社会運動は「戸惑って」いるのか? あるいは、「失われたもの」をどのように取り戻すのか?

【シノドスに参加しよう!】

▶メールマガジン「αシノドス」

 https://synodos.jp/a-synodos

▶セミナー「シノドス・サークル」

 https://synodos.jp/article/20937

▶ファンクラブ「シノドス・ソーシャル」

 https://camp-fire.jp/projects/view/14015

本書への疑問または論点

 

しかしながら、本書全体を通じて評者が持ったものは、むしろ疑問、そして「戸惑い」であった。この本のタイトルは、『社会運動の戸惑い』である。しかし、評者には、筆者たち自身は実はそれほど「戸惑い」を持っていないのではないかと思われた。

 

むしろ、筆者たちは、2000年代の男女共同参画政策とフェミニズム運動のあり方のどこが問題なのかについて、かなり明確な認識を持っている。そして、その認識の持ち方こそが、評者には「戸惑い」をもたらすようなものであった。

 

以下、本書に関する疑問点をあげ、それに関する検討を行うことで、評者自身の「戸惑い」の中身をできるだけ明らかにすることにしたい。

 

(1)記述の方法をめぐって

 

第一の疑問は、本書の記述の方法に関する問題である。

 

「まえがき」において、本書は「エスノグラフィー(文化の記述)」としてまとめられたものであることが述べられている(i頁)。エスノグラフィーであるということは、本書が「フェミニズムと保守系反フェミニズムとの係争」(i頁)について、できるだけ丁寧な「具体像」「現実」(341頁)を提供することを目指しているということを意味している。

 

もっとも、実際には、章によって濃淡の差はあるものの、本書の記述には、フィールドワークに基づく記述だけではなく、著者たちの2000年代フェミニズムに対する価値判断が比較的はっきりと表れている。しかしながら、本書がフィールドワークに基づく記述を謳うのであれば、その記述をもう少しフィールドワークで得られた知見に止めるべきではなかっただろうか。というのは、このような著者たちの記述スタイルが、かえって「具体像」「現実」を記述から読み取ることの妨げになっているように思われるからである。以下、もう少し具体的に述べよう。

 

本書の記述スタイルは、フィールドワークや文献調査に基づく記述の中に、しばしば「上から」「外部から」への、あるいは「啓発事業」中心の男女共同参画への著者たち自身の批判的な評価を差し挟むものとなっている。

 

たとえば、第2章における大泉山口県副知事についての記述を見てみよう。著者たちは、広重宇部市議の大泉氏に対する「はっきりいって許せない」という評価を紹介している(64頁)。ここで広重氏が大泉氏のことを「許せない」理由は、大泉氏が「外部」から来たからではなく、広重氏が「大泉副知事の発言のデータを集め」と書かれていることからして、副知事の「破壊的フェミニズム」(と広重氏には思えるもの)に求められるのではないかと思われる。著者たちも、そのことを必ずしも否定しているわけではないだろう。

 

しかし同時に、広重氏の反応に関する記述の中に、大泉氏のキャリアが「地元軽視の印象を与えた面もあっただろう」(64頁)という文章も差し挟まれている。ここで著者たちは、大泉氏に対する批判や反感が、そのフェミニズムの立場に由来するものだけではなく、中央から、外部からの人物であることにも由来することをも示唆しようとしているように思われる。しかし、少なくともこの箇所では、このことは調査結果によって論証されているわけではない。そうではなく、観察や聞き取りに基づく記述の中に、著者たちの評価的な立場が、差し挟まれているのである。

 

別の事例として、第5章のユー・アイふくいの図書をめぐる紛争を見てみよう。この章で著者たちは、フェミニズム側について、「著者の権利」からの運動に終始し「一点突破」で「現場主義に徹しきれない」とする一方で、「アンチフェミニズム」側を、「地道な活動」、「仲間達の信頼を得ながら行うという点で草の根的」と評価している(243頁)。

 

しかし、フェミニズム側には、地元の人々の関与は全くなかったのだろうか。本書では、支援者の多い東京で集会が行われるようになったことなどが書かれているが、このことは、たとえ相対的には少ないとしても地元に支援者がいなかったことを否定するものではない。他方、「アンチフェミニズム」側の「仲間達」として本書で具体的に示されているのも、男女共同参画推進員の数名だけである。そうだとすれば、それぞれの運動について、「現場主義に徹しきれない」とか、「地道な活動」「草の根的」などと評価できるかどうかについて、もう少し慎重な吟味が必要であるように思われる。

 

さらに、第7章では、たとえば1990年代以降のフェミニズムに関する書籍刊行の増加について、それが「学術フェミニズムの制度化」を進める一方で、フェミニズムを「市井の人には簡単にはわからないものと位置づけられる機能も果たしていった」と書かれている(286-287頁)。

 

しかし、学問と「市井」とをこのように相反するものとすることは、厳密な意味での「記述」というよりは、一つの立場に基づく判断であると考えられる。実際、そのすぐ次の段落には、メディアへのフェミニストの進出について述べられており、このような「事実」を、90年代を、学術的深化と「市井」への進出の両方向でのフェミニズムの展開と解釈することも可能であろう。

 

総じて言えば、「保守系反フェミニズム」について扱った前半(2、3、4章)は比較的記述に徹しているが、後半(6章、7章)は、フェミニズム批判という著者たちのスタンスが比較的はっきりと出ているという印象を持つ(5章はその中間)。つまり、後半は、「具体像」「現実」を明らかにするというよりも、「批判」の方が強く出ているのである。

 

もっとも、本書のこのような特徴をどう評価するかについては、二つの考え方があるだろう。一つは、この本は2000年代のフェミニズム批判の目的で書かれているのだから、そのようなスタンスが強く出ているのは当然だ、というものである。もう一つは、著者たちがエスノグラフィーやフィールドワークを謳っているのだとすれば、本書の内容も調査に基づいた記述に限定するべきではなかったか、というものである。

 

運動論的に見れば、前者の評価の方が妥当ということになる。しかし、学術的に見れば、後者の評価の方が妥当ということになる。学術研究として見た場合、著者たちの2000年代フェミニズムに対する批判意識は、後半においても、もう少し記述そのものに語らせる形で表現されるべきだったということになるだろう。

 

「あとがき」を読む限り、著者たちには、本書をどのような性格の本にするかについて「戸惑い」があったようである。そのことが、調査に基づく記述と価値判断との混合文体をもたらしたのかもしれない。とはいえ、学術書として見る限りでは、そのような記述スタイルは批判の対象となり得るのである。

 

 

1 2 3 4 5 6
シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

・畠山勝太「こうすれば日本の教育はよくなる」
・穂鷹知美「マスメディアの将来――マスメディアを擁護するヨーロッパの三つの動きから考える」
・大賀祐樹「リチャード・ローティ」
・西山隆行「学び直しの5冊〈アメリカ〉」
・知念渉「「ヤンチャな子ら」とエスノグラフィー」
・桜井啓太「「子育て罰」を受ける国、日本のひとり親と貧困」
・鈴木崇弘「自民党シンクタンク史(8)――「シンクタンク2005年・日本」第一安倍政権成立」