原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理

福島の人びとに対する支援とは ~ 生活を支える支援に向けて

 

これまでの議論をまとめると次のようになる。まず、1)避難(移住)する人と現地に留まる人の両方が存在するということである。したがって、2)住民主体の原則に沿って考えれば、支援としては、住民自身が自分たちの未来を決めてゆくことを下支えてゆくことが基本ということになる。そして、3)そのような支援は、国の責任で行われるのを待っているわけにはゆかない、ということである。

 

では、住民の決定を支援するとはどういうことであろうか。私の考えは次の通りである。まず、福島の人びとは、放射能による健康被害のリスクと、避難・移住することで失われる生活のコストを天秤にかけている。避難(移住)を選択するか、現地に残留するかは、その結果に過ぎない。重要なことは、どちらの選択肢を重視するかにかかわらず、どちらの選択肢ともコストが大きければ、福島の人びとにとっては選択することが迫られること自体が、苦痛に満ちたものとなるということである。それは、自分の命と3億円の生命保険のどちらかを選ぶのと、今日の昼飯として炒飯とスパゲッティのどちらかを選ぶのとで全く意味が違うというのと同じことである。とすれば、私たちがなすべき支援の1つの方向は、この選択のジレンマの深刻さの度合いを小さくすることであろう。具体的には、一方では、移住者・避難者に対する生活再建の支援をしつつ、他方では、除染をはじめとして様々な手段によって現地における生活を整えてゆくことである。いずれにせよ、キーワードは「生活」である。

 

【生存権保障を超える生活支援】

 

ここで少し原理的な論点を考えておこう。まず、避難者・移住者の生活水準が、生存権が保障する最低限(ナショナルミニマム)でよいと考えてよいだろうか、という問題を考えよう。ナショナルミニマム支援の場合、支援上の問題は、かなりの程度生活保護を基礎とした社会保障制度にいかに避難者・移住者を繋いでゆくかという問題になる。日本の社会保障では居住保障が非常に弱いので、この点を特に追加して考えるという形で修正を加えてもよい。だが、いずれにせよ、ここで問題となるのは、現在避難や移住しようとしている人は、その多くがそのようなナショナルミニマムより高い水準の生活をしていた人びとであるということである。この人たちは、従前の生活に近いものを確保できなければ、潜在的な避難希望者のうち、実際に避難する人はかなり限定されてくるであろう。とすれば、避難者・移住者を支援する場合、ナショナルミニマムを超えた対応がいかにできるかということも考えなければならない。

 

他方、現地に残ることを支援するという場合、もともと多くの人びとはナショナルミニマム以上の生活をしているので、従来の社会保障的支援法では、彼らの生活を支えることにならない。つまり、避難・移住・残留のいずれにせよ、被災者の生活を支援するためには、生存権保障だけでなく、それを超えるレベルでの対応を最初から考えなければならないのである。

 

このようにいずれの場合でも、ナショナルミニマムを超えた水準での支援が必要であるとするならば、そのような生活ニーズとは何かということを考えておく必要がある。生活ニーズには、一般に1つの構造的特徴がみられる。まず最低限必要なものというのはかなり客観性が高いということである。その最大の理由は、このレベルが生存の条件に関わっているからである。たとえば、衣食住が欠けてよいということにはならない。だが、それ以上の水準については、人によって生活に必要な要素が違うという意味で個別性が高くなってくるのである。たとえば、ある人にとってはペットの犬が一緒にいるということが生活にとって本質的な意味をもっているとしても、他人もそうだとは限らない。

 

以上を踏まえて、私の理解する避難者・移住者・残留者の生活ニーズを満たすための支援の基本方針を示すと、次のようになる。すなわち、1)最低限の生活水準の底が割れないように、まず社会保障制度への接続を支援する。2)最低限を超える生活ニーズに対する支援のためには、基本的には個別に相談に乗ってゆく機能(ケースワーク機能)を強化して当たらなければならない。その際、3)ケースワークを活性化するために必要なこととして、すべての人に同じ内容の支援をするという意味での「公平性」を追求することは放棄し、すべての人に各人に最良の支援を目指すという意味での公平性を追求しなければならない。

 

このように考えると、支援のあり方は自ずと決まってくるように思う。まず生存権保障については、行政に徹底して担わせることである。避難者・移住者については受け入れ側自治体が、残留者については地元自治体がこれにあたる。だが、最低限以上の生活水準部分については、行政に多くを期待することは、現状ではできない。もとより、このレベルでの対応を行政は非常に苦手としている。特に上の3)が行政には難しい(もっとも、行政保健師は例外的にこのようなケースワークを得意とする職種なので、健康面に関することを中心に保健師には多くを担ってもらう必要がある)。とすれば、この部分については市民セクターが担うことが強く期待されることになる。市民セクターの観点からこれをまとめると、市民セクターが特にターゲットとすべきは、1)被災者を生存権保障に繋いでゆく役割、2)個別の生活課題(ニーズ)をケースワーク的に把握してソリューションを構築すること、ということになろう。

 

このように、私は、今回の原発震災に対する支援について、生存権保障を超える生活支援の問題という理解の仕方をしている。だが、同種の問題は、高齢者福祉や障害者福祉をはじめとする福祉領域には今日一般に存在している問題でもある。これに対し、原発震災に固有の支援に関する論点があるということも確かである。そこで、以下ではこの点について述べておきたい。

 

【避難・移住支援】

 

これまでどちらかといえば、現地に留まる住民に力点をおいて議論してきた(それは除染について言及する限りそうなってしまう)。だが、私は避難や移住という方法が原発震災に対する解決法でないということを主張するつもりはない。むしろ、避難・移住を積極的に勧めた方がよい場合があることは承知しているつもりである。ひとつは、子どもや妊婦のように放射線による健康被害のリスクが高い場合である。もうひとつは、被災者が被災者であることをやめることを希望する場合である。後者について簡単に説明しておくと、被災者は、新天地で新たな人生を始めることを決断することで、被災者であることをやめることができる。被災者として生き続けることの辛さが、被災者をやめることでなくなるのであれば、新たに人生を作りなおすことのコストを考えても釣り合うという考え方はありうるし、実際過去の災害に際して、そのようなケースは、人口の半分が帰島しなかった三宅島噴火のケースでも散見されたことである。

 

このような人びとに対する支援は、被曝環境での活動である必要はないので、一般的なボランティア活動の範囲でかなりのことができる。現在、草の根レベルで避難者・移住者を支援している団体が、全国レベルでの連携を進めつつあると聞いている。このような動きが加速することを期待したい。

 

なおその際、避難(移住)支援ということでいえば、現在汚染地自治体や国の姿勢を批判することが、議論としては正論であってもあまり効果的でない可能性が高いことについては踏まえられる必要がある。たとえば、福島市の渡利地区についていえば、特定避難勧奨地点指定をめぐって避難を希望する住民側と行政側が対立する構図となっている。もちろん福島市は避難を希望する住民に対しても可能な支援を尽くすべきであり、その一つの方法が特定避難勧奨地点の認定であるということはたしかである。現在福島市は、渡利地区について特定避難勧奨地点の認定を行わない方針で臨んでおり、したがって、同市は果たすべき仕事を行なっていないと批判されても仕方がない。だが、その一方で、同市が避難を推奨しない立場に立つのはある意味当然でもある。というのも、地域社会の維持・発展にとって人口の維持は最も基本的な要素であるからである。このとき、少数派にとって特定避難勧奨地点をめぐって闘争することは簡単ではない。また、向こう2年間で線量が60%程度にまで下がってくるとみられていることから、時間が経過するにつれ、特定避難勧奨地点をめぐる闘争は、避難者・避難支援者にとってますます不利になってゆくことが確実である。

 

そして、より重要なことは、特定避難勧奨地点の認定は、重要ではあるけれども、避難や移住を希望する人びとを支えるために採りうる多様な手段の1つにすぎないということである。特定避難勧奨地点に指定されれば何がしかの当座の資金や、公営住宅への優先的入居の便宜が図られるといったメリットはある。だが、避難先・移住先で必要となるのはそれだけではない。仕事を見つけることができる見込みがなければ一家で移り住むことはできないし、地域社会とのつながりの再建、子供の教育に必要なケアなどさまざまなニーズの充足が必要となる。そして、これらの大部分は、避難先・移住先の自治体、地域社会、NPOの姿勢によって決まってくる問題なのである。その意味では、避難(移住)支援の主要なターゲットは、汚染地域ではなく、避難(移住先)の方に置かれることが必要なのである。すでに草の根レベルでは、全国的に避難(移住)者に対するケアが行われていると聞いているが、まだまだ態勢が整っているとはいえない。もし読者に域外から避難を主張する人々がおられたら、是非に要望したいことがある。それは、ご自分の地域においてどのような避難者支援が行われているか(いないか)を知り、どのようにすれば改善できるかを考え、実際に何らかの支援に参加していただきたいということである。

 

【被災地に住み続けることへの支援】

 

これに対して、現地に住み続けることに対する支援で、今次の震災にもっとも特殊かつ重要な支援は、いうまでもなく除染である。ただ、除染というのは、その作業自体が被曝環境で行われることもあって、その利益とリスクをつねに天秤にかける形で行われなければならない。しかも、専門家の間でも意見がわかれており、また日々新たな知識が加わってくるために、誰が、どこを、どの程度まで、どのような手段で除染すべきかについて、折々に再評価してゆくことがどうしても必要である。そのような認識を前提とした上で、次のように述べておきたいと思う。

 

まず、多くの住民が現地にとどまっているという事実を踏まえ、彼らを住民主体の原則に基づいて支援するとすれば、我々の除染に関する知識がどうであれ、除染自体は必要だということである。

 

もちろん、住民の総被曝量を引き下げることが必要であることが最大の理由である。被曝のリスクに対する見解は専門家によって分かれているとはいえ、線量が低いに越したことはない、という点ではすべての論者が一致しているし、とくに被曝による健康リスクの大きな子どもが、福島に住むことができないのであれば、福島の人びとにとって、生きてゆく場所が回復されたとはみなせないだろう。

 

だが、それだけではない。仮に福島の人びとの健康リスクが小さいという学説が今後有力になっていったとしても、依然として除染を進めておくべき理由は失われない。いいかえると、今後放射線のリスクに関する知識がどのように更新されようとも、除染をしておくことが必要になるということである。

 

現在、冷静な実証調査によって、当初私たちが想像していたよりも住民の被曝量は少ないといった結果が報告されるようになってきており、放射線被曝による健康被害は意外と軽微である可能性もある。だが、それによって除染をしなくてよいということにはならない。というのも、そのような事実だけでは、住民の苦痛を軽減することはできないからである。このため、住民の精神的苦痛を取り除くためにも除染が行われる必要がある。山下俊一氏が懸念しているように、今次の原発震災において最も深刻なのは、住民の精神面への影響である可能性は高いだろう。だが、同氏が失敗したように、「安全」と言って回るだけでその影響を取り除くことはできないのである。専門家の言説そのものの価値が下がっているときに、このような発言はむしろ反発を招く可能性がある。だが、このようなときでも確実に効果があるのが、除染なのである。つまり、除染は、最終的に被曝の健康被害のリスクがどの程度のものであることが判明するとしても、現状では価値のある活動であるとみなすことができるのである。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.276 

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