原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理

国の責任について

 

今回の原発震災の一義的責任は東電と国にある。そして東電が国策の産物であることを踏まえれば、責任は最終的に国にあるといわなければならない。問題は、原発震災の責任が国にあるということが何を意味しているかということである。

 

国は1mSv/y以上の地域については、除染の責任が国にあるということを認めている。とすれば、福島の人びとは、国やその「末端」としての基礎自治体が除染してくれるのを待っていればよいであろうか。個人的な見解としていえば、私は、このような判断はおそらく悪い結果をもたらすと思う。というのも、この国の責任の承認は、「空手形」になる可能性が高いからである。現在国が除染のための財源として確保しているのは1兆円あまりであるが、これは十分に線量を下げるために必要な費用(推計にもよるが40兆円以上という見積もりが多いようだ)からみるとあまりに少ない。では今後財源を確保できる見込みがあるかといえば、おそらくほとんどないだろう。また仮に最終的に財源が確保されるとしても、その確保に長い時間がかかるとすれば、その間に住民の総被曝量は増えてしまい、効果は薄れてしまう。

 

私の理解では、問題は2点である。1つは、国民が総じて福島の人びとの被曝に対して冷淡であるということである。財源が調達できないということは、結局のところ福島の人びとに対して十分な税金が投入されるということについて、国民的合意ができないということである。原発震災の責任が国にあるということは、国民全体が責任を負うということに他ならない。だが、このような意識は日本人には総じて希薄であり、自分とは関係のない「国」が悪いと思っているようにみえる。除染の責任を取るのも、自分ではない「国」であって、自分は関係ないと思っているようにみえる。そして、このような国民の態度は、結局のところ国が除染のための財源を確保することを不可能にしてしまう。

 

もう1つの問題は、現在の民主党政権に、福島の人びとに冷淡な態度を取る国民に責任を取ることを呼びかけるだけのリーダーシップが欠けているということである。国の取るべき立場は2正面的なものである。一方では、原発震災の責任者として福島の人びとに対して謝罪し、償いを約束しなければならないが、他方では、その究極的責任が国民にあるということを国民に納得させなければならない。残念ながら、そのような芸当をすることは非常に難しいことであるように思われる。

 

私は、細野原発相は、彼のもつ誠実さの限りを尽くしてこの問題に当たっていると思う。だが、究極的責任が国民にあるということを国民にわからせることができなければ、彼の被災地住民に対する約束の多くは、「やろうとしたけれどできませんでした」という形で反故にされ、最終的には、できもしない約束をしたことで、被災地がその約束を前提として振舞うようになる分だけ、現地に害をなす結果となるだろう。たとえば、人びとが「待ち」の姿勢を取ることで福島の人びとの総被曝量は増大することになる(*11) 。

 

(*11)代わりに次の政策がより全面に出てくることになろう。すなわち、一方で今次の原発震災の責任を認めつつも、原発震災の健康被害は実は小さい(責任は小さい)ということを主張することで、責任の大きさと利用可能な資源の少なさとのギャップを埋めようとする政策である。だが、この政策は政治全般に対する不信を増幅させてしまう。福島県立医大の山下俊一氏は、彼の強い信念に基づき、また医学界の中心学説を主張しているだけであるにもかかわらず、被害を小さくみせることで利益を得る国を代弁する「御用」学者であると思われたことで、ほとんど「犯罪者」のような評価を受ける羽目となった。

 

原発震災の結果として、世論は脱原発の方向性を支持するようになっている。このことは、国民が原発震災について「反省」していることの証左であるといえるであろう。だが、それでもなお、日本人が考えるべきは、脱原発を実現しても、福島の地が放射能で汚染されたままであること、福島の人びとが日々被曝しつつあるということ、そして福島の人びとがそのことで大きな精神的苦痛を強いられていることのどれ1つとして解決されるわけではないということである。

 

私は、現在の政治状況を前提とすると、残念ながら国民に、福島の人びとを納得させられるレベルまで「元通り」にする責任を自覚させることは極めて難しいと思う。とすれば、問題を解決するには、結局のところ国民全般の態度を変えてゆくよりも、福島の地と人びとの抱える問題をなんとかしたいと考えている人びと(マジョリティではなくとも、たくさん存在する)が、どんどん問題解決に動いてしまうのが一番よいと思われる。市民社会的解決法といってもよい。

 

除染についていえば、汚染地をきれいにすることを望む住民・ボランティア・地元産業・自治体(可能であれば)が連携して除染を進めてしまい、費用を最後に損害賠償などの司法的手段を通じて、国につけ回すのも一策である。もちろん司法的手段を用いてもかかった費用を最終的に全額回収できる保証はない(特に日本の裁判所は「現実的」な判断を好む傾向があるため裁判で負ける可能性は低くない)。だが、仮に最終的に費用が回収できなくとも、福島の人びとの総被曝量を減少させ、放射能に伴う様々なリスクや苦痛を減少させるという成果を手にすることができるという利点だけは失われないといえるだろう(*12) 。

 

(*12)一般に、責任と効率は対立する場合がありうる。責任という観点からいえば、東電と国に除染費用全額を支弁させる必要があるということになるが、効率という点からいえば抵抗する相手に責任を取らせている時間があればまずは除染を進めてしまった方が被曝量を低減できる。たとえば、除染費用の実費の半額の支払いを約束させる代わりに賠償を放棄するという取り決めを住民と東電との間で結んだ場合、東電は一定の責任を免れ、他方住民はより迅速な除染の成果を手にすることになる。このような「解決」法は、功利主義的観点からは支持されうる一方で、道義的には理解を得られにくいかもしれない。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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