原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理

住民主体の支援

 

児玉龍彦氏は、原発震災に対する専門家の支援は、原則として住民主体でなければならないと主張している。この点はメディア的にはあまり注目もされていないが、実のところ、原発震災を考える上で最も重要な支援原則であるといえるだろう。それは、例外的な判断が必要になる場合は排除しないにせよ、基本的には汚染地域に住む人々が、自分たちの地域をどうするかを決め、専門家は基本的にはその決定を尊重する形で支援を行なってゆくことが支援の原則であるということである(*3) 。もうすこし具体的にいえば、住民の多くが、さまざまなやむを得ない事情を抱えながらも、その土地にとどまろうとしている以上、その土地に住み続けることによる健康被害のリスク、精神的負担、日常生活の困難に対してどのように支援することができるかが、課題の中心となるということである(*4) 。除染が重要となるのは、それが、現地に住み続けることによって生ずる複合的な問題に対して、有効な手段となりうるためである。

 

(*3)もっとも、どのような意見が住民の意思を反映したもの、あるいは住民の利益に叶っているかを判断することは、必ずしも容易ではない。たとえば自治体は人口の維持に利益があることから、避難・移住希望者よりも残留者の意向を優先する傾向があるといえる。その意味では自治体を住民の利益の代表として理解することには限界がある。

(*4)他方で、土地を離れるという決断をした人々に対しては、そこで喪われる仕事や人とのつながりを含む、本人を支えてきた様々な生活上の諸要素を取り戻せるように支援するということが課題となるということである。

 

これに対し、あくまで避難をという主張の中には、現在の被曝状況を「人権侵害」という立場から非難し、避難を求めるというタイプの主張がある。このように主張する人びとは、現状が人権侵害状況なので、住民を強制的に避難させてよいという立場に立っている。いうまでもなく、この立場は基本的に住民主体の原則と両立しない。もちろん、被曝のリスクに対する評価によって、この状況が強制的な措置を必要とするか住民自身の判断に任されるべきか、言い換えれば「住民主体」と「人権の保護」のどちらが優越するかは変わってくるだろう。だが、ここで重要なことがある。それは、今や汚染地域の汚染状況や放射線被曝のリスクについて最もよくわかっているのは現地の人々だということである。これは、地方自治の基本認識でもある。とするなら、よほどのことがない限り、基本的には住民の判断に基づいて支援策が構築されるべきであるということになろう(*5) 。

 

(*5)現地に留まることを自身で決定する以上は、自己責任の原則を適用すべきだという議論がある。これは商取引などにおいて適用される原則ではあるが、これは自由権が行使される局面に限られるといえる。逆に、社会権を適用する局面においては、自己決定が自己責任を伴う必然性はない。

 

また、避難や疎開を軽々に主張する人々は、避難や疎開が強いる負担を無視しているか軽視しているように思われる。避難や疎開には、それまで生きてきた環境から避難者、疎開者を切断するという側面がある。また、家族の一部が避難、疎開する場合には、家族が引き離されるということにもなる(*6) 。これらのコストを支払ってなお避難や疎開を強制できるのは、極めて限定された状況においてのみであるといえるだろう。国が1mSv/y以上の被曝を許す制度改変をしたことを強く非難する小出裕章氏も、住民が福島を離れるべきかどうかについては「私にはわからない」と述べてきたのは、まさに避難や疎開によって失うものが大きいと認識しているからである(*7) 。

 

(*6)三宅島噴火(2000年)に伴う全島避難に際して、旧秋川高校施設を利用する形で全島の小中高校生が寮住まいするという事実上の「疎開」措置が取られた。その結果は惨憺たるもので、特に小学生については、2000年9月の時点で138名在籍していたが、体調を崩したり、親を恋しがったりする児童が続出するなどして、順次保護者に引き取られていった結果2002年3月までに在校生が0名になった(『三宅島噴火災害の記録』本編pp. 38-42)。私の取材に対しても、三宅島の行政・学校関係者ともに疎開はすべきでなかったと証言している。疎開を主張する論者は、「戦時疎開が可能だったのだから今回も可能だ」というような乱暴な議論から脱して、現代において疎開が可能となる条件について深く検討すべきである。なお、そもそも戦時疎開が「うまくいった」ということ自体十分立証されていないことにも注意が必要である。参照:http://www.miyakemura.com/kiroku/index.html

(*7)ただし小出氏の場合最近の発言には、「本来避難させるべき」というもう少し踏み込んだ表現がみられるようになってきている。

 

福島のリアリティ、東京のリアリティ

 

南相馬市の出身で、現在現地の除染活動に従事している原子力の専門家がいる。彼はいわゆる「原子力村」の一員とみなされている人物でもある。彼は、主に南相馬市の農家と連携して、農地と農家の自宅の除染を支援している。私が彼と面会した際、彼の次の発言に大変興味を惹かれた。すなわち「住民たちには、児玉先生と喧嘩しないでくれと言われている」という発言である。なぜこれが興味深いかといえば、南相馬と東京とではリアリティのあり方がまったく異なっているということを示唆しているからである。

 

東京では、除染をめぐる構図といえば、「原子力村」村民対これまでの原子力政策に責任を負っていない新たな専門家 ―― 児玉龍彦氏はその代表的存在であるが ―― ということになっている。メディアも市民もこの両者の闘争のどちらに軍配が上がるかを注視している状況であるといえよう。2012年1月から施行される放射線物質汚染対処特措法の第56条は、その闘争の最前線であるといえよう。

 

だが、現地に足を踏み入れると、福島では様々な立場の専門家が入り乱れて除染の支援をしているというのが実情であることが直ちに分かる。現地の人びとにとってみれば、自分たちの街、田畑、山林を安全にする手助けをしてくれる人であれば、それが「原子力村」の人間であろうが、そうでなかろうが関係ない。先に紹介した発言が示しているのは、福島の人びとが、このような構図でこの問題を認識しているということである。

 

実際のところ、東京では圧倒的な善玉とみられている児玉氏の南相馬市における評価は、東京におけるものと同じではない。児玉氏の基本的な狙いは、徹底的な除染=恒久除染を可能にする技術的条件、政治的条件を整えようとするところにあり、それはそれで重要なことだが、他方で、児玉氏は、南相馬に住む人びとの不安を緩和するための民地の緊急除染には関与していない。このため、同市の人びとは児玉氏に「来てくれるのはありがたいが、過剰な期待はしていない」という評価をしている。児玉氏に面会した際に、彼は民地除染に関与しない理由として「児玉研究室の能力を超えることはできない」と語った。私は、この態度は児玉氏の誠実さを示していると理解しているが、いずれにせよ重要なことは、児玉氏が南相馬を支援しているからといって、彼に任せておけば同地域の生活環境が順調に整えられてゆくということにはならないということである(*8) 。

 

(*8)加えて、児玉氏は市民自身による民地除染に否定的な立場なので、結局のところ同氏の立場は、緊急除染に必要なマンパワーは存在しないので、産業主導の除染を進めて恒久的な除染が実現するまで市外に避難しているべき、というものなのである。この立場は、多くの市民が南相馬に戻ってきている現状を前提とすれば、先に紹介した同氏の提唱する「住民主体」の原則と整合しない。

 

他方、「原子力村」の専門家の中にもいろいろな人があるであろうが、多くの人は、すでに福島の土地を再生することができなければ、原子力開発を再出発させることはもはやできないということを理解しているようにみえる。少なくとも、私が出会った方はそのような人であった(*9) 。とすれば、彼らの失地挽回を目指すエネルギーと能力を、福島の再生のために使う(従来の体制を温存させることなく、という条件がつくが)ことは、決して無益ではない。

 

(*9)この点については、「原子力村」の大物とみなされている山名元氏ですら「年間20ミリシーベルトという目安を提示した際に「最終的には除染などの対策を行い、年間1ミリシーベルトの平時の目標を目指す」という言葉を添えるべきだった」(『放射能の真実』日本電気協会新聞部、2011年, p. 141)と述べている。

 

結局のところ、南相馬市の除染は、さまざまな立場の専門家が入り乱れて支援する現場となっており、南相馬の人びとの多くが現地で生きることを選択した以上、支援はそのようなものとならざるを得ないということなのである。むしろ、現地に住み続ける住民を支援する政策を考えるという立場に立つならば、東京において存在する対立を、福島において競争のエネルギーに変換させて両者を活用する途を求めることが基本線ということになるであろう(*10) 。これは、今次の原発震災の責任を誰がどのように取るべきかという問題と、いかにして効果的に除染を行うことができるかという問題が区別されなければならないということを示してもいる。

 

(*10)児玉氏が私に説明してくれたところでは、原子力機構のような組織では十分に除染の成果を上げることができないという。とすれば、児玉研と原子力機構のどちらが大きな成果を上げることができるか、イコールフッティングの条件を整えて競争してもらうのが一番よいであろう。もちろん、そのようなイコールフッティングを実現することは事実上不可能なので、現実的解決策として、原子力機構に代表される「原子力村」の人びとに「退場」してもらわなければならないという議論はありうる。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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