは異様な戦略ですよね。

 

 

角川戦略と第一世代2.0

 

新城 第一世代ということも含めて、小松先生と同じくらい私が影響を受けているのが半村先生です。これは最近ようやく気がついたんですが。『産霊山秘録』とか今読み返しても発見があります。

 

稲葉 半村良は風俗小説の書き手として卓越していた、という評価がよくなされますが、それだけではないですね。結果的には失敗作だとは思いますが、『妖星伝』という異様な作品を書いて、大変な試みをしていますね。「隆慶一郎はSFだ」とぼくは前に主張しましたが、似たような意味で「半村良はSFであり時代小説である」と思います。あのリアリティは現実の歴史的な江戸らしきものを基盤にしているわけだし。

 

新城 この辺はちゃんと調べているわけではないんですが、SF第一世代は角川戦略と親和性が高いという気がします。。確か光瀬龍さんもやってますよね。ノベルズ戦略と結びついて第一世代2.0というかルネッサンスがあったなと、今になって気づいたんですが。

 

稲葉 角川商法の総括もされていないですね。SFを離れて大藪春彦や西村寿行さんといった人たちの評価とも絡んでいますね。

 

新城 ミステリーだと金田一シリーズを無理やり…

 

田中 角川商法の最初はエリック・シーガルの『ある愛の詩』で、アメリカのベストセラーを日本で当てることはできるのかということですよね。あれと並行して『野性時代』が出てきて、あの当時のライバルは『プレイボーイ』だったと思うんです。プレイボーイのエロを小説では西村寿行とかが補ってくれてたわけです。

 

新城 私的には、永井豪先生が強烈に。

 

田中 角川商法で本屋の平台が変わってしまいましたからね。

 

稲葉 あの時、版権がでかいというのがありましたよね。吉本隆明の『記号の森の伝説歌』は確か『野性時代』だったんじゃないかな(*1975年から1984年まで連載)。

 

田中 吉本の初期三部作を文庫化したのもあの時期ですよね。角川文庫の新しさは、表紙にイラストや写真を持ってきたというのがありますね。当時、文庫は棚に入っているんですけど、角川は他の単行本と同じく平積みにされるビジュアルを持っていたんですよ。同時にやったのがマルチメディア戦略ですね。結局、角川商法の限界は映画から来てしまったんですね。当時、配給会社は系列映画館で上映するという方式がとられていたのを角川は打ち破ろうとしたわけなんですが、それに失敗した。それができるようになったのが、90年代後半でシネコン方式がとられるようになってからですね。あと個人的に麻薬に手を出したっていう…

 

稲葉 角川は春樹もそうだし、弟歴彦も、どちらも異様なビジョンを持った人ですよね。

 

新城 『野性時代』と角川商法から色々派生しているんですね。歴史的には『野性時代』の成功からライトノベルが発生してきたわけだし、昭和的なものすごい人が映画を作ったり…『日本沈没』もそうですよね。あれは東宝ですが。当時はそういう情熱と、やってもいいよという凄いプロデューサーがいた。それがどうして受けたか、というとスターウォーズの影響もあったりでなかなか複雑ですが。

 

稲葉 ガンダムのせいでヤマトの影響感が一気になくなってしまったんですけど、ある時期まではすごい存在感でしたよね。

 

田中 しかもヤマトは再評価ですよね。初回放送時は、裏番組は「猿の軍団」がやっていて、それに小松左京は関与していましたよね。当時みんな男の子は「猿の軍団」、女の子は「アルプスの少女ハイジ」を観ていて、ごく少数派だけが「ヤマト」を観ていたんです。

 

稲葉 オリジナルのドラマの「猿の惑星」も似たような感じですよね。あれだけのものを作ったのに変なふうに蘇って。

 

新城 『猿の惑星』の世界観で人間が言葉を喋っちゃダメだろ!と私なんかは思うんです。

 

田中 「さよならジュピター」もいろいろな問題をはらんでますね。当時これと「だいじょうぶマイフレンド」が僕の中ではごちゃごちゃ。

 

稲葉 あれで借金を村上さんは背負ったわけですよね。

 

田中 あと手塚治虫の24時間テレビに書いたインチキSFが今では美談になってしまっていて、当時あまりの酷さに驚いたのに。

 

新城 美談というか怪談というか。放送が始まった時に後半パートをまだ作ってたという伝説も。

 

田中 このまま行くと「さよならジュピター」も美談になりかねないので、当時を覚えている人間がドライに言うべきですよ。

 

稲葉 あれは直後から糾弾の嵐でしたよね。企画会議からいきなり高千穂遙が先導してプロレスの話をして分けわからなくなったという都市伝説がありますよね。議事録が欲しいと思うんですけど。

 

田中 「さよならジュピター」はうかうかすると美談になってしまうからもう一度見なおそうということですね。

 

新城 当時映画を作るということが、今とは違った意味を持っていたんだなということは感じます。

 

稲葉 個人ではできない巨大プロジェクトですからね。その意味で言うと、SFファンタジーが日本映画を牽引することになったのが宮崎アニメなんだけど、宮崎駿という人が規格外の天才であったんですね。映画の意味が前後で変わることと関係していますが、宮崎駿はそうした意味だと異様な存在ですね。

 

切通理作さんが指摘されましたが、あの人は時間さえ許せば一人で長編アニメを作るポテンシャルを持っているんです。だけど現実的には商売にならないからプロダクションになっているんです。あのプロダクションは宮崎の下働きに過ぎないわけです。僕は『ナウシカ解読』を書いているときはそれを認識していなくて、一人で漫画を書いているときの宮崎とプロジェクト・リーダーの宮崎、少なくとも二人の宮崎がいるんだろうと思っていたの。だけどそうではなく、宮崎は一人しかいなかった。

 

しかしそういう体制のものとでは、後継者が普通の意味では育たないし、おそらくは宮崎の手綱をいかに取るかというのがジブリの大問題なんですね。鈴木敏夫の大きな功績は宮崎を上手く飼い慣らしたというところにあるんでしょう。あと岡田斗司夫さんが言っていますが、宮崎吾朗がなぜ重要かというと、宮崎駿に叩かれても萎まない「息子」であるということ。他人だと喧嘩して出ていってしまうんですね。プロジェクトとしての映画と個人技としての映画の端境期に彼もいるんだと思います。他に彼レベルで突出した技量を持った映画作家はいないのかな。

 

田中 そろそろ締めましょう。今回の鼎談では、主に小松左京のSFに代表される作品群が、一種のジャーナリズムとして、想像的でかつ科学的でもある情報を日本人に伝える機能をもっていたこと、それが日本の「物語」として、SF領域を超えて、文化的な土壌に浸透していったことが確認できましたね。

 

またSF第一世代の活躍がどのようなものかを、後半は80年代の終わりぐらいまでを実際にたどり、その多様な発展や他メディアとの交流をも語っていきました。SFがその本来の狭いジャンルを超えて、ほかの領域との接近遭遇を繰り返し、そこから新しい「物語」の方向を見出していくということが、これからも求められるのではないか、という思いを強く持ちました。今回はその最初の第一歩として、これからもさらに続けていくべき試みではないかと思いました。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.2019.4.15 

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