2019.12.20
安倍能成をダシにして日本における保守とかリベラルとかを考えてみる
まずは忘れられたアンバイさんの紹介から
安倍能成という名前を題に入れてしまいましたが、いまの若い世代にはほとんどなじみがない人だと思います。明治16(1883)年に生まれて、昭和41(1966)年に亡くなった方です。あ、安倍晋三の親戚ではありません。でも、アベにはいろいろな漢字があって迷うところを晋三サンのおかげで、このアベがメジャーになったような気もします。安倍能成によりますと、「アンバイ」と書く安倍、と説明するそうですが、これは夏目漱石の妻、鏡子の発案によるものです。漱石の「修善寺の大患」(1910)のおり、師の危篤を聞きつけて最初に修善寺に到着したのが安倍で、鏡子は、これで大丈夫だ、縁起がいい、「あんばい(塩梅)よ(能)く成る」だ、と喜んだとか。この逸話からわかりますように、安倍能成は、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平と並んで、漱石門下の四天王と呼ばれました。
もう一つの呼び方は「セカンド・アベ」です。これは、安倍が東京帝国大学文科大学の哲学科に進んだあと、ドイツ人教師のケーベルからもらった名前です。二学年先輩で友人の阿部次郎(同い年ですが、セカンドのほうは浪人や落第で遅れました)と区別するためです。「ファースト・アベ」こと阿部次郎と言えば、これももういまでは忘れられた大ベストセラー、そして教養主義と来れば必ず挙げられる『三太郎の日記』の著者という話になるでしょうから、ここからわかりますように、安倍能成はいわゆる大正教養主義・人格主義を先導した書き手のひとりでした。
「セカンド」というのは、はからずも安倍能成の位置をあらわしていたのかもしれません。有名文化人だけれども、実は生前からすでに少し軽く見られていた。漱石門下としても若干、特色に欠けます。そして、どの安倍への追悼文を見ても、学者としては見るべきものを残さなかった、というような一文が入ります。むしろ安倍の大らかな性格を感じさせるくらいですが、たとえば清水幾太郎はこう言っています。「院長には何冊かの著書がございます。しかし、正直に申しますと、その中で今後も大いに有意義であるようなものは、殆んどないのではないかと思います」。
うーん、お別れ会でそこまで言うか。ところで、「院長」と呼ばれているのは、安倍が1946年から死ぬまで学習院の院長を務めたからです。そこから、明仁皇太子(現・上皇)の教育に携わることになりました。安倍の『戦後の自叙伝』には、1946年の誕生祝のおりに「私は大分酔って、東宮様の手を握ったまま、「煙も見えず雲もなく」の軍歌を終まで歌い、殿下は手が痛かったと後でこぼされたと聞いて、恐縮したこともあった」とあります。ほほえましい話、というより、大きな混乱(敗戦直後、皇室は危機にさらされていました)のなかで、父母とも別れて暮らしている孤独な少年を励ます老人の姿が目に浮かびます。東宮御教育参与になった小泉信三、学習院長の安倍、そして安倍の友人で、敗戦後に象徴天皇論を展開した和辻哲郎東大教授(同じく大正教養主義の花形)は、結婚問題も含めて、皇太子の精神面を支え、この三老人の影響がいかに強かったかは、「お言葉」のなかにも感じられたところかもしれません。安倍能成が典型的な保守と見なされる理由の最も大きなものは、こうした皇室との関係から来ています。
清水幾太郎の「安倍学習院長追悼の辞」は『世界』の1966年9月号に掲載されています。もちろん、あの『世界』です。ちょっと脱線しますが、『正論』の2014年12月号・翌1月号に、保守の論客として知られる平川祐弘さんが「昭和を貫く自由主義者の系譜 安倍能成と竹山道雄」と題するエッセイを書いていますが、こちらは順当な組み合わせでしょう。平川さんは出身校の旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)へのオマージュから書きはじめていますが、『ビルマの竪琴』の作者竹山道雄は一高の人気ドイツ語教師、そして安倍は1940年から46年まで校長を務めています。それで、若い高校生たちに慕われた安倍校長は、先の戦争と旧制高校生たちが紡ぐ物語の大事な脇役でもあります。
さて、『正論』から『世界』に慌てて舞い戻りまして、1966年8月号の『世界』には丸山眞男と吉野源三郎の追悼対談「安倍先生と平和問題談話会」が載っています。安倍能成は最初の最初からの「岩波文化人」でした。最初の最初から、つまり岩波茂雄が神田の古本屋さんを脱して出版業をはじめた時から、です。安倍は一高時代の親友岩波茂雄を漱石に紹介しました。漱石に看板の字を書いてもらったり、『こころ』の自費出版を任せてもらったりして、岩波書店が伸びていったことはよく知られていると思います。安倍は戦前に雑文集の類いを次から次へと岩波書店から出していますが(安倍自身、『岩波茂雄伝』で「私は著者として、岩波書店を重からしめる名著や力作を寄与したことはない」と断言しています)、ひょっとすると安倍の無意識のなかでは、岩波書店はいつまでも、友人がやっている小さな個人商店だったのかもしれません。
で、敗戦直後に、安倍は自分たちのグループの同人雑誌のようなものとして雑誌を計画し、親友の本屋さんから出すことになったのが『世界』(1946年1月発刊)だったと、安倍の側から言えばそうなります。安倍によれば、そのグループは終戦直前に重光葵外相のもとに集められて、陸軍に知られないように和平工作の案を練っていたそうで、敗戦後はメンバーを増やし、雑誌を創刊してこれからの新しい日本の再建のために尽くそうということになったと。ありがたいことですが、何だかものすごいエリート意識ではあります。
こうして誕生した『世界』でしたが、発刊とほぼ同時に安倍は幣原喜重郎内閣の文部大臣となったので(約4カ月で内閣解散のため辞任)、『世界』から手を引き、あとを労農派マルクス主義者の大内兵衛東大教授が引き継ぎます。編集長は吉野源三郎でしたし、この時期の『世界』を代表する論文「超国家主義の論理と心理」(1946年5月号掲載)を、まだほとんど無名であった若い丸山眞男に書かせた編集者、塙作楽は共産党員であったし、安倍能成らのグループとはやはりソリがあわず、岩波茂雄も亡くなっていたこともあり、結局、安倍能成らは1948年7月に自分たちの雑誌『心』を創刊し、『世界』から離れます。いわゆる「進歩的文化人」(いまや完全に侮蔑語)の雑誌『世界』と、保守派の代表的な雑誌と見なされた『心』のこうした経緯は、敗戦直後の進歩派と保守派の一つの関係を描きだす格好のエピソードですので、いろいろな場所で紹介されています。
とはいえ、ケンカ別れではありませんから、安倍は『世界』の有力な書き手でもありつづけました。後でまた触れますが、安倍は『心』の数多いさまざまな同人たちのなかで代表的な執筆者であり、且つ『世界』の数多い著者のなかで中心的な人物だったわけです。何より、丸山・吉野の追悼対談の題名に出てくる「平和問題談話会」の議長を、安倍は吉野から頼まれて引き受けています。この会は、いよいよ冷戦時代に入った1948年12月に中立や世界平和を掲げた宣言をまとめ、1950年には全面講和、非武装中立、軍事基地撤廃の主張を展開しました。いまの感覚で言えば、左派とかリベラルとか呼ばれる立場です。
丸山眞男は追悼対談で、「安倍先生がなくなられた報道記事のなかで、ある新聞は、「平和論の流行にたいして再軍備をとなえ硬骨ぶりを発揮した」(笑)と解説していたのには、呆れかえったな。硬骨にはちがいないけれど(笑)これはひどすぎる」と言っていますが、おそらくこの記事は安倍能成と小泉信三を取り違えているのでしょう。皇太子との関係や反共・ソ連嫌いなど、似ているところが多いですし、小泉は安倍よりほんの1カ月前に亡くなっています。何より小泉も『心』の同人で、むしろここから、同人たちも決して一枚岩ではなかったことがわかるくらいでしょう。2018年に中公新書で小泉信三の伝記が出ていますが、そこに「しかしいま、時代は、日本は、小泉信三を忘れつつある」と記されています。安倍も小泉も忘れられた。冷戦も遠くなりにけり、ということなのです。
それにしても、このようにさまざまな体制側の要職につき、天皇制を擁護し、且つまた、(現実主義者として単独講和を主張した小泉信三とは違って)理想主義的な平和運動のリーダーも務めた安倍能成は変な人物にはちがいありません。昔風に言うと、保守反動なのか進歩的文化人なのか、わからんじゃないか! 今風に言うと、保守かリベラルか、どっちなんだ! というわけで、拙稿の題名になりました。
若い世代に悪口ばっかり言われて
2、3年前から、保守とリベラルの意味が、とりわけ若い世代にとって、曖昧になってきていると指摘されています。このシノドスでも、山本昭宏さんの「「リベラル」は、ほんとうに「うさんくさい」のか?」、「「保守/リベラル」という図式ははたして有効か」、高山裕二さんの「リベラルとは何か?――その概念史から探る」などを読むことができます。わたしには、たいへん参考になりました。
小熊英二さんは朝日新聞の論壇時評(2017年11月30日)で、あえてこんなふうに言っています。「ああ、つまらない。何が? 論壇上の「保守とは何か」「リベラルとは何か」といった議論が、である。(中略)私も学者だから一応の知識はある。アメリカと西欧で「リベラル」の意味が違うとか、昔の日本では「保守」「革新」の方が一般的だったとか、冷戦が終わったあとから「革新」がすたれて「リベラル」が流行りだしたとか。そうした知識を踏まえた上で、「そもそもリベラルとは」とか「本当の保守とは」といった議論を……ここではやらない。不毛と思うからだ」。
なぜなら「実は昔から、そんな区分に実体はなかったかもしれないから」と続ける小熊英二さんが問題にしているのは日本の諸政党の性格ですが、生きて動いている人間ひとりを取りあげれば、当たり前と言えば当たり前ですが、その区分はますます微妙になってきます。政治学や法哲学によるリベラリズムの定義なんかブッ飛ばしてしまうのが生きた人間です。その一例として安倍能成を見ていこうというのが本稿の主筋です。
というのは、リベラルと保守の区分の曖昧さを提示した第一号が、安倍能成たち、戦後にオールド・リベラリストと呼ばれた戦前の自由主義者たちの振舞いだったからです。このオールド・リベラリストの多くが『心』の同人でした。すでに言いましたが、明仁皇太子の教育のところで名前を出した小泉と和辻も同人、すなわちオールド・リベラリストと呼ばれる人です。
久野収、鶴見俊輔、藤田省三の『戦後日本の思想』では、こう書かれています。「戦前、このグループは意識した保守主義者ではなかったように思われる。それがオールド・リベラリストと呼ばれる理由で、この人たちはむしろ自分はリベラリストだと思っていた。しかしこのグループの人々の果たした思想的、政治的機能からいえば、リベラリズムというより、むしろ保守主義といったほうが一層あたっているように思う」(「日本の保守主義:『心』グループ」『中央公論』1958年5月号)。
これは久野収の言葉ですが、久野は学習院に勤務していましたので、東京新聞(1966年6月9日)に院長の追悼記事を書いています。「アカデミズムの解説的、翻訳的仕事は、先生の得意とされる方面ではなかったように思える」という必須事項明記のあと、こう言います。「文化上の自由主義と政治上の保守主義との良識的ミックスが、先生の立ち場であり、この立ち場の分析は『戦後日本の思想』の中で、私は私なりにやったつもりであるから、ここではくり返さない。ただ、先生の個性は、この良識が理念と経験、思考と情念の両足でバランスをもって立っているところにある」。
この「文化上の自由主義」は、昭和10年代にマルクス主義者の戸坂潤が「文学的自由主義」と呼んで鋭く批判した自由主義に近いでしょう(「「文学的自由主義」の特質」1935)。要するに経済とも政治とも思想とも関係ない。それほどの文学的あるいは哲学的才能もなく、「さりとて又意識的に反動の陣営に投じるだけの悪趣味を有つ気にならぬ者達が、その人間的感官を初めてノビノビさせることの出来る唯一のエレメントが、自由主義の名を以て天降って来たのだから、誰しも自由主義者であり又自由主義者であったことを、喜ばない者はないわけになる」。かなり辛辣ですが、戦前の自由主義者の「ノビノビ」のありようを的確に捉えていると思います。
で、安倍先生追悼に戻りまして、東京新聞を出したからには、産経を登場させてバランスを取るしかありません。サンケイ新聞(当時)では大宅壮一が追悼記事を書いています。「元文相で学習院長の肩書をもつ人物が、日本の反体制イデオロギーを完全に掌握し、リードしている出版社の重役、もしくは最高ブレーンとしての地位を確保しつづけてきたということは、驚嘆に値するアクロバットである。相反する二つの最高権威を両手ににぎって、綱わたりをしているのだともいえる。それができたというのは、安倍氏が岩波茂雄との多年にわたる個人的なつながりに基づいているのであるが、この形態は、きわめて日本的であり、封建的である」。
こうした「アクロバット」が、「きわめて日本的であり、封建的である」かどうかは俄かに判断できませんが、安倍の行動が、自分が相手を個人としてどう思うかに基いていたことは確かです。自分の正直はもとより、相手の人間が正直で信頼できるか、にかかっていたのです。「正直という自己同一性」と清水幾太郎は皮肉を込めて表現しています。安倍先生にとっては「動機の純粋」が重要なのだと、吉野源三郎も竹山道雄もこの点では、イデオロギーを超えて足並みを揃えます(竹山「安倍能成先生のこと」1981)。
大内兵衛は戦前からのマルクス主義者ですが、大内の正直さ(実際、善人だったみたいですね)にたいする安倍の信頼は篤く、なんと大内は『心』の同人です。「座談会などで大内氏の発言はいつも不協和音にひびく」と久野は言いますが、その不協和音を平気で呑みこんでしまうのが『心』の「保守主義」の特徴です。吉野源三郎については、安倍はこう評価します。「吉野の思想と行動とに同意しかねても、むしろその内攻的に過ぎる程の真面目さは、今も信用している」(『戦後の自叙伝』)。安倍が一高で若い非常勤講師として「倫理学」を教えたさい、一番熱心に最も優秀な答案を書いた生徒は吉野だったと。
先ほど言及した戸坂潤(敗戦の6日前に獄死しましたから戦後の状況はもちろん知りません)の文章では、日本の自由主義は個人主義であり、個人と個人の「パトス的な結合」を重んじる自由主義者は、ただそれだけの理由で「超党派的」であると述べられています。「こうやって、この自由主義者によれば、人間は或る一定の人間達だけと、一定の結合関係に這入るのである。それはどういうことかというと、人間学的趣味判断の上から、好きな人間同志が、一つの社会結合をするのである」(黒字部分は原文傍点)。
そして安倍能成の「社会結合」には、いつも一高とか東大とかが絡んできて、きわめてエリート主義的なのです。『心』もエリート主義的な雑誌で、その点では当時の『世界』と似ていなかったわけではない。法哲学者の井上達夫さんは『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』のなかで、「リベラルとエリート主義が結びつき、嫌われているのは日本だけではないけどね。アメリカなどでもその傾向は強い」と言い、リベラルが信用を失って当然の部分として「エリート主義で偽善的なリベラル」(ああ、朝日岩波的なものが非難されるときの言葉ですね)を挙げていますが、安倍能成は堂々と悪びれることなくエリート主義的です。しかし断じて偽善的ではない。安倍は当時の進歩派学者にたいして偽善的なものを感じ、それを持ち前の正直さで口にし、そのせいで保守反動と見られたということがありました。大きな勢力となり過激になった(と安倍は見ています)労働運動や組合活動を、ただただ褒めそやしているように見える進歩派学者たちに疑問をぶつけます。「天下の学者は警察力の弱い政府に対してのみ勇敢であって、いやしくも勢力のある所に対しては、かつて軍部に対してやったと同じ忍従と沈黙とを守り、そうして反動的保守的といわれる不名誉を免れようとしているのかという感じが起った」(「教員組合の要求について」『朝日新聞』1946年11月)。
安倍能成のこの批判は現在でもリベラル批判の一つとなっているかもしれませんが、ここではもう一度オールド・リベラリストへの批判のほうに戻りましょう。中国文学者の竹内好は、「かれらは日本の一番めぐまれた時代に人となったので、その幸福という外的条件が、結果としてかれらの批判力を弱めているように思う」(「リベラリズムの天皇制」)と述べています。これがオールド・リベラリストへの非難の定番となっています。というより、時代に恵まれた能天気なエリートというのがオールド・リベラリストの定義なのです。
この貶称の発祥の地は、敗戦直後、川島武宜を議長とする若い世代の研究者や芸術家たちが立ち上げた「青年文化会議」の設立宣言(『大学新聞』1946年2月11日号)です。軍部とファシズムに抵抗しえなかった「かゝる一切の旧き自由主義者との袂別」が、ここで高らかに宣言されました。そして、自分たち若い世代は「新なる民主主義建設の軌道を拓かんとする」と。「新なる民主主義」はやがて戦後民主主義と呼ばれるものです。
青年たちから見ると、戦後すぐにバーッといろいろな雑誌などが出てきても、安倍能成のような老人たちばかりが復帰してきているように思えたわけです。というか、事実そうだった。その意味でも、若い丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」は画期的でした。
その丸山も青年文化会議の運営委員でしたが、この宣言を「戦後世代論の最初の提起」と位置付けています。そして、世代の区切りを作ったのが軍隊体験(戦争体験ではない)と特高経験の有無だと。「我々は兵隊にとられたという、被害者意識です。オールド・リベラリストたちは空襲ではやられていますけれども、兵隊にはぜったいに行かないし、その点は安全なのです。もちろん特高経験がない。そういう思想問題の経験がない。(中略)世代論をやれば、そういうのはぼくらの世代のことであって、その前のリベラルには全くわからない経験なのです」(『丸山眞男回顧談 下』)。
余談ですが、戦後民主主義者たる川島武宜も丸山眞男も、東大闘争のおり、戦争を知らない子どもたちの世代に、気楽なエリート東大教授としてコテンパンにやっつけられます。
特権的少数者ゆえの被害者意識?
軍隊体験、正確に言えば陸軍二等兵としての内務班体験は戦前の若いエリートたちに大衆との接触をもたらしたとしばしば指摘されています。もちろん丸山眞男などにも、全共闘が批判したような大衆蔑視のありようを見てとることはできますが、オールド・リベラリストたちの大衆あるいは大衆民主主義への嫌悪、というより恐怖は、わたしたちには少し奇異に映るほどです。これを見ると、やはり彼らは保守的だなと思うわけです。
小熊英二さんの『〈民主〉と〈愛国〉』は、こうしたオールド・リベラリストに厳しい目を向けています。すでに言及した『世界』の編集者、塙作楽の『岩波物語』から、小熊さんは次のような部分を引用しています。『心』の同人で、著名な白樺派画家であり美学者であり東京帝国大学教授であった児島喜久雄に、塙は超満員電車で偶然出会います。1948年1月のことです。世が世ならこんな満員電車に詰めこまれるはずもない児島先生の愚痴を聞いていると、塙は「このような考え方、「貴族趣味」を、安倍能成と会ったときにも感じた覚えがある」と思いました。と、電車が急に止まり、人びとがドッと揺れて倒れかかってきました。
児島さんは、「君、もっとふんばりたまえ」と、見知らぬ一人の青年に言った。その青年は、児島喜久雄の顔を振り仰いで、何か言いかけたらしいが結局黙っていた。驚いたのは、ぼくの方だった。「人は生まれながらにして、夫々の天分と身分とを持つ。それを無視して、万人平等を主張するのは誤りである。この頃の世の中は、猫も杓子も民主主義を叫び、労働者までもが人なみの賃金を獲得しようと己れの主張をわめき立てている。恐ろしい世の中だ」と言いつづけた。ぼくは、ただ黙っていた。(黒字部分は原文傍点)
塙のほうが戸惑ってしまった気持ちはよくわかります。ただし、児島は学習院から一高に入り、家柄もよく、若くして才能ある画家として認められていましたから、オールド・リベラリストのなかでもちょっと特別です。成績もよい白樺派といったところでしょうか(武者小路実篤や志賀直哉も『心』の同人)。それと、ここで重要なのは、塙は口にしませんが、児島や安倍が若い塙を自分たちの仲間と見なして、つい愚痴を言っていることのほうでしょう。塙も一応は一中・一高・帝大です。
安倍能成は松山の医家に生れました。変わり者の父が医業を早く畳んだために、貧しかったわけではありませんが、中学生のころから少し新聞配達をしたり、高校入学前に中学の臨時教師をしたりして、それなりに苦労しています。明治末期の不況期には帝大を卒業してもすぐに正業に就けず、安倍の言葉を使えば「金に困るほうの高等遊民」(「文壇の高等遊民」1911)になりました。安倍は阿部次郎の本の書評で、「君と僕とは東北と四国と地を隔てても同じ年に生れ、共に豊かではないが必しも無教養でない家庭に多くの兄弟と一緒に育ち」(「『秋窓記』の著者へ」1937)とその境遇をまとめていますが、だいたいこんな感じの教育熱心な地方の名家出身が多いと思います。東京のお金持と言えば、コペル君こと吉野源三郎のほうが裕福な家に育っているでしょう。
塙の言う「貴族趣味」は、戦前における階層差から生まれたものですが、経済格差というより(もちろん大きな経済格差もしくは生活格差はあったのですが)、教育の圧倒的格差から来ていると思われます。大正後期に高等教育を受けた吉野源三郎、昭和前期の一高生だった塙や丸山に比べ、19世紀生まれの安倍能成のようなオールド・リベラリストたちは圧倒的な少数のエリートでした。もちろん、現在のいわゆる高偏差値大学出身者なぞとは比べようもない、社会の極少数派だったのです。
オールド・リベラリストたちは特権的少数者だけが享受できたものを無自覚に幸福に享受してきた世代で、これが彼らへの批判になっている。その特権的少数派意識が敗戦直後には、圧倒的多数の労働者と数多くの天皇制反対者と大勢の日本共産党員およびそのシンパたちのなかの年老いた極少数として(と彼らは恐怖とともに感じていた)、被害者意識に変わっていったのです。先に引用した安倍能成の言葉(「教員組合の要求について」)からもわかりますが、小熊英二さんは、オールド・リベラリストたちに「戦後の民主化や労働運動などを、軍部独裁と同一視する傾向」があることを指摘しています。これは、いまとなっては少し不思議にも滑稽にも思えてしまいます。安倍能成は労働者たちによる「内乱」を本気で恐れています(「日本の独立と平和」1952)。1960年になっても、『心』の座談会「学生の政治運動について」のなかで、安倍や和辻、竹山道雄や鈴木成高が全学連の学生たちをかつての過激な「青年将校」にたとえている。何かが軍部にたとえられるとき、彼らは迫害される少数者の気持ちになっているのでしょう。塙が安倍能成に感じた「貴族趣味」は、戦後の安倍の発言にたしかにあらわれていますが、それは恐怖や被害者意識でもあるのです。
自分を少数派と見なしている者の被害者意識について、丸山眞男の『日本の思想』(1961)の説明を借りてみようかと思います。丸山が批判した日本の各組織や集団の「タコツボ」化というのは、よく知られていると思います。現在でも日本社会批判のキーワードになりうるでしょう。丸山はさらに、それぞれの「タコツボ」が「社会が厖大化するに従って、実質的には大きな勢力をもつものも、その集団自身の眼には非常に小さなものとして受けとられてくる」と言います。「おのおののグループがそれぞれ一種の少数者意識、やや誇張していえば強迫観念――自分たちは、何か自分たちに敵対的な圧倒的な勢力に取り巻かれてるっていうような、被害者意識」をもってしまう。その例としてまず、「自分たちが日本で圧倒的な力をもつ進歩的勢力に取り巻かれている」と思いこんでいるオールド・リベラリストたちを挙げています。「ところが反対の立場から見ると全然事態は逆」となる。「こういうふうに保守勢力さえ被害者意識をもっているのですから、進歩的な文化人の方はなおさら、マイノリティとしての被害者意識があります。保守勢力も進歩主義者も、自由主義者も民主社会主義者も、コンミュニストもそれぞれ精神の奥底に少数者意識あるいは被害者意識をもっている」。さらに、いまや万能のように見える大手マスコミも、日本を牛耳っていると思われている高級官僚も被害者意識の塊だ、と。官僚たちは、「役人というものは四方八方から攻撃され、政党幹部からは小突かれるし、新聞からは目のかたきのようにいわれるし、非常に割のあわない仕事だと本気で思っている」。
これは1957年6月の「岩波文化講演会」の言葉ですが、現代にそのまま当てはまるので、ちょっと可笑しいほどです。ここでダメ押し的に補足しておきたいのは、この少数者意識は特権的少数者、正しい(と思っている)側の少数者の気持ちであることです。
最近、保守系論壇誌『諸君』の編集長だった仙頭寿顕さんの『『諸君!』のための弁明』を読みました。本の帯には「反・体制」ではなく、「反・大勢」を目指して。」とあります。「朝日やNHKや岩波書店などがつくる「大勢」に対して、こんな見方も、こんな事実もあるんじゃないのと、揶揄したり、茶々を入れたり、時には真剣に徹底的に論破したり」することが『諸君』の仕事であったと。しかしおそらく、朝日や岩波書店はもとより、NHKだって、自分たちが「大勢」をつくれるとは思っていないでしょう。
保守と名乗る人、他人からそう呼ばれる人もいれば、リベラルを標榜する人、そう見なされる人もいます。わたしが彼らに聞いてみたいのは、保守かリベラルかではなく、特権的少数者としての被害者意識をもっているかどうか、です。安倍能成は正直な人なので、ああ、そう言えば、もっているな、と答えるにちがいありません。
プロフィール
高田里惠子
1958年神奈川県生まれ。桃山学院大学教授。ドイツ文学研究者。著書に『文学部をめぐる病い』、『グロテスクな教養』などがある。