動物にたいする倫理的配慮と動物理解

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日常的な動物理解の間の齟齬

 

動物倫理の議論で重視されるのは、まず、動物を個々の存在として捉える視点である。そして、誰かに正当な理由なく苦痛を与えるのは倫理的に問題があるという考えであり、動物のなかには、苦しんだり喜んだり、何かを怖がったり期待したりといった、豊かな内面的状態をもちうるものもいるという理解である。そうした基本的な考え方は、初めに述べたような、動物をめぐる社会的変化を支えるものにもなっているだろう。

 

しかし他方で、現実には、そうした動物理解とは相容れないような扱いを受けている動物がいるのも事実である。たとえば、豚や牛や鶏などの畜産動物は、「アニマルウェルフェア」ないし「動物福祉」という考えのもとで、たしかに、「生きている間」の福利の向上が目指されはじめているが、結局は、人間に殺されて食べられている。これは、殺処分を避けるためにさまざまな取り組みが行われている犬や猫とは、大きく異なる扱いである。また、とくに日本や欧米などでは、犬や猫を食べるという考えにたいして強い抵抗感が示されるのが普通である。

 

こうした扱いの違いを考えると、結局のところ、動物にたいする倫理的配慮という考え自体、犬や猫を好きな人が自分の都合で主張しているだけの、恣意的なものだと言いたくなる人もいるかもしれない。倫理学において判断の一貫性が重要視されると述べたように、たしかに、犬や猫も豚や牛や鶏も、苦痛や恐怖を感じたり、喜びや期待に溢れていたりといった内面的な豊かさをもつという点には違いがないのだから、これほどまでに扱いが異なるのはおかしいと言えそうである。

 

では、一貫性を重視するとすれば、どちらの態度が選ばれることに――どちらの態度を他方の対象へと広げていくべきだということに――なるだろうか。先に見た倫理学の議論に基づけば、豚や牛や鶏を食べるために殺すことの方が倫理的に維持できない扱いということになるのは、ほとんど確かである。

 

他方で、私たちの多くがそうした発想をもちにくいのだとすれば、それはなぜなのだろうか。人の考え方や生き方は一貫しないものだし、人はそれほど倫理的にはなれない、と諦めてしまう方がいいと思う人もいるかもしれない。しかしながら、ここでもやはり、私たちの動物理解を手がかりにすることで、もう少し別の仕方で、動物にたいする扱いや態度をめぐるこうした齟齬を捉えることができると思われる。

 

おそらく一方では、私たちは、豚や牛や鶏についても、かれらが苦しみや喜びといった豊かな内面をもちうる存在だという動物理解をすでにもっている。犬や猫とは違って身近に接することが少ないため、畜産動物の内面について考える機会はあまりないかもしれない。しかし、かれらについて少しでも思いをめぐらせてみると、かれらの倫理的な重要性に気づかせるそうした理解は、否定しがたいものであるはずである。

 

他方で、畜産動物に関しては、ここまで見てきた動物理解を妨げてしまうような、別の理解や考え方もまた存在していると考えられる。以下では、簡単にではあるが、そうした理解や考えとして、代表的だと思われる2つを検討したい。

 

ひとつは、生物はみな「同じ命だ」という考えである。一見すると、この考えは、動物を大切にすることにつながりそうだが、とくに動物を食べることの是非をめぐる文脈では、その逆に働く傾向にある。というのも、こうした言葉は、「動物も植物も命である。私たちが生きるには、他の命を犠牲にせざるを得ない。そうだとすれば、植物を食べることは許され、動物を食べることは許されないと考えて、動物だけを特別視するのは正しくない」と主張するために用いられることがあるからである。

 

たしかに、植物は生物であり、「命」であるという点では人間も動物も植物も同じだと言える。植物もただの「物」とは異なる存在であり、むやみに傷つけたり破壊したりすべきではないというのはもっともかもしれない。しかし他方で、「命を大切にしよう」と言われるときに考えられているのは、たんに生物であるがゆえに大切だということなのだろうか。

 

少なくとも豚や牛や鶏などの動物の死は、植物とは異なり、苦痛を伴うだけでなく、喜び、興奮、期待、満ち足りた気分といった、私たちが自分や他者のなかに見いだしている重要なものの途絶も意味する。そうした特徴こそ、命が大切なものだと私たちに気づかせるものであり、人間とも共有されているものである。このように考えていくと、植物が枯れることと動物が死ぬことが、本当に同等だとみなされていると考えるのは難しいのではないだろうか。

 

また、たしかに私たちは、他の命を犠牲にすることなしに生きることはできない。しかし、そうした犠牲を本当に真剣に受けとるならば、少しでも犠牲を減らそうというのが素直な発想のはずである――少しでも犠牲が生じてしまうなら、いくら生じても同じだというのは、あまりに投げやりな考え方だろう。少なくとも、これほどまでに多くの動物を犠牲にしなくても人間は生きていけるのだし、畜産動物を育てるためには大量の植物の命が必要になる。

 

つまり、健康に生きるために動物を食べることがもし必要だとしても、動物を食べるのは本当に必要な分だけにして、植物を主に食べるようにすれば、生じる犠牲はずっと小さくできるのである。そうだとすれば、仮に「命」の重みが等しいという考えを真面目に受けとるとしても、動物も植物もどちらも区別なく犠牲にするという選択には無理があるだろう。このように、「同じ命だ」という言葉を掘り下げて考えてみると、「それゆえ、動物も植物も同じように扱わなければならない」ことになると主張するのは、難しいように思われる。

 

ふたつめは、畜産動物について言われる、人間が「食べるための存在だ」という理解である。こうした理解によって、多くの人は、動物の被る苦痛には関心を向けながらも、食べるために殺すということ自体に疑問を感じないのかもしれない。あるいは、豚や牛や鶏が「食用」であることは社会的に認められているにもかかわらず、倫理的な問題があると突然指摘されることに、反発を覚えるかもしれない。

 

しかし、「食べるための存在」という理解は、実際のところどのようなものなのだろうか。食用に適するように交配されていったからといって、その存在がもつ「何」によって、その存在は食べるための存在になるのだろうか。たとえば、ある犬種に、食用犬として飼育されてきた歴史があり、その後ろ脚が棒状になっているのは、食用に適するように運動能力を低くするためであったとしよう。だが、その特徴が、その犬を、たとえば柴犬とは違う「食べるための存在」にするだろうか。

 

こうした考えに無理があると思われるのは、どのような目的でその形質が変化させられてきたとしても、その犬も柴犬も、それとは独立に、それぞれ自身の生をもっているからである。たとえば物を切る目的で作られたハサミであれば、「物を切るための存在」だと言ってもいいだろうし、ハサミに関して重要なのは物を切るのに適しているかどうかだけだと言ってもいいかもしれない。

 

しかし、犬や猫や豚や牛や鶏などは、そうした存在とは異なる。かれらには、それぞれ自身にとっての幸せなあり方があり、それぞれが一個の「動物」として、喜びや期待をもって生きている。そうした特徴をもつ存在について、人間の「食べたい」という目的のための「道具」として存在しているとみなすことができるのかは、食生活に関して慣れ親しんできた思い込みから離れて、考え直す必要があるだろう。

 

倫理学は、私たちが当たり前のように受けいれているさまざまな理解について、その根拠を、いったん立ち止まって、もう一度よく考えてみようとする。ここで述べてきたように、動物にたいして倫理的配慮をする必要があるという考えは、動物の苦痛や喜びがもつ倫理的な重みを根拠にしている。ここで根拠の有無や是非が問われているのは、豊かな内面をもつ動物の生を、植物の命とひとまとめにする理解や、動物を食べ物として見る理解の方だと言える。

 

もちろん、豊かな内面をもつ存在として動物を理解することが、肉食をやめるべきだという倫理的判断に直ちにつながるわけではない。しかし、人間にたいするものを含めた日々の倫理的な配慮のあり方をふり返ると、相手にたいするそうした理解はたしかに重要な役割をもっている。動物にたいするふるまいについて、倫理的な観点から考え直す必要があるということもまた、否定しがたいだろう。

 

動物倫理の学術的な議論はすでにかなりの蓄積があり、現在も盛んである。その論点も多岐にわたっている。もちろん、個々の論点については対立もある〔より詳しく知りたい場合には、日本語の本として、伊勢田哲治2008『動物からの倫理学入門』や2015『マンガで学ぶ動物倫理――わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか』を参照してほしい〕。しかし、その議論に共通しているのは、本稿で見てきたように、動物の苦しみや喜びについて真面目に考えるということであり、また、自分自身の考え方のなかにある齟齬を少しでも解消し、自分にたいして少しでも誠実に生きようという姿勢である。動物倫理のこのような基本的な考え方が、本稿を通して伝わればと思う。

 

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vol.266 

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