2013.05.17

「豊かな日本なのに、ホームレスの方がいて驚きました」。カンボジアから留学に来た友人の率直な感想だ。日本の貧困問題は「世界の貧困に比べれば、問題視するほどではない」と、あまり光を当てられずにきた。しかしアフリカや各国にはびこる飢餓のような「絶対的貧困」の問題としてではなく、日本で考えなければならないのは、その社会のなかに身を置いたときに、生活上の望ましい状態を維持することができるかどうか、つまり「相対的貧困」だ。

わたしがこの日本の貧困問題について考え始めたのは、学生時代だった。もともと幼いころから母子家庭に育っていたため、生活が楽ではないことには慣れていた。けれどもそんななか、家庭を支えてくれていた母が癌を患った。手術後の経過は良好ではあったが、癌以外の病も患うこととなり、以前のように働ける状態ではなくなってしまった。

そこでわたしたちはまず市役所に行き、生活保護を申請することにした。すると役所側からこんな答えが返ってきた。「生活保護を受ける上で、保険は財産にあたります。まずは解約して下さい」。もちろん生活保護受給期間は、医療費は基本的にはかからない。けれども生活保護は一生受けられるものではない。生活保護を打ち切られた後、癌を発病した母がふたたびどこかの保険に入ることは難しい。そんななかでもし再発してしまったとしたら……。

さらに役所はこうつけ加えた。「娘さんが大学に進学する場合、娘さんは生活保護を受けることはできません」。もちろん一理あるかもしれない。大学など行かずに働くべきだと言えばそれまでだろう。けれども「いい就職には大学」「進学が将来を切り開く」、そんな世間の風潮と自分の置かれている状況がどこか切り離されている気がした。貧困家庭はどこまでいってもいい教育を受けられず、いい就職もできない……母とわたしがそうであったように、その連鎖が自分の子どもにまでつづいていくのだろうか。疑問は絶えなかった。

今回のレポートでは若者の貧困、とくに若年ホームレスにフォーカスを当てたい。若年のホームレスがとくに増加したのは、2008年のリーマンショック後と言われている。市内5カ所に自立支援センターがある大阪市。支援の中身を検討するため、いったん希望者全員が入る自立支援センター「舞洲1」の年代別データによると、30代以下の割合は2006年度15.0%、07年度18.9%だった。これが09年度4~12月の入所者500人では、33.2%と急上昇した。現在でも問題が大きく改善された状況とは言えない。

ここから先はわたしが取材してきた「若年ホームレス」(30代・20代)の2人がこれまで経てきたことをもとに、日本の貧困問題の根底にあるものを探っていく。

それぞれの貧困

【ケース1】佐久間善男さん(仮名・39) ネットカフェ難民

佐々木善男さん(39)は、7年前に山形から上京してきた。高校卒業後、職にありつけずに自衛隊に入隊。しかし職場に馴染めず除隊。上京後、工事現場などで、日雇いの仕事を繰り返してきた。寝泊りしていた上野公園の近くでは、朝になると業者が車で労働者を拾いに来るのだ。

4年前、新宿の炊き出しに並んでいた際に、ビッグ・イシューの女性スタッフに出会い、販売を始めた。毎晩12時まで、コンビニの100円スナックなどを食事に公園などで時間をつぶし、ネットカフェで朝6時まで1000円のナイト・パックを利用する。シャワーは3日に1回ほど浴びることができる。販売の額が思わしくない日は、24時間営業のマクドナルドで朝まで時間をつぶす生活を送っていた。

ネットカフェの時間まで、100円スナックの夕飯を取りながら時間をつぶす佐久間さん
ネットカフェの時間まで、100円スナックの夕飯を取りながら時間をつぶす佐久間さん

 

問題1 ホームレス人数認識の問題

厚生労働省の発表によると、ホームレスの数は、平成24年の調査では 9,576 人とされ、平成19年の 18,564人の約 6 割に減少している。自立支援施設など、対策の効果が表れたとの見方もあるが、調査方法は路上の段ボールの数を数えるなどの方法であるため、居場所が変わる人々の数が反映されにくい。つまりネットカフェや簡易宿泊所などで寝泊まりしている人々は、ここには含まれない場合が多いのだ。また家賃滞納などで退去寸前の人々、病院や刑務所から退院・退所しても行き場のない人々など、“広義のホームレス”は、むしろ増えつづけているとも言われている。

問題2 日雇い労働の危険

2003年、朝日建設事件と呼ばれる事件が山梨で起きている。これは山梨県都留市の朝日川キャンプ場の建設現場で、日雇いで就労していた労働者たちが、賃金未払いであったことを指摘したところ、殺されて埋められてしまったものだ。下請けのさらに下請けの現場では、日当1万円ほどが提示されるものの、宿泊するプレハブの宿泊費、食費などで手元にはいくらも残らなくなる。これに加えて佐々木さんのように住所不定で身元がはっきりしない労働者が、このような被害に遭うケースも度々起きてきている。

【ケース2】後藤雄介さん(仮名・25) 貧困ビジネス

高校卒業後、航空会社の下請け会社に就職し、成田空港に勤務していたが、激務の毎日であった。ある日飛行機の清掃中、掃除機を倒してしまい、数センチの傷が飛行機のドアについてしまった。飛行機のドアは交換となってしまう、それを機に、彼は依願退職というかたちで会社を辞めることになった(自己都合での退職となると、失業保険を申請しても約3ヶ月の待期期間として受給することができない)。寮も追い出されるのだが、彼は実家がなかった。両親はすでに他界していたのだ。2009年3月、寒さが残る赤羽公園での寝泊りが始まった。役所の福祉課にも足を運んだが、「若いんだから」「住所がないんじゃね」と当初生活保護を申請させてもらえなかった。

その後NPO法人「もやい」などがあいだに入り、無事に北区から生活保護を受けられることが決まる。区に紹介された自立支援施設に入居した。施設側には生活保護費の管理も委託することになっていた。しかし住宅の家賃は、ベニヤ板で仕切られた2畳ほどの個室に対して53,700円、ビッグ・イシューの販売などで施設で食事が取れないにもかかわらず、食費や光熱費などで5万円以上引かれ、最後に手元に残るのはわずか7,000円ほど。明らかな貧困ビジネス住宅であった。その後、保証人の代理をしてくれるNPOなどの支援を受け、アパートに入居。知人の紹介で六本木のバーでの仕事に就いたものの、バーが摘発を受けるなど、なかなか生活が落ち着かなかった。

アパート入居後も、生活苦のため電気を止められてしまった後藤さんの部屋
アパート入居後も、生活苦のため電気を止められてしまった後藤さんの部屋

 

問題1 ハローワークでの問題

実際に職を得る上で、採用が決定すれば当然それを知らせる手段が必要となる。住所や携帯電話の連絡先がなければやはり職を得るのは難しい。ホームレス生活から脱するためには、まず最初に職を得ることが必要に思われるが、じつは住居の確保が最初に突破しなければならない問題なのだ。しかし役所の窓口に行くと、後藤さんのように話をとりあってもらえない、たらい回しにされるなどのケースが後を絶たなかった。こうしたなかでやがてハローワークに通うことをやめ、先のように統計に表れない失業者となってしまうことも少なくない。

問題2 生活保護の申請

生活保護を受けられる基準を満たしている者のうち、実際に生活保護が受けられている人の割合は、およそ2割程度とされている。住む家がなく住民票を取れないときは、最寄りの福祉事務所に申請することになっている。法律上、居住地がない人や居住地が明らかでない人に対する生活保護は、その人の現在の居場所を担当する福祉事務所が窓口となって実施することになっている。(生活保護法19条)

賃貸アパート等への入居の際の敷金も保護費から支給されるほか、保護施設で保護を受けられることもある。「住所がないから生活保護を受けられません」というのは明らかな違法行為となる。後藤さんのように自治体窓口で保護の申し出を拒否されたうち、60%近くが自治体の対応に生活保護法違反の可能性があったと日本弁護士連合会が指摘した。

問題3 貧困ビジネス

職を得る上で、あるいは生活保護を受ける上で住居の問題が大きな壁となってくるのは先に述べた通りである。例えば敷金・礼金0という謳い文句の「ゼロゼロ物件」は利用できないのか? そこには思わぬ落とし穴がある。こうした物件は一日でも家賃を収めるのが遅れた場合、高額な違約金を請求されたり、突然、荷物ごと追い出されてしまうケースも取材中見受けられた。現行の「借地借家法」では、このような数日の家賃滞納では賃貸を解約されず、借主は保護されている。しかしこうしたゼロゼロ物件では、契約書が「借地借家法」の適用される賃貸契約ではなく、「施設付鍵利用契約書」となっていることが少なくないのだ。

また後藤さんのように自立支援住宅でのトラブルも後を絶たない。生活困窮者に無料か低額で居室を提供し、自立を促す民間施設が近年、多く登場するようになった。社会福祉法で第2種社会福祉事業に位置づけられ、特別な資格がない任意団体や個人でも開設できる。後藤さんのケースの場合、さらにこの自立支援住宅が都の認可を受けたNPO法人だったことにも問題がある。

問題4 貧困の連鎖

若者ホームレスの多くが、親の庇護を受けられない状態にあると言われている。後藤さんは母親の生活が苦しく施設で育ち、高校を卒業して就職後母親が他界している。貧困家庭で育つ→学歴が低い→就業機会が低いという連鎖が生まれてしまうのだ。例として大阪府堺市では、生活保護受給世帯の25%は、育った家庭も生活保護を受けていたとの調査結果を出している。

ここまで貧困の現状を伝えてきたが、取り組みとして興味深いものをここで一つご紹介したい。

 

取り組みとして

2009年9月6日、サッカーの本場であるイタリア・ミラノ市で、一風変わった大会が幕を開けた。世界48カ国から500人の選手が集まったストリートサッカーの世界大会。そんな華やかな舞台の参加者全員がホームレスなのである。

「ホームレス・ワールドカップ」と呼ばれるこの大会は、2003年のオーストリア大会を皮切りに、年に1度開催されており、ミラノ大会で第7回目であった。ホームレスの自立を支援しているストリートマジン『ビッグ・イシュー・スコットランド』の共同創設者であるメル・ヤング氏(57)が大会組織委員長をつとめ、年々規模を拡大してきた。

大会には企業や一般寄付の他、セリエAのACミランやインテルも支援に名乗りを上げ、集められた資金は50万ユーロにも及んだ。欧州サッカー連盟やミラノ市も巻き込んでの大々的な開催となった。 参加資格は現在ホームレス状態である者、または1年以内にホームレス経験のある者をはじめ、難民として職が得られない者、ホームレス経験の後にアルコールやドラッグ依存症の更正プログラムを受けている者などさまざまである。年齢や性別の制限はとくに設けられていないため、女性選手や10代の選手も多く見受けられた。「ホームレス」と一言に言っても、バックグラウンドは国によってそのあり方も異なる。

「サッカーはとてもシンプルなスポーツです。年齢や性別に関係なく、貧しい国でも豊かな国でも受け入れられるのです。」メル氏は数あるスポーツのなかでサッカーが選ばれた理由をこう語った。その言葉通り、会場となったセンピオーネ公園では、普段の路上生活からの開放感に加え、サッカーという世界共通語が文化を異にする選手たちに熱気に満ちた連帯感を生み出していた。

大会の趣旨は貧困問題の世界へのアピール、そして何より参加者の自立支援である。そのため選手たちがこの大会に参加できるのは1度だけ。次の年には何らかのかたちでの自立が求められているのだ。実際にホームレス・ワールドカップ出場選手のうち、7割以上が社会復帰を果たしていると大会側は表明している。

ホームレスW杯ミラノ大会、女性選手の姿も
ホームレスW杯ミラノ大会、女性選手の姿も

日本代表「野武士ジャパン」がこの大会に初めて参加したのは、2004年のスウェーデン大会のことだった。チームを組織しているのは『ビッグ・イシュー・ジャパン』。野武士ジャパンのメンバーもその販売者のなかから選ばれている。結果は28カ国中26位と振るわなかったものの、スウェーデン大会後、参加した8人のうち7人がビル管理や飲食店などの職や住居を得ている。

しかしなぜ、直接ホームレスの生活支援ではなく、サッカーの世界大会というかたちに力を入れているのだろうか。「自立とは必ずしも物や場所、お金を与えてすぐに達成できるものではありません」。そう語るのは野武士ジャパンを指揮する「ビッグ・イシュー・ジャパン」東京事務所副代表(大会当時)、服部広隆さん(30)だ。

「たとえ生活保護を受けられたとしても、自立に結びつかない場合が多々あります。それは何より希望が持てず、人生を否定してしまうことが原因なんです」。ホームレスとしての生活が長くつづき、孤立した状態に置かれる時間が長いほどに、コミュニケーション能力などの社会復帰能力や自尊心も薄れていく。そんななかで見出された目標が高ければ高いほど、遠くまで飛ぶことができる。世界大会をひとつの大きな目標にしようと、ミラノ大会も参加に踏み切った。

ミラノ大会での「野武士ジャパン」はスウェーデン大会から5年ぶり、2回目の出場であった。選手の平均年齢41歳、2003年に出場したチームよりも10歳以上も若く、最年少は22歳の選手。ホームレスの若年化がチーム内だけでも伺える。

出場選手が決まっても、大会までの道のりは決して平坦ではなかった。ほとんどのメンバーに海外経験はなく、第一の難関はパスポートの申請であった。ドヤにしばらく寝泊りをして住民票を取った者もいれば、実家に頭を下げに行った者もいる。大会直前にようやく全員渡航の手筈が整った。

8日間の試合を終え、結果はカザフスタンとコートジボワールの失格で2試合が不戦勝となり、2勝11敗、最終順位は48カ国中46位となった。それでも日本チームは、果敢な姿勢が評価され、「ファイト・スピリット賞」が贈られた。「自立に向けてもし、諦めたくなることがあったら、ミラノで乗り越えたことの数々を思い出してほしい」。選手たちの背中を押してきたスタッフたち、ボランティアたちが、大会の最後に選手たちに語りかけた。帰国後、それぞれがビッグ・イシューの販売継続や就職、アパート入居など、少しずつではあるが自立への道をたどり始めていた。彼らの本当の“闘い”は、日本が舞台なのだ。その後、野武士ジャパンは2011年のパリ大会にも出場を果たしている。

取材のなかで、改めて自分自身のことを振り返ってみた。母は貯金を切り崩しながら、不定期な派遣のバイトで食いつないでくれた。母自身の知識、そして学校の教師の知識の助けもあり、わたし自身は奨学金や学費免除などを受けながら、大学を無事、卒業することができた。しかしそもそもこの奨学金や学費免除の知識が届かず、進学を諦めてきた同世代にも多く出会ってきた。この「情報社会」にあっても、自身の生活で手一杯ななかでは、自力で情報を“探す”労力さえ割けないことがあるのだ。

よく「自己責任」という言葉を耳にする。しかしその背後に隠された、自己責任だけでは片付けられない幾重もの問題には、なかなか光が当たらない。「働けるだろ」と生活保護を申請させてもらえない、就職に年齢制限がある、住所がなければ職が得られない、そして彼らを待ち受けている貧困ビジネス。そんな生活のなかで失われていく希望と意欲。

ホームレス・ワールドカップは選手たちに飛躍のきっかけを与えた。そして同時に、この隠された問題にも光を当てた。わたしたちが目を向けていかなければならないのは大会そのものではなく、この大会を通して見えてくる現実の方だと強く感じた。世間ではほとんど注目されることがなかった、自力では這い上がることが難しい社会の構造。未来を考えるなかでわたしたちの「関心」がいまこそ、求められているのではないだろうか。

野武士ジャパンメンバーと、最年少カンボジアチーム。親子以上の年の差だ
野武士ジャパンメンバーと、最年少カンボジアチーム。親子以上の年の差だ

プロフィール

安田菜津紀フォトジャーナリスト

studio AFTERMODE 所属/フォトジャーナリスト。上智大学卒。2003年8月、「国境なき子どもたち」の友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。2006年、写真と出会ったことを機に、カンボジアを中心に各地の取材を始める。現在、東南アジアの貧困問題や、中東の難民問題などを中心に取材を進める。2008年7月、青年版国民栄誉賞「人間力大賞」会頭特別賞を受賞。2009年、日本ドキュメンタリー写真ユースコンテスト大賞受賞。共著『アジア×カメラ「正解」のない旅へ』。

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