原発震災に対する支援とは何か ―― 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理

除染ボランティアの可能性

 

最後に、私が多少なりとも関わりをもってきた除染ボランティアの問題について整理しておきたい。除染ボランティアについては、おおまかにいって次の3通りの批判がなされてきたといえる。すなわち、1)除染はそもそも無理なので避難すべきという主張、2)東電や国が除染すべきという主張、3)専門家・専門業者が除染すべきという主張である。以下ではこれらの主張にそれぞれ問題があることを示した上で、ボランティアを含む除染の効果的な進め方について私の考えを述べたいと思う。

 

まず、1)について。私は、除染そのものの是非に関していえば、事の本質ははっきりしていると思う。というのも、除染にいくらでも人的・物的資源を投入してもよいのであれば、現在の技術でも相当程度の除染が可能だからである(限界がないと言っているのではないが)。児玉研究室が実施した南相馬市における幼稚園・保育園での実証実験では、いずれも屋内で0.2μSv/h以下まで下げることに成功しており、さらに興味深いことに、同市の市民団体である安全安心プロジェクトの手がけた保育園除染でも同レベルの結果を得ていることである。これらの事実は、徹底した除染を行えば、住宅地・市街地から、相当程度放射性物質を取り除くことができるということを示している(*13) 。児玉氏が指摘するように、山内知也氏が「除染不可能」と結論付ける根拠となった渡利地区の除染実証実験は、線量が落ちない程度の不徹底な除染であったというのが正しい評価であろう。さらに、効率的除染ということについていえば、限界はあるにせよ技術革新の余地は多いにあるともいえる。したがって、「除染は不可能」という論者は、つねに、何時の時点において、どの程度の人的・物的資源の投入で除染が不可能と言っているのかを明示して主張しなければならない。少なくとも頭ごなしにチェルノブイリにおいて土地が放棄された事実からの連想のようなもので、除染不可能と決めつけることには大きな問題がある。

 

(*13)住宅・市街地、田畑、山林では除染に求められるものも実施条件も大きく異なっているので一律に議論することができない。ここでは、ひとまず住み続けることを決めた人々への支援という意味での除染に限定して議論しているので、主に市街地・住宅を念頭に置いている。だが、農家を支援する場合は、田畑の除染を含めて考えなければならない。

 

次に2)について。今回の原発震災の一義的な責任が東電と国にあることは疑い得ない。その意味では除染の費用を工面する責任をこれらの主体は有している。その一方で、東電とか国が人間として実在しているとみなすことができないことには留意が必要である。というのも、十分な除染を行うには膨大なマンパワーが必要だが、これに対して、これらの主体に所属する人びとはあまりに少数だからである。とすれば結局のところ、東電や国が除染するとは、東電や国が雇った業者、労働者が除染するということを意味せざるを得ない。それは、直接今次の原発震災に責任のない人びとが、札束でひっぱたかれるようにして除染現場に連れてこられることである。とすれば、「除染は東電と国がやれ」という主張の正義は、それが誰によって主張されたかに依存することになるだろう。私はこれを被災地の人びとが主張しているのを頻繁に見聞きした。この場合、この主張は、「私はこれ以上被害を受けたくない」と言っていることを意味し、その限りでは多くの人びとにとって理解できる主張であるといえるだろう。これに対して、域外の人びとがこれを主張するとき、「私でない誰かが被曝環境で除染に従事してほしい。そのための人員を確保するためなら札束でひっぱたいてもかまわない」と言っているのと同じことになる。まさに「原発ジプシー」と同じ論理である。とくに域外から入ってくる労働者は形式的には「自発的」に現地に赴き作業に従事するということもできるが、他方で彼らの「自発性」は労働者の経済的な弱さによって歪められてもいるのである(*14) 。

 

(*14)もちろん、私は雇用労働ベースでの除染が一般に有効でないといっているのではない。有効でないのは、線量の低減という目標によって動機づけられていない労働である。その意味では、ボランティアを有給にしてもよいし、地元住民の除染活動に賃金を支払う形がとられても構わない。ただし、ここで重要なのは、除染は労働としては典型的な3K労働であることから、もともと現地の線量を下げたいと願う労働者=基本的には地元の人びとを雇用するのでない限り、労務管理は難しくなるだろうということである。

 

最後に3)について。これは主に児玉龍彦氏が主張していることでもある。同氏は、除染による2次被害の可能性を重視する観点から、住民やボランティアによる除染に対して否定的な立場をとっている。だが、この主張は、専門家が立ち会うにせよ、専門業者が行うにせよ、除染が最後は素人によって行われざるをえないことを看過しているといえる。たとえば、屋根の上の除染を行う際に、それを実施する者として想定されているのは鳶職であり、それが専門業者の専門性の意味なのである。とすれば、除染とは、どのような主体が行うにせよ、結局のところ、労働者、住民、ボランティアといういずれも素人のいずれかが行う作業ということになるのである。したがって、除染を行う素人の安全を確保する態勢を構築することができなければ、これらの間で2次被害の危険に違いはないと考えなければならない。児玉氏の主張は、専門業者が最も素人の安全を守ることができると言っていることになるが、これはおそらく事実ではないだろう。専門家の適切な助言と管理があれば、市民セクターによる除染は専門業者に安全面で劣るとはいえないからである。もちろん、このことは、市民セクターに対しても、除染が野放図な活動とならないよう、また専門家からの助言を適宜受けられるような態勢づくりが求められるということを意味してもいる。

 

以上は、除染ボランティアへの批判があたらないということを議論したものであるが、では、除染ボランティアそれ自体にどのような積極的な意義を認めることはできるだろうか。

 

まず、除染ボランティアの利点として、第1に、作業に際しての放射線被曝のリスクやその回避方法について十分な情報が与えられているということを前提とすれば、歪みの少ない自己決定(自発性)が可能であるということが挙げられる。この点は、札束でひっぱたかれて動員される労働者の場合と比べて、優れた特徴であるといえるだろう。

 

第2に、ボランティアが被災地の住民を支援したいという意思を持っていることである。業務命令ではこのような意思をもつことは難しい。特に除染の場合、作業に際して試行錯誤が必要になることが多い。思ったより線量が下がらなかったり、放射性物質が溜まっている場所がうまく見つからなかったりといったことが常時起きる。このとき、命令された作業だけをこなす労働者では効果を上げることができない。このような問題は、域外の労働者を動員するときに特に起きると考えられる(すでにそのような事例は指摘されている)。ボランティアの場合、住民の支援として作業に入るのでこのような問題は起こりにくいといえる。

 

第3に、ボランティアにはコミュニケーターとしての側面があることである。ボランティアは単に労役を提供しにやってくるというよりも、ボランティアを通じて何かを学び感じ取りたいという期待をもってやってくる。域外の人がボランティアとして福島に入れば、まさに百聞は一見に如かずで、福島の人びとが直面している困難をつぶさに理解することになるだろう。また、国民一般と福島の人びととの間の認識の乖離についても感得するだろう。そして、彼らの中から自分が学び感じ取ったことを人に伝える人が現れるだろう。すでに述べたように、原発震災に関する問題の根底には、国民の福島の人びとに対する冷淡な態度がある。この態度は、あらゆる部面で福島の人びとが問題を解決し、福島を復興させてゆくことを困難にする。このことを知り、国民一般のこのような態度に影響を与える人びとが、このようなボランティアから現れることが期待できる。

 

第4に、ボランティアには行政の限界を超える力があるということである。現在、除染は主に基礎自治体主導で行われようとしている。その特徴は、1)行政による計画、2)業者から主要なマンパワーを調達、3)ボランティアへの統制がある。除染を計画している自治体の多くは、除染作業を線量の高い順番にやろうとしている。おそらく行政にはこれ以外の公平性の基準を見つけることができないためにそうなるのであろうが、これでは、除染問題の複層的な性格に対応できない。というのも、住民の放射線被曝に関する苦痛は、線量順とは限らないからである。子供を持つ親、精神的ストレスに弱い人、健康面で不安のある人など、個別に対応すべきケースはいくらでもあり、これは線量順の除染では対応できない。

 

また、行政主導の除染は作業ペースが大変遅い。そもそも計画的に除染を実施しようとすること自体、効率的な除染という考えに反している。加えて、マンパワーの調達が業者に偏っているために十分な除染力を確保できないという問題もある。今次の震災は東北各県にまたがっているために、土建業者の需給は逼迫しており、十分な労働力を確保することは容易ではない。そしてこのような条件に合わせる形でボランティアを動員しようとしたために、現在のところ自治体は除染ボランティアの潜在力を十分活用できていない。結果、除染の作業ペースは大変遅くなってしまっているのである。たとえば、南相馬市では原町地区のような市内では比較的線量の低い地域の除染は2012年7月以降ということになっているし、福島市では、まだ10月末から12月までの間にわずか数10軒の除染しかできていない。このままだと、自分の順番まで待つことに耐えられない住民が多く出ることが予想される。

 

これに対し、ボランティアがボランティア主導で除染を進めることで、行政主導の除染にみられる上のような欠点をかなりの程度補うことができる。というのも、ボランティアは自分が支援したい人や地域を実力の範囲で支援する存在なので、結果的に困っている順番に支援することが可能になるからである。またボランティア主導で除染を進めることができれば、最大限のマンパワーを調達することができるという点で、作業を加速させることができる。

 

では、ボランティア主導の除染体制とはどのようなものだと考えればよいであろうか。私の考えでは、次の5点がポイントである。すなわち、第1に、ボランティアを含め住民支援という目標を共有できる、住民自身、ボランティア、地元業者、専門家、できれば行政からなる連携を構築すること、第2に、放射線被曝に関する十分な情報がボランティアに提供されること、第3に、困っている順番に除染することで、行政による除染と補完関係に入ること、第4に、そのために、個人の除染ニーズに関する情報(行政保健師が相談を通じて収集しつつある)を、行政と市民セクターで共有できる体制を構築すること、第5に、除染を行う人びとの被曝を最小限に抑える可能な限りの措置を講ずること、である。

 

なお、最後に除染ボランティアに関して、一点解決すべき深刻な問題があることについては言及しておかなければならないだろう。それは、国が1mSv/y以上の地域の除染について責任を認めている点と関わっている。現状では、ボランティアが除染をすると国の除染費用の軽減に役立つという構造になっている。だが、ボランティアは被災地の住民を支援したいのであって、原発事故に一義的な責任を負う国を支援したいのではない。現在の状況は、ボランティアが除染に関わることを抑制する状況となっているのである。したがって、除染ボランティアの十分な活用に際しては、彼らの活動と国の責任とが切り離されるような条件整備が必要となるだろう。たとえば、除染ボランティアの費用が最終的に国に請求され、国からの支払いが住民に還元されるような枠組みができれば、この問題は解決されることになる。このような法技術的な問題に詳しい人にはぜひこの問題の解決策を提案していただきたいと思う。

 

 

まとめ

 

以上の議論を簡略にまとめると以下の6点になるであろう。

 

 

1. 避難・移住する人びとと現地にとどまる人びとの両方が存在することを前提として支援手段を考えるべきである。

2. 支援に際しては、住民主体の原則を踏まえるべきである。

3. 国民の冷淡な態度が背景にある以上、国に責任ある行動を取らせることが容易でないということを踏まえておくべきである。

4. 支援の目標として、現状では、被曝による健康リスクと避難・移住によって生活を失うコストとの間のジレンマを軽減することに置くのが望ましい。

5. 被災者の生活ニーズの充足のためには、社会保障制度への接続と個別性の高い必要性に対応できるケースワークを両輪で実施しなければならない。保健師などのケースワーク職種に関する体制整備が行政に求められる一方、市民セクターによる機動的なケースワークが大いに期待される。願わくば、行政と市民セクターの密接な連携の実現を期待したい。

6. 現在の行政主導の除染には深刻な限界がある。住民、ボランティア、地元業者、専門家、行政の連携による柔軟な除染体制が作られることが必要である。

 

 

本稿では、原発震災に対する支援について、私の認識を縷々述べてきた。私からみえる原発震災の姿が、この問題に関心をもつ人びとにとって何らかの役に立つことになれば幸いである。

 

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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