自粛反対論と「戦士」の黄昏

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現代社会では、「弱者」に配慮することを正しいとする考え方が幅広く、そして深く浸透している。「社会正義」の中でも上位に位置づけられるものであろう。とくに力ある者、心ある者は「弱者」の立場に立ち、代わりにその権利のために戦う、すなわち社会正義のために戦う「戦士」となることで、仲間内から高く評価される。

 

実際に起きている論争をみると、「弱者」自身より、こうした「弱者」の気持ちや意見を代弁するかたちで他の人が行う主張が多くを占めることに気づく。これはジャーナリスト佐々木俊尚が指摘した「マイノリティ憑依」とかなりの部分重なるものだ。専門外なのであてずっぽうだが、社会心理学の専門家であれば、内集団構成員に対する不公平・不公正な取り扱いへの共感的怒りに動機づけられた非当事者攻撃というかもしれない。

 

・佐々木俊尚(2012)『「当事者」の時代』光文社 

 

・熊谷智博(2013)「集団間不公正に対する報復と しての非当事者攻撃の検討」『社会心理学研究』第29巻第2号p.86- 93.

 

しかし、そこでいう「弱者」とはいったい誰か。「戦士」が仲間とみなすのは、たとえばフェミニストであれば女性、エスニックマイノリティであれば当該民族ということになろうが、人は通常、複数のグループに属しているから、つねにある1つのグループだけを仲間と感じているわけではないだろう。

 

たとえば米国において白人女性は「女性」グループと「白人」グループの双方に属している。米国社会において前者は「弱者」とされ後者は「強者」とされる。したがって白人女性が自らをどう位置付けるかは、たとえば白人女性が白人至上主義をどう評価するかに影響するだろう。「弱者」に配慮しようとする企業経営者は白人女性と黒人男性のどちらを雇うか迷うことがあるかもしれない。前者については米国の歴史学者エリザベス・ギレスピー・マクレーの研究が示した「不都合な真実」が社会に衝撃を与えた(黒人女性にとっては驚きでも何でもなかったが、とマクレーはいう)。

 

・Elizabeth Gillespie McRae (2018). Mothers of Massive Resistance: White Women and the Politics of White Supremacy. Oxford University Press.

 

The Women Behind White Power New York Times 2018年2月2日

 

こうしたことはいうまでもなく、他の領域にもある。同じ米国でいえば、上掲「Gumball」に出てきたような収入や体形による差別の他、性的指向や嗜好による差別、ゲームやアニメなどオタク趣味に対する差別、人種マイノリティ間の人種差別など、さまざまな差別の要因があり、その中の1つ、あるいはいくつかを備えた人同士でどちらがより配慮すべき「弱者」なのかはいちがいにはいえない。

 

日本においても同様だ。たとえば福島第一原発事故のため避難を余儀なくされた人々はまぎれもなく被害者という「弱者」に属するが、彼ら(そしてその立場に「憑依」した人々)が拡散した放射性物質の危険性を過大に評価して当該地域の農産物などへの風評被害を引き起こしている点では加害者の側に立つ。

 

また、女性は全体として女性の権利保護や社会的地位の向上といった大きな命題では合意できても、より具体的な、たとえば専業主婦に対する配偶者控除や国民年金の3号被保険者の保険料をどうすべきか、性自認はMtFだが性別適合手術は受けていない人々を公共のトイレや浴場においてどう扱うか、伝統的性別役割分担を肯定的に描く表現をどう考えるか、といった問題に関しては、必ずしも一致した意見があるわけではない。オタク趣味を持つ女性の中には、オタク男性を「性的搾取」と批判する女性活動家の声を居心地悪く聞く人もいるだろう。

 

DISCRIMINATION AGAINST FAT PEOPLE IS SO ENDEMIC, MOST OF US DON’T EVEN REALISE IT’S HAPPENING Independent 2018年5月21日

 

人種差別はここにも存在する-米国ヒスパニックによるアフリカ系アメリカ人差別の実態 Global Voices 2017年11月7日 72/

 

働く女性の声を受け「無職の専業主婦」の年金半額案も検討される マネーポスト 2019年5月5日

 

実態を知らない批判 トランスジェンダー女性が攻撃される日本 ライブドアニュース 2019年4月27日

 

「弱者」同士手を結んで共闘すればよい、という意見は、その「弱者」同士で利害が対立することがありうること、そもそも誰が配慮すべき「弱者」なのかについての意見が社会の中で必ずしも一致していないという点を無視あるいは軽視している。

 

英語圏では近年、いわゆるintersectionality(交差性)という概念で複数の「弱者」属性を兼ね備えた人々がより深刻な差別を受けるといった議論がさかんになされているが、その中でももっとも「弱者」性が高い人々の問題にフォーカスするあまりか、上掲マクレーの指摘するような「弱者」間の関係に対する視点はまだそう多くはみられないようにみえる(日本ではほとんどみたことがない)。結果として起きているのは、さまざまな「弱者」に「憑依」した強者たちがどちらがより「弱者」なのかを競い合うという、まさに現代社会の言論空間の重要な一部であるソーシャルメディア上で日々展開されている状況だ。

 

・徐阿貴(2018)「Intersectionality(交差性)の概念をひもとく」『国際人権ひろば No.137(2018年01月発行号) 』

 

・Intersectionality 101: Why “we’re focusing on women” doesn’t work for Diversity & Inclusion Jennifer Kim – Awaken 2018年4月11日

 

White Women, If Your Feminism Isn’t Intersectional, GTFO Scary Mommy

 

冒頭のピエール瀧のケースで起きた反発も、「犯罪者がメディアで“のさばって”いることに傷つく弱者」と「犯罪を犯した表現者の表現物に触れられなくなって悲しむ弱者」、あるいは「犯罪者が“のさばる”ことで社会秩序が乱れることを懸念する弱者」と「犯罪を犯してしまったが立ち直ろうとする弱者」、および彼らのいずれかに「憑依」して自ら代弁者となる強者たちの戦いにおいて、後者が前者に対して放った反撃であったとみることができる。

 

具体的な被害者がいる犯罪であれば、被害者側に「憑依」した方が加害者側に「憑依」するより強いのだろうが、違法薬物の場合はそうではない、と考える人が数多くいたということなのだろう。近年になって、違法薬物の問題を犯罪ととらえる見方に加え、依存症の問題ととらえる見方が出てきたことも影響していよう。

 

もちろん、被害者がいる場合でも、加害者に「弱者」の属性があれば、どちらが「有利」かはわかりにくくなる。2018年1月、母親が3つ子の次男(生後11か月)を床に叩きつけて死亡させた事件では、母親を殺人犯として非難する声と、育児疲れを考慮して擁護する声が交錯した。1989年に東京・埼玉、2014年に佐世保でそれぞれ起きた猟奇的な殺人事件には類似点があることが指摘されているが、加害者がいわゆる「オタク」の若年男性か女子高校生かという違いのせいか、加害者への評価には大きな差があった。

 

一方どちらのケースも、加害者の親に厳しい非難が寄せられたが、いずれの場合も加害者の親であることの苦しみは彼らの自殺という悲惨な結果のあとでしか理解されなかったのはなんとも哀しい一致だ。最近話題に上ることの多い高齢者による交通事故も、2019年4月に起きた池袋の事故では、被害者が若い母親と幼い子どもであり、加害者が社会的地位を得た高齢男性であったことがその評価に大きく影響したことは否定できない。同じような事故が別にあったとして、もし加害者と被害者が逆のパターンであったとしたら、世論の動きはまったく違っていただろう。

 

3つ子の育児に疲れ果て次男殺害、母に寄せられた「同情の声」と「厳しい批判」 週刊女性PRIME 2019年4月3日

 

一部メディアが、加害者家族を苦しめている 加害者家族のプライバシーも保護されるべき ミセス・パンプキン – 東洋経済ONLINE 2015年7月7日

 

佐世保女子高生殺害事件の遺体解剖と父親自殺は、あの事件とそっくりだ 篠田博之 – Yahoo!ニュース個人 2014年10月7日

 

池袋事故で加熱する”上級国民”叩きの深層 鬱積する「不公平感」のマグマ プレジデントオンライン 2019年4月29日

 

高齢ドライバーの事故は20代より少ない 意外と知らないデータの真実 市川衛 – Yahoo!ニュース個人 2016年11月20日

 

人間には感情があるので、ある属性を持つ人々に共感したり、別の属性を持つ人々に反感を抱いたりすることは自然で、誰も否定はできない。しかし、現代社会は充分に複雑化しており、さまざまな意味での「弱者」が社会のさまざまなところにいる。総じてみれば強者のグループにいるようにみえても、別の目でみれば「弱者」、ということがあたりまえに存在するのだ。

 

そうした複雑な要素を捨象し、自分が正しいと判断したもののみを社会正義とし、立場や価値観を異にする者への共感を失い、彼らを頭ごなしに否定し罵倒していくようなことをしていたらどうなるか。そうして否定された人々、切り捨てられた人々は反撃を始めるだろう。それは世界各地ですでに現実のものとなっている。いわゆるトランプ現象も、欧州における移民排斥の動きもイエローベスト運動も、こうした反発にドライブされている部分が少なからずあるだろう。少なくともそれらの一部は、社会の「進歩」によって相対的に取り残されたと感じる「忘れられた人々」の不安や不満を背景にしている。

 

トランプを支持する“忘れられた人たち” NHK NEWSWEB 2016年7月25日

 

【寄稿】移民問題、依然デリケートな理由 Walter Russell Mead – Wall Street Journal 2018年1月24日

 

「イエローベスト」の暴徒化に揺れるフランス、その不穏な正体 六辻彰二 – NEWSWEEK日本版 2018年12月03日

 

女性もこれまで、日本を含む多くの社会において、「忘れられた人々」の側面をもっていた。おもに20世紀以降進んだ女性の権利や社会的地位の向上は、そうした状況に反発し、社会を変えていこうという動きが徐々に実を結んでいった経過でもあったわけだ。

 

しかし、それが少なくともある程度は進み、女性の中にも「強者」が少なからず出始めたことで相対的に男性の中にいた「弱者」の存在が浮き彫りになり、また同時に女性の中の「強者」「弱者」の差や、トランスジェンダーという新たに「発見」された「弱者」の存在もはっきりと認識されるようになった。

 

「弱者」と位置付けられる人物像が多様化し、相対化したのだ。そうなると、これまで当然のように通用した「善意」や「良識」に基づく社会正義の剣も、他の種類の「善意」や「良識」に基づく社会正義の剣とその強さを競ったり、ときには直接戦わなければならない状況が出てくる。それを無視してこれまでのようにふるまえば、「価値観の押し付け」「差別者」などと反発されるリスクを負うことになる。

 

繰り返すが、これまで「弱者」とされてきた人たちを否定することが本稿の目的ではない。主張の方向性ではなく、社会のある状態や人々、ルールや考え方を「いい」「悪い」の二分法で評価し一方的に断罪しようとすることが問題なのだ。社会は複雑化し、人々の考え方は多様化している。それをあらっぽい二分法でくくり、自分と異なる属性の人々を「悪」として、「正義」の剣で斬って捨てようとすれば、現代社会において批判を浴びることになるのはむしろ当然のことといえよう。

 

 

 

サボテンに学ぶ

 

 

もちろん、ピエール瀧のケース自体は、こうした大きな社会的影響のある話とまではいえない。しかしその構図はこれまでに挙げてきた大きな問題とそう変わらない。私たちはあの手の、上から目線の「善意」や「配慮」の押し付けに対してうんざりしており、何かきっかけがあればそれを爆発させてしまう状況にあることが、この件で改めて明らかになった。

 

日本においても、外国人労働者受け入れ、地方振興、沖縄、皇室、同性婚といったさまざまな、国論を分かつような重要課題が山積している。意見の相違があること自体はむしろ健全なことだが、今のように「弱者」に「憑依」した「戦士」たちが社会のあちこちで「正義」の剣を振り回す状況を放置しておくと、社会の中での分断はいっそう深刻な対立を生み、社会全体が停滞してしまうこととなろう。

 

意見の対立が解消されないのはストレスフルな状況だ。そのためか、政府など権力による規制で相手を叩きのめそうとする主張もしばしば見かけるが、あまりいい考えだとは思わない。自分たちと立場や考え方を異にする人々を縛るために自らの自由を権力にゆだねれば、その力はやがて、自分たちを縛るためにも使われる。

 

上掲記事において佐々木俊尚は、ピエール瀧のようなケースに対応するためのガイドラインの制定を提案している。政府による規制よりはましだろうが、すべての場合に対応できるようなルールを作り、安定的に運用していくことは相当の困難を伴うだろう。自分たちと、自分たちと立場や考え方を異にする人たちとの双方に同じルールが適用されることに賛成できる人は現実にはそう多くないからだ。「正義」が自分たちの側にだけあるのではないという「不都合な真実」を、多くの人々はなかなか受け入れることができずにいる。

 

上掲のアニメ『Amazing World Of Gumball』のエピソードでは、Gumball(ちなみに男の子の猫だ)がクラスメートのCarmen(こちらはサボテンの女の子)の何気ない発言をSJWの典型的なやり方で非難し、正義の剣を振るおうとするが、それに対してCarmenが反撃ではなく、以下のように「許す」と答えたことで逆に大きな打撃を受ける。

 

Carmen:

“But Gumball, exploiting those powers to win some petty argument will just hurt the cause of the people who really need our help.”

“Instead of fighting, why don’t we just hug it out?”

“I forgive you.”

 

これもまた「戦士」の攻撃法の1つであることはアニメが描く通りであり、また「許す」ということば自体かなり上から目線ではあるが、剣で戦うよりいくぶんかはましといえるだろう。私たちの社会が、(たいへんありがたいことに)ほとんどの場合、立場や考え方を異にする相手に自分たちの考え方を無条件に押し付けたり、彼らを社会から強制的に排除したりできるようなしくみにはなっていない以上、頭ごなしに罵倒したり揶揄したりするようなやり方で問題が解決することはない。自らの主張を通したければ、必要なのは敵をやっつけることではなく、仲間を増やすことなのだ。

 

とはいえ「許す」だけで問題が解決するわけではない。もとより「銀の弾丸」は存在せず、アニメではなく現実世界の私たちは、番組が終わっても生き続けなければならない。「弱者」への「憑依」を鎧としてまとい、正義の剣で相手を叩きのめそうとするのではなく、立場や考えの違う人々の意見に耳を傾け、話し合いを通じて接点を探っていく努力が必要となろう。

 

仲間ととらえた「弱者」に「憑依」するだけではなく、自分とは異なる立場や考え方をとる人たちの中にもいるはずの「弱者」にも「憑依」してみるとよいかもしれない。ピエール瀧のケースであれば、薬物中毒に苦しむ人やその近親者、あるいはピエール瀧の出演した番組や電気グルーヴの音楽に救われたファンがどのように感じているか、配信を停止して何が得られ何が失われるのかを想像してみるのだ。配信を停止するか否か、といった二分法以外のアプローチもきっとあるだろう。

 

手間も時間もかかり、おそらく誰にとっても100%満足のいく結果は得られない。しかし少なくともこれが、これまでに人類の文明が獲得したさまざまな手法の中で「もっともまし」なやり方ではないかと考える。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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