原発事故と「食」――市場、コミュニケーション、差別

3.「悪い風化」に対処するには

 

風化というのは、復興にとって必ずしも悪いことではない。災害や事故があったことをすっかり忘れ去って、元のような消費者意識に戻るとしたら、生産者の立場としては歓迎しない理由はない。

 

ただ、原発事故当時の強烈な映像の記憶からくる何となく悪い印象を心に残したままの人に、ふとした時に出会うことは、首都圏でもしばしばある。普段はこの問題を全く意識しなくなっているので、アンケート調査でそう答えるほど首尾一貫して福島県産品を避けているわけではないが、売場に選択肢があればなんとなく避ける――そんな計量的に把握することは難しいが確実に存在する状況を、本書では「悪い風化」と呼び、それへの対処を考えるのが第2章である。

 

先に引用した消費者庁の調査では、放射線リスクが気にかかる地元産が日常的に周囲にある福島県の消費者こそが、当初は最も福島県産品を避ける傾向にあったのが、食品検査状況などを他県民とは比べものにいならないほどしっかり把握することで、他県以上に福島県産品を忌避しないようになっていく経過が、はっきりと示されている。

 

では、全国的に、いや世界的に、県内並に福島県産品の検査状況を報道し、放射線リスクに対する「正しい知識」を持ってもらうことが解決の道なのだろうか。素直に考えればそうなるが、この方針はどうやら、原発事故から年月が経過すればするほど、あまり分がよいものではなさそうだ。他都府県はもちろん、当の福島県内においてさえ、検査状況の把握や放射線知識が、年を追ってあやふやになる傾向もまた顕著だからだ。

 

人は、何かの事象に対して関心が高く、急迫性を感じている場面でこそ、その情報をしっかり考えて摂取しようとする。逆に、関心が低下して、報道があっても「聞き流す」ような状況になってしまうと、いったん抱いた判断を再考したり、認識の誤りを正したりすることは非常に難しい。こうした人間の意思決定のあり方は、社会心理学でいう二重過程理論で説明できるが、風化の問題を考える際に重要な視点であろう。

 

では、どうするか。まずは「福島の野菜や魚のことが知りたい!」という消費者の強い興味を惹くところから始めないと、福島県やその産品の現状をアップデートすることも起こりえないわけであるが、そこには福島県産品全体に適用可能な絶対の「王道」はない。それはもはや、放射線・原発不安や「風評」の払拭という課題を大きく超えたところで、多数の商品から消費者の好奇心、ひいては購買意欲を喚起するという、普通のマーケティングの領分になるからだ。

 

そのため、ある程度の成果を上げた事例の戦略を共有し、さまざまな品目・経営形態への応用可能性を探ることが有効になるが、本書の第2章では、時間の経過に応じて効果的に変化させる伝えかたや、好奇心や感性に訴えかけるコミュニケーションを模索してきたいくつかの取り組みのアイディアを、筆者が関わってきたものも含めて紹介している。

 

 

4.信頼を構築し、話せる場を作る

 

対して、本書の後半の第3章・4章では、強固な信念のもと福島県産品を避けている人たちとのコミュニケーションについて、リスクの存在する状況下にある個人への意思決定支援という、リスクコミュニケーションの原則を確認したうえで論じている。リスクコミュニケーションの考えかたには、「専門家が一般人に科学知識を与えれば合理的なリスク受容に至る」という欠如モデルや、その前提となっている一面的な人間観を、批判的に乗り越える民主主義的な価値観が根底にあるが、福島原発事故後の状況も、欠如モデルで押し切るにはやはり限界がある。

 

たとえば、再度消費者庁の調査を、元データにさかのぼってクロス分析してみると、そこで「福島県産品の購買をためらう」と回答した、一貫した忌避感を持っている人たちのほうが、2017年段階では、放射線に関する正しい知識も検査体制についても、福島県産品に抵抗がない人たちよりもよく把握している。この頭を抱えるようなデータの因果関係の解釈は慎重にしなければならないが、少なくとも言えるのは、福島県産品を避ける一部の消費者こそ、いまやこの問題に関心が高いのは明白であり、彼らを安易に勉強不足と批判すれば事足りるわけではないということだ。

 

では何が特に問題になっているのか。特に放射線リスク判断が厳しいと想定される自主避難者やその支援者を取材すると、必ず話題に出てくるのが、政府・地方自治体などの情報発信者への信頼の低さと、原発事故後の不安を話す場所がない、自分の気持ちを地域で誰にも話せずに暮らしてきたという抑圧感だ。

 

いったん情報発信者への信頼が毀損されてしまうと、どんなに正しいことを発信したとしても、「聞く耳」をもってもらうのは容易なことではない。信頼の再構築には、コミュニケーション相手と顔の見える形で継続的に関わったうえで、情報の受け手が発信者に自分と同じ価値観を共有していることを感じられるかどうか(社会心理学でいう主要価値類似性モデルにあたる)が鍵となる。こうした関係性の構築には非常に時間がかかるうえに、政府・自治体や専門機関などからの一方向的でマスな情報伝達が有効ではなくなるので、コミュニケーションコストは膨大にかかる。

 

ただそれでも、非常に厳しい目で福島県産品を判断していた消費者であっても、個別の生産者との交流がきっかけとなって、少しずつ県産品全般への信頼を取り戻していった場合があることを、第3章では紹介している。それは、放射線リスク判断をめぐって生じた社会の分断を少しずつ解消していくための、地道で長い道のりの可能性を示唆しているだろう。

 

一方で、放射線に関する話が日常生活の中でタブー視され、「こんな不安な気持ちを言ってもどうせ馬鹿にされる」と思ってしまうと、かえってネットで見かけた真偽のあやふやな情報に共感を覚え、そうした情報が流通するコミュニティの中に帰属感を感じて、時期を追うごとにますます極端なリスク判断に偏っていくというようなことがある。

 

そうした意味でも、こうした目に見えない長期的リスクが降りかかった災害に際しては、地域に「何でも話せる場」を作ることもまた非常に重要なポイントなのだが、残念ながら日本社会でそういう場を作ることは非常に難しい。第4章では、“open public debate”を基盤として、チェルノブイリ事故後に極めて合理的な食品規制の基準値を設定してきたノルウェーの事例を紹介し、それが可能になっている社会的な条件を検討している。

 

ただし、原発事故後に抑圧感を感じてきたのは、自主避難者をはじめとしたいわゆる「危険派」だけではないことも、忘れてはならない。「危険派」の人たちの一部には、福島県内に住み、そこで生業を続けると決断した人たちに対して、「人殺し」「毒を売るな」などという心ない言葉を浴びせることは実際にあった。

 

福島県をはじめとした放射能災害を被った地域では、ほとんどの場合「危険派」の人たちがマイノリティであったが、福島県内の現実的なリスク(の小ささ)にさほど関心がなく、情報がアップデートされていかない全国的なメディア状況の中では、抑圧感を感じてきた福島県民が多かったのも当然のことだ。

 

それでも私たちは、考えかたや判断の違う人たちと、この社会で共に暮らしていかなければならない。であるならば、放射線リスク判断の違いが、深刻な差別と社会的分断につながることを防ぐために、私たちはどんな規範を社会的に共有している必要があったのか。そうしたことを社会学的に考察するのが本書の最後の課題であるが、それは、否応なく社会の多様性が増していく日本社会において、原発事故後の諸問題にとどまらず、私たちが向き合っていかなければならないことでもある。

 

 

5.おわりに

 

『原発事故と「食」』は、発刊以降1年半のあいだに、ありがたいことにいくつもの書評に恵まれたが、そのなかに「科学抜きには語れない、でも科学だけでは足りない」と題されたものがあった。このタイトルは、本書のスタンスをまさに端的に表してくれた非常に嬉しい書評だったが、さらにこう付け加えることもできたかもしれない。「自然科学抜きには語れない、でも自然科学だけでは足りない。社会科学もまた、その足りない部分を補いうる科学である」と。

 

確かに、原発事故後のコミュニケーションにはうまくいかなかったところも多い。しかしそれを、放射線にかかわる専門家の属人的な問題に帰してしまうことは、まったくもって生産的ではない。属人的なコミュニケーションスキルの問題以前に、この短い原稿でも紹介した二重過程理論や主要価値類似性モデルを含め、踏まえておくべき一定程度確立している社会科学的な知見もある。

 

原発事故後の諸課題は、掛け声だけはあふれている「文理協働」しての情報共有や戦略立案が、間違いなく実践的に不可欠な領域だ。圧倒的に自然科学者が存在感を示していた領域に、「社会の言葉」で踏み込むことを試みた本書刊行後、私自身もそうした場面に参画する機会が増えていることには手ごたえを感じている。

 

一方で、福島第一原発事故に端を発する諸問題は、あまりに膨大に絡み合いながら広がっていて、ずっと仔細に経緯を追っていた人でもないと全体像を見通すことは非常に困難だ。そのあまりの難しさが逆説的に多くの人々に理解をあきらめさせ、原発事故の風化をもたらしているところがあるのではないだろうか。しかし、まだまだ時間のかかる廃炉や被災地のコミュニティ再建を、決して福島県民や双葉郡の人々だけの問題にしてはいけないし、狭い専門家だけの世界にとどめて置いていい問題でもない。

 

そんな中で、私の知人たちも含めた福島県外の読者からは、本書で東日本大震災後7年間の自分の行動や経験を振り返った、というような感想も数多くいただいた。もともと首都圏の胃袋を支え続けてきた福島県の「食」は、県外の多くの人々にとって、福島と関わる最も一般的なチャンネルである。原発事故後の経験は地域によって著しい濃淡があるが、首都圏や西日本でも、スーパーマーケットで被災地の食品を前に、これを買うべきか避けるべきか、それぞれに悩んだり葛藤したりした経験のある人も多いだろう。

 

福島県内の人たちにとどまらない幅広い読者が、「食」をテーマとしたこの本を手に取ることで、自らの行動や判断をあらためて思い返し、周囲の人たちとシェアすることで、原発事故後の多様な経験を、もう一度開きなおすきっかけにしていただければと切に願っている。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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