原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理

私の原発震災への関わり

 

私はもともと福島には縁の薄い者であったが、いくつかの偶然が重なって、福島市の「ふるさと除染計画」の策定を非公式な立場から支援するようになった。その主な内容は、除染ボランティアの受け入れ態勢の整備の手伝いといったところである。この分野に何の専門性ももたない私としては、それは、専門家としてではなく、自分自身でドブさらいや草むしりするだけでも少しは役立つこともあるだろうくらいのつもりで始めたことであった。とはいえ、除染ボランティアはその是非を含めて大変センシティヴな問題を含んでおり、状況が変わればその意味合いが大きく変わってしまうような性格をもってもいた。このため、この問題に多少なりとも責任のある関わり方をしようとすれば、状況を追いかけてこの問題について勉強してゆかなければならなかった。そうこうしているうちに、この問題に多少深入りすることになったというのが私の身に起きたことであった。

 

その意味では、この文章の著者の主要な属性は、有体にいえば、被災地福島の住民の代弁者としての資格をもたないヨソモノの1人であり、かつ原子力や放射線医学に関して専門性を持たないボランティアの1人ということになる。

 

ただ、私自身は、医療・福祉領域に関わるところで、生活を支援することの意味を理解する、ということを自分の研究テーマの部分としてもってきた社会科学者であるということもあって、福島を中心とする原発震災に遭った人びとの生活をどのように支えることができるのかという観点から、この問題を見てきたということはある。とすれば、もしかすると、私のような社会科学者としての背景を持っている人間だからこそよく見えるということがあるかもしれず、その場合には、私から見えている震災の構図を伝える努力をすることに多少の意味はあるかもしれない。私がこの文章を素人ながらに書いたのはそういう理由からである。この文章をお読みの方には、この点を踏まえてお読みいただきたいと思う。

 

 

汚染地域に暮らすか、離れるか

 

福島第一原発の事故によって、放射能汚染地域の住民は、汚染地域で暮らすことを選択するか、離れるかの選択を強いられることとなった。2011年10月の統計をみるかぎり、住民票を移した人びとの割合は数%に留まっている。これは、最終的に福島に戻ることを諦めた人びとの数がまだ少数であるということにほぼ対応していると考えられる。また、県外に避難した避難者数は、概ね6万人弱程度とみられている。全体として避難者は15万人程度とみられていることから、県内に避難した人びとが比較的多かったことが想像されるが、今のところ、避難者数を把握することは難しく、正確なところはわかっていない。また状況は時間の経過とともに変化してゆくとも考えられる。だが、いずれの指標をみても、それらは、ひとまず放射能汚染地域の住民の大部分が、避難もせずに現地に住んでいるということを示している。

 

この結果は、東京をはじめとする域外の人々にとっては意外なものだったといえるだろう。というのも、大手メディア情報などをみても、好んで行われてきたキャンペーンは、たとえば福島市の渡利地区(同市で大波地区と並んで最も空間線量の高い地域の1つ)の住民は避難したいのに避難できず、「自治体に見殺し」にされようとしている、といったものだからである。だが、渡利小学校父母と教師の会によるアンケート調査は事態がもっと複層的であることを示している(*1) 。調査自体の技術的問題もあって含意を読み取りにくいが、少なくとも比較的積極的に現地に住み続けることを希望する人から、とりあえず住み続けようとしているひと、さらには避難を希望する人まで様々な人がそこに混在しており、積極的にせよ消極的にせよ多くの人びとは土地に留まることを選択しているということである。

 

(*1)渡利小学校父母と教師の会「「放射能問題でのアンケート」の結果について」(2011年11月21日)

 

このようなことは福島市だけで起こっているのではない。飯舘村は計画避難に対して最後まで抵抗したし、南相馬市では人口約7万人のうち6万人が一旦避難をしたと言われているが、その後順次人びとが戻ってきて、現在では5万人程度まで人口が回復しているとみられている。さらに、11月20日の大熊町長選では、帰還を訴えた現職が再選されている。

 

なぜ福島の人びとがかくも土地を離れないのか。この理由を知ることは、私たちが福島の人びとに対して何をなすべきかを理解する上できわめて重要なことだが、今のところはっきりしたことが言えるわけではない。ただし、それでもはっきりしていることはある。それは、被曝の危険という、土地を離れる強い動機づけにもかかわらず、多くの人びとがこれまで生活してきた地に依然としてしがみついているということであり、したがって、今次の原発震災へのアプローチは、このことを踏まえた上で行われなければならないということである。

 

私は福島を離れて避難や移住をした人びとが重要でないと言っているのでは決してない。にもかかわらず、私がここで福島に留まる人びとの存在を強調しているのは、特に、東京を始めとする域外で発言する人びとが、避難こそが「人道」に叶っていると考える傾向があるようにみえるからである。そもそも、今日の論争の構図である「避難か除染か」という2項対立自体、避難する人と留まる人が両方あるという前提を踏まえていない。そして、上のような避難論者は、少なくとも現状では少数派の選択肢に肩入れしている。とすれば、彼らは2重に実態を踏まえていないということになる。その意味では、私たちにとって、まず福島県の人びとが、「遊牧民」的な東京人よりははるかに「定住的」であるということを踏まえることが何より重要であるといえるだろう(*2) 。

 

(*2)この文章の草稿段階で、福島の人びとの定住性は見かけ上のもので、たとえば震災前の地価での土地買い上げなどを実施すれば皆福島を出ることに同意するのではないか、という趣旨のコメントを頂いた。もし許されるのであれば「実験」してみるとよいと思うが、私は、このような見解は、そもそも人びとが地理的広がりの中で生きる存在であるということを看過していると思っている。というのも、正価で土地を買い上げるくらいでいなくなるような人びとなら、震災前にいなくなっていてもおかしくないからである。実際、日本の近代史は、人びとが故郷を離れ東京などの大都市に流入する歴史でもあり、その裏返しで地方の農山漁村は過疎化の歴史を歩んできた。だが、それでも農村漁村は無人になったのではない。残った(残らざるを得なかった)人びとと、そのような人びとによって構成された社会がそこに残ったのである。福島から避難を推奨する論者は、自身が避難を薦めている相手がこのような人びとを含んでいることを踏まえるべきであろう。

 

福島において営まれている日常生活

 

福島の人々がその地にとどまることを選択していることについて、福島の現状を理解しない人びとの中には「メディアが安全を煽っているために住民が避難の必要性を認識できないでいるのではないか」と考える人が少なからずいるようだ。もちろん福島県の地元新聞である福島民報や福島民友などをみると、「風評被害とたたかおう」といった記事が多いのは事実である。だが、この見解が正しいと考える人は、たとえば福島市において日常みられる次の光景とこの見解が整合するかを考えてみる必要がある。1)福島県内でも福島県産の食品は回避されている。2)書店では放射能から身を守るためのハウツー本がベストセラーとなっている。3)街中で小学生以下の子どもをほとんどみかけない。

 

これらの事実は、福島県民が放射線に関するリテラシーが低いという認識は事実ではなく、一般の国民より高いレベルで、放射線に関する知識をもっているというのが事実であることを示唆している。とすれば、福島の人びとは、そこに住むことが怖くないからそこに住んでいるのではない。そこに住まねばならない理由があるからそこに住んでいるということになる。

 

その一方で、福島市では次のような光景も同時に目にする。4)街中を往来する人々の様子には普段と全く変わる所がない。たとえば福島駅前の繁華街を観察しているとわかるが、小学生がうろついていないということはあるものの、汚染地域外のJRの駅前の雰囲気と少しも変わるところがなく、他所から構えてやってきた人々にとっては拍子抜けするほどである。もちろん、この界隈の空間線量を測定すると1μSv/h近くある。

 

これらの一見矛盾する行為を同じ人々が行なっているという事実を整合的に解釈することは可能だろうか。私の理解では、これらの現象が一見矛盾しているように見えるというのは、一つの媒介項が欠けているためである。すなわち、福島の人々は日常生活を送っているという認識である。日常生活というのは、数日前に何をしたかが思い出せないほど淡々と、また多くの部分がルーチンとして行われる。いいかえれば、日常生活は、強い怖れの感情の対極にある態度で営まれるものなのである。

 

このように考えると、福島の人々がどのような課題をつきつけられているかがよくわかる。すなわち、放射線による健康リスクと隣り合わせの環境において日常生活を送るという課題である。このような状況に直面したとき人はどのように振る舞うだろうか。もちろん、自分の努力で避けられる危険についてはできる限りのことをする一方で、それ以外の危険については気にしないようにすることである。前者の行為も後者の行為も、自分の感情から強い恐怖心を排除するのに役立つという意味で、日常生活を円滑に実行するために役立つ行為である。

 

福島の人々が日常生活を送るという課題を解決することを基本原理として行動していると理解すれば、上のような一見矛盾するかにみえる行動を一人の人間がとることになんら矛盾がないということがわかるだろう。

 

地元メディアに、世論誘導がなかったとか、報道に誤りがなかったとか、そういうことを主張するつもりはない。だが、地元メディアの比較的「穏健」な報道姿勢は、福島に住む人々が日常生活を営むためには必要なものであることも確かなことなのである。地元メディアが住民の暮らしに直結する放射線に関する情報提供と、穏健な態度のバランスをとった記事を書くということには、一定の整合性があるのである。

 

 

 

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