「千年に一度」と「リスクてんでんこ」

東日本大震災や、その際大きな被害をもたらした津波について、「千年に一度」の災害と形容されることがある。念頭におかれているのは、869年の貞観地震あたりだろうか。実際、東日本大震災の際の津波は、仙台平野の海岸線から5~5.5キロメートル以上のところまで達したそうだが、これは貞観地震の際の津波の規模を上回るものだったらしい。

 

 

「千年に一度に備えよ」という声

 

もちろん、この「千年に一度」という表現は、「だからこれだけの被害もしかたない」といった言い訳に直接つながるものではない。あちこちで、「いや本当は予想できたはずだ」といった言説を見かけるが、おそらくこの裏側には、「予想できたのだから、対策もあらかじめとれたはずだ」という意識があるのだろう。現在各所で語られている復興プランや防災計画なども、「最悪の事態を想定せよ」という考え方が根底にあるようだ。震災直後の時期に繰り返された「想定外」という言い訳への反発はよほど強かったのだろう。「千年に一度」レベルの比較的発生確率の低いリスクにも備えを、という声は今、非常に強くなっている。

 

 

「大津波「千年に一度」対策を」(朝日新聞2011年9月1日)

http://mytown.asahi.com/kanagawa/news.php?k_id=15000331109010002

 

 

「最悪の事態」を想定すべきという点は、リスクマネジメントの観点からも適切だ。リスクマネジメントの分野では、リスクマネジメントのプロセスを4つの段階に分けてとらえる。(1)リスクの把握、(2)リスクの測定、(3)対応の決定、(4)検証、の4つであるが、このなかで、リスクの把握は、最初に行わなければならないステップだ。まず、どんなリスクにさらされているのかを把握しなければ、その後の段階に進むことはできない。存在するリスクをないものであるかのように扱えば、当然ながら対策をとることはできず、備えのないままリスクにさらされている状態となってしまう。

 

また、リスクが把握された以上、対応をとるのも当然のことだ。そしてその対策は、「うまくいかなかったとき」のことも考えておくことが求められよう。工学的発想からさまざまな「失敗」を研究する「失敗学」を提唱する畑村洋太郎氏は、「制御安全」「本質安全」という用語を使ってこれを説明している。精密な制御機構でコントロールすることによって安全を保とうとする「制御安全」ではなく、構造やしくみ自体を工夫して、万が一のときにも最低限の安全が確保されている「本質安全」をめざすべきという考え方だ。

 

 

「完璧な対策」はない

 

しかし、話はそこでは終わらない。問題は、それでは今回の震災において、なぜそれができなかったのか、にあるからだ。忘れてはならないことが2つある。1つはコストだ。いかに優れた対策であっても、コストがかかりすぎるものは、現実には採用できない。とくに、大地震のように稀にしか起きない現象については、わたしたち自身の知見がまだあまりにも不足していて、どこまで備えれば充分なのか、正確なことはまだよくわかっていないというのが実態だろう。となれば、いざというときに安全を確保するためにはかなりの余裕をもたせなければならないが、そうなるとコストはどんどん上昇していく。それで計画自体が遅れるのであれば、むしろある程度の対策を早くとった方がいい、という考え方もあるだろう。

 

つまり、今回の震災で有効に機能した防災施設が優れたものであって、うまくいかなかったものがダメだといった具合に、簡単に割り切ることはできないのだ。たとえば、岩手県下閉伊郡普代村で、かつて村長が周囲の批判を押し切って作ったという高さ15.5メートルの防潮堤と水門が、東日本大震災による津波から集落を守りきった話は、報道等によって一躍有名になった。

 

 

「巨大防波堤で死者ゼロ 岩手県普代村 村長の信念と消防士の献身が結実」(産経新聞2011年4月26日)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110426/dst11042620520043-n1.htm

 

 

隣の田野畑村にあった高さ8メートルの防潮堤は津波を抑えられず多くの被害者を出したとのことで、高さの差が命運を分けたかたちになっているが、だからといって、高さ15.5メートルが防潮堤の高さとして必要十分だと証明されたわけではないし、8メートルの防潮堤をつくった人びとに先見性がなかったということでもない。

 

震源の位置や潮の状態、地形やその他多くの事情によって、津波の被害は大きく左右される。ひとつ事情が違えば、15.5メートルでも不足だったり、防潮堤自体が破壊されてしまったりしていたかもしれない。極端な話、高さが100メートル、幅が1キロメートルもあって、どんな地震にも耐えるほど強固な構造だったとしたら、どんな地震でも津波の被害をほぼ完璧に防ぐことができるかもしれないが、当然ながら、コストを考えればそんなものはおよそ非現実的だし、もし無理につくったとしたら、それ自体が新たなリスク要因となるだろう。逆に、もし今回の震災の震源がちょっとずれていたら、場合によっては防潮堤の高さは8メートルで充分だったかもしれない。

 

重要なのは、地震のようなリスクへの対策には、「これなら完璧」といえるようなものが現実的には存在しないということだ。政府は、近い将来、高い確率で発生が予測されている首都直下型地震について、発生した際には、諸条件により、数千人から1万人以上に及ぶ死者、数十万人に及ぶ負傷者が出るであろうとしている。もちろんこれまでも、さまざまな防災対策が行われ、そして今後も行われるであろうが、この被害者数をゼロにすることは事実上不可能だろう。

 

もし死者数が1万人なら、東京の人口からすれば、約千人に1人の割合だ。リスクは地域的に偏りがあるから、場所によってはもっと高い確率になるだろう。首都直下型地震が起きれば、身近な人ではないかもしれないが、自分の知っている誰かは命を落とす。そのくらいの計算になろうか。いうまでもないが、この予想自体、「想定外」の事態によって覆される可能性はあるから、ひょっとしたらもっと多くなるかもしれない。死者の発生を防ぐための抜本的な対策は、技術的には可能かもしれないが、それを実際に、完璧に行うことは、現実的に不可能だ。この事実を、わたしたちは受け入れなければならない。

 

 

http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/taisaku_syuto/syuto_top.html

 

 

これは、よくいわれる「人命より経済合理性を優先する」という類の話ではない。コストをかけるべき領域、守るべき人命は他にもたくさんある、ということだ。政府にとって、地震や津波から人びとを守るのが重要であるのと同様、感染症やテロから人びとを守ることも重要であり、教育や社会福祉も必須であり、経済を振興することもまた大事な課題だ。

 

そもそも、経済合理性と人命の重要性は、対立する概念ではない。もともと「経済」ということばは、経世済民、つまり「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」からきている。むしろ、より多くの人命を救うために、より多くの人の幸福を実現するためにこそ、政府は経済合理的に運営されなければならない。今後改善の余地はあるにしても、「死者1万人」は、現時点での経済合理性にもとづく1つの選択の結果であるといえる。

 

 

 

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