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(2)「ジェンダー・フリー」はどこまで「誤読」されたのか?

 

第二の疑問は、「ジェンダー・フリー」の「誤読」という著者たちの理解についてである。著者たちは第一章で、「ジェンダー・フリー」の概念が、その概念に言及したバーバラ・ヒューストンの議論の誤解に基づいていると述べている。

 

たとえば著者たちは、ジェンダー・フリー概念を紹介した東京女性財団の文書における、「我々が用いる意味は、〔ジェンダー・フリーの意味のうち〕第三のジェンダー・バイアスからの自由に近いだろう」とか、ヒューストンは「ジェンダー・センシティブという用語のほうにコミットしているが、それはジェンダー・フリーの戦略上の観点からである」といった言明について、「完全なる誤読」であると断じる。なぜなら、ヒューストンは、「ジェンダー・フリーは平等教育には不適切なアプローチだと批判し、ジェンダーに敏感になることを意味するジェンダー・センシティブの重要さ」を訴えているからである(8-9頁)。

 

しかしながら、「完全なる誤読」とまで言えるかどうかは、疑問である。まず、少々長いが、ヒューストンの論文から以下の箇所を参照してみたい。

 

 

「ジェンダー・フリー」の第三の意味は、ジェンダー・バイアスからの自由というものである。この理解では、ジェンダー・フリー教育とは、ジェンダー・バイアスを除去したものとなろう。〔改行〕この最後のもっとも弱い意味では、私たちは誰もがジェンダー・フリー教育に賛成すると言い得るだろう。性差を誤って理解し、教育におけるジェンダーの役割を不適切に正当化する伝統主義者たちでさえ、教育におけるジェンダーの差異がジェンダー「バイアス」の構成を意味するわけではないと論じることであろう。したがって、「公教育はジェンダー・フリーであるべきか」という問いの興味深い解釈は、「公教育はジェンダー・バイアスから自由であるべきか」では「ない」。この問いは争点ではない。あらゆる立場の人々が、少なくともレトリックとしては、公教育はジェンダー・バイアスから自由であるべきことについてすでに同意しているからである。問題はむしろ、このジェンダー・バイアスからの自由を達成するための最善の方法とは何かである。ジェンダーを無視したりジェンダーの差異を消し去ることを企てるべきなのか、それとも、何らかのやり方でジェンダーにきちんと注目していくべきなのか。(Houston 1985: 359-360)

 

 

ここでヒューストンは、「公教育はジェンダー・フリーであるべきか」という問いは興味深いものではないと述べている。しかし、その理由は、ジェンダー・バイアスの除去という意味での「ジェンダー・フリー」には誰もが同意しており、その限りで争いの余地がないから、というものである。つまり、問いとして興味深くないとしても、だからといって、「ジェンダー・フリー」が間違っていると述べられているわけではない。

 

もっとも、この「誰もが同意」の部分は、伝統主義者たちでさえそのように言うとされていることからして、やや皮肉が込められていると解釈することもできそうである。では、次の箇所はどうだろうか。

 

たしかに、ジェンダー・バイアスをなくすという意味で「ジェンダー・フリー」をとらえるならば、私たちはみな、教育はジェンダー・フリーであるべきだと考えています・しかしながら、「ジェンダー・フリー」という言葉は、ジェンダーを解消したり、組織的かつ意図的にジェンダーを無視するという別の意味も持っています。そのために私は、ジェンダー・バイアスまたは性差別をなくすために、故意に、また組織的にジェンダーを無視したり、ジェンダーを除去しようとする方針に対して、強く反対する立場に立ち、議論したというわけです。(ヒューストン: 2006: 241)

 

「ジェンダー・フリー」の特定の意味については問題視されているものの、「ジェンダー・バイアスをなくす」という意味での「ジェンダー・フリー」について、ヒューストンが完全に否定しているわけではないことがわかる。

 

最後に、著者たちの一人の山口が行ったインタビューにおける、以下の発言も参照しておこう。

 

 

ですから、ジェンダーに注意をはらうべきなのか、無視すべきなのかは、大きな議論の余地があるということなのです。(日本の)「ジェンダー・フリー」の表現としては、”freedom from gender bias”のほうがいいですね。何をしようとしているのか、完全に明確になるから。〔改行〕それを達成するためになにをしなくてはいけないかというのは、つねにオープンな、議論の必要がある問題なわけです。そして、これこそがジェンダー・センシティブという概念の価値なのです。(マーティン/ヒューストン 2006: 213)

 

 

評者の理解では、「それを達成するために」の「それ」は、「ジェンダー・バイアスからの自由」という意味での「ジェンダー・フリー」である。たしかにヒューストンは、「バイアス」をなくすためには個々の具体的な状況におけるジェンダーを見るべきであり、そのことを言い表すためには「ジェンダー・センシティブ」の用語の方がより適切だと考えている。別の論文の言葉を用いれば、「ジェンダー・センシティブ」は「移行期の問題」(Houston 1985: 368)を扱うものである。

 

しかし、だからといってヒューストンが、達成されるべきものとしての「ジェンダー・フリー」を否定しているわけではない。そうだとすれば、先の東京女性財団の報告書における「ジェンダー・フリー」理解も、ヒューストン自身の言っていることとそれほど隔たってはいないように思われる。「ジェンダー・フリー」概念が「誤読」されたとまで言い切ることができるだろうか。

 

もっとも、著者たちが「ジェンダー・フリー」概念の使用を批判する理由は、以上のような意味での「誤読」だけに求められるわけではない。その他に、次の三つの理由が存在する。第一に、この用語が「個人の意識レベル」に焦点を当てており、このことが啓発事業中心の男女共同参画につながるとともに、保守派の批判を招きやすくしたと考えられることである。第二に、そもそも「ジェンダー」概念や「ジェンダー・バイアスをなくす」という考え方自体が疑わしく思われることである。第三に、いずれにしろ、「わかりにくい」ということである。

 

第一の啓発事業について、その何が問題であるのかについて、実は著者たちは、本書でそれほど多くのページを割いて論じているわけではない。しかし、ある箇所から、著者たちが意識啓発では「制度の変革」を射程に入れることができないと考えていることがわかる(4頁)。著者たちは、意識や「通念」(17頁)に焦点を当てることと、「実践や構造」に焦点を当てることとを相反することと捉えているようである。

 

しかし、これはやや単純化された理解ではないだろうか。たとえば、著者たちは本書で、大沢真理の「ジェンダー」と「男女共同参画」理解は「意識啓発路線に合致している」と述べている(17-18頁)。しかし、著者の一人の山口の別の論文では、「大沢は『ジェンダー・フリー』を、実質上は『政策面でのジェンダー・バイアスをなくす』という意味でとらえて」おり、これは「心と意識の問題」とは異なるとも述べられている(山口 2006: 261)。

 

そうだとすると、大沢は「社会的文化的に作られた性」についての「通念」として「ジェンダー」に注目することを通じて制度を変えていくことを考えているということになる。「通念」を問題にすることは必ずしも制度変化を無視することにはならないのである。

 

さらに言えば、ジェンダー研究において、「ジェンダー」は個人の「意識」だけの問題として捉えられているわけでも、諸個人の「意識」と社会的な「通念」とが同じものとして理解されているわけでもない。

 

社会学者の江原由美子は、ジェンダーについて、次の三つの意味を持つ「非つねに多義的な概念」だとしている。第一に、社会文化的に形成された「男らしさ」「女らしさ」などの性別特徴あるいは「性別」アイデンティティの意味である。第二に、社会通念の中に分けもたれた「男らしさ」「女らしさ」などについての観念や言説の意味である。私たちが第一の意味での性別特徴・アイデンティティを知覚するのは、知覚そのものとは区別された社会通念や言説の効果とされる。第三に、男女間の社会関係を「権力関係」という視点から把握する研究上の視点という意味である。第二の意味での社会通念や言説は、それに接する男女に「異なる権利と義務」を課す。第三の意味でのジェンダーは、ここに、権力現象あるいは「支配」を見出す視点を指す(江原2001: 59)。

 

江原のジェンダー理解は、次の意義を持つと考えられる。第一に、「知覚」や「意識」の次元と「通念」や「言説」の次元とを区別することで、ジェンダーを論じることが単に意識を論じることなのではないということを明らかにしていることである。第二に、ジェンダー概念の多義性を踏まえつつ、それが「権力」や「支配」に関わるポイントを明確にしようとしていることである。

 

ただし、著者たちは江原の議論を取り上げているわけではないので、江原以外の論者の用法は「意識」に偏重していたのだと主張することもできる。しかし、著者の一人の山口は別の論文で、経済学者の大沢真理のジェンダー(フリー)の用法について、単純に意識の問題としてではなく、「政策面でのジェンダー・バイアスをなくす」ことを意味しており、「社会のあり方を見直そうといったような意味も込めているのだろうと思われる」と述べている(山口 2006: 261)。「ジェンダー(フリー)」の用語の使用が「意識偏重」だったのかどうかは、もう少し慎重に評価されるべきではないだろうか。

 

第二の理由について、問題著者の一人の山口は、別の論考(山口 2006: 258)で、「ジェンダー」は必ずしも「悪い」働きだけをするものではないと主張している。それは、共通のアイデンティティを作り、それに基づいた社会変革の動きをもたらすものだからである。「女としての連帯」は、「女」のアイデンティティを前提とするものとして、今日では論争的な問題であるかもしれないが、ここではその点は措いておこう。ここで指摘しておくべきことは、この場合の「ジェンダー」は、江原の定義では第一の意味に相当するものだろうということである。「ジェンダー」を批判的に見ようとする場合には、この意味での「ジェンダー」が問題にされているわけではない。

 

第三に、著者たちが「ジェンダー」を問題にする時には、この概念が「わかりにくい」ことも含まれている。ただでさえ研究者の間で定義が一致しない上に、外来語であることがわかりにくさに拍車をかけ、だからこそ批判のターゲットにされやすかったというわけである。この問題提起にはたしかに一理ある。というのは、上記の江原の議論からもわかるように、たしかに「ジェンダー」の用語は一義的な理解を許さないものだからである。

 

実際、著者たちが参照している大沢真理による次の著名な一節、すなわち、「『男女共同参画』は、”gender equality”をも超えて、ジェンダーそのものの解消を志向する」という一節も、今から見ると、「ジェンダー」の多義性を正確に反映したものではないように思われる。

 

つまり、「gender equality」と言う時の「ジェンダー」は端的に「男女」の意味であると思われるのに対して、「ジェンダーそのものの解消」と言う時の「ジェンダー」は、江原が定義したような意味での「ジェンダー」である。後者の「ジェンダーの解消」は前者の「男女の解消」ではない。しかし、このような用語の並べ方では、その前の文章で「社会的・文化的に形成された性別(ジェンダー)に縛られず」という一節があるにもかかわらず、批判者が「男女の解消」との解釈を導く余地があったと言えるだろう。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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