社会運動は「戸惑って」いるのか? あるいは、「失われたもの」をどのように取り戻すのか?

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(3)「トップダウン」は「失敗」を説明するか?

 

第三の疑問点は、果たして何が「失敗」を説明するのかという問題である。ここでまず断っておくべきことは、本書のフィールドワークに基づく記述は条例制定の成否の要因を説明することを目指しているわけではないということである。

 

しかしながら、著者たちが指摘する2000年代のフェミニズムの問題点の中には、条例の成否とまでは言わなくとも、条例に対する反発を強める要因と筆者たちが考えているであろうと推定されるものが、いくつか含まれている。とりわけ、「中央から地方へのトップダウン」(334頁)は、しばしば条例反対派にとって条例に反対する理由となっていたように記述されている。他方で、反対運動は、地元に根差した草の根的性格を持つものとして描き出されている。

 

しかし、「トップダウン」だから「バックラッシュ」が起こったと説明できるかどうかについては、なお検討の余地がある。たしかに、本書における宇部市(第2章)、千葉県(第3章)の事例は、「トップダウン」要因によって反対が強まった事例として読める。しかしながら、都城市(第4章)の事例は、明らかにこれらとは異なっている。都城の場合、中央や外部からの影響が比較的少なく、「下から」、地元内部での動きの中で制定された条例であったにもかかわらず、結局、市町村合併を契機に「改正」されたからである。

 

著者たちの理解では、都城市の事例から得られるのは、審議会方式の限界という問題である。しかし、審議会方式の限界は、宇部市や千葉県の事例でも指摘されている。だとすれば、主たる問題は「トップダウン」か否かではなく、(のちに述べる)地方政治における二元代表制という制度的特徴を踏まえた戦略の不十分性ということではないのだろうか。

 

また、著者たちによる「トップダウン」批判は、地域の実情を無視した画一的な条例策定への批判にも連動しているように思われる。しかし、著者たちの示す事例は、条例の内容が画一的でなければよかったとも言えない、ということを示唆しているように思われる。すなわち、都城市の条例は「性的指向」の文言を用いて、性的少数者の権利擁護の姿勢を明確にした「全国で初めての条例」であった(151-152頁)。

 

「性的指向」の文言は、男女共同参画社会基本法でも用いられていない。このような条例制定を、著者たちは、「歴史に残る意義があった」、「条例づくりを通じて市民の問題意識は培われ、実態調査も行われ、人びとのネットワークも強まった」と積極的に評価している(196頁)。しかし、この事例が同時に示唆しているのは、著者たちが指摘する「ジェンダー・フリー」などの用語の曖昧さや「トップダウン」といった要因がなくとも、保守運動から見て内容が何らかの意味で「過激」と映れば大きな問題になる、ということではないだろうか。

 

そもそも条例制定において、地元だけの議論でそれが実施されると考えることは難しい。それは、ある程度自治体間の相互参照によって形成されるという性質があるのではないだろうか(伊藤 2006)。実際、著者たちは、保守運動においても、宇部市の条例が「モデルとして全国の保守運動家たちに参照された」ことを指摘している(329頁)。条例制定の過程において「丁寧な語り合い」「地道に問題を拾い上げるプロセス」(333頁)が重要であることについては、評者も同意する。しかし、外部からの影響が必然的に「トップダウン」となってそれらを阻害するのかどうかは、一概には言えないのではないだろうか。

 

(4)「地域から」の課題

 

第四の疑問は、三点目と連関している。つまり、「地域」「足もと」に即した場合にどのようなことが考えられるのか、ということである。著者たちは、「外部から」「中央から」「上から」の男女共同参画のあり方を問題にしている。そのため、事例の記述においても、地元に根差していない行動に対する批判的な叙述が散見される。たとえば、都城市の事例では、尾辻かな子大阪府議の訪問について、「地元との連携が弱いままに外から声をあげ、やってくる運動の課題が明らかになった面もあった」と書かれている(191頁)。

 

しかしながら、評者には次のような疑問が残った。すなわち、それでは実際に「地域」「地元」に根差すと、どのような性差別是正の展望が見えているのだろうか、と。とりわけ、評者には、本書から見えてくるものはむしろ、「地域」「地元」には伝統的な男女観、社会観が根強く残っているということであるように思われた。

 

第5章の富山県における男女共同参画の取組についての記述では、ある「バックラッシュ派」の人物が男女共同参画推進員として作成した寸劇は、「高齢者を大事にしよう」「家庭は大切なもの」「親の介護は子供がするのは当然」「生活が苦しくても専業主婦としてしっかり子育てするのが立派な仕事」などの主張が盛り込まれたものであり、それは、高齢者の聴衆には「違和感のないものであったと思われる」と書かれている(211-212頁)。

 

「違和感のないもの」であったことは恐らくそうなのであろう。そこで問題は、このような「地域の聴衆」から出発して、どのように性差別の問題を訴えていくことができるのか、ということである。仮に「男女共同参画とはそのようなものではない」と言えば、それは、著者たちが2000年代男女共同参画及びそれを支えるフェミニズムの問題点の一つとして批判する、〈キヅカセ・オシエ・ソダテル〉活動になってしまうのではないだろうか。そのような「意識啓発」を回避するフェミニズムの活動は、「高齢者を大事にしよう」や「家庭は大切なもの」といった「地域」「地元」の人々の感覚と相反しない形で展開される必要があるのだろう。

 

その際に問題となり得るのは、フェミニズムの考える「性差別」が、果たしてそのような人々の考える「性差別」と一致するものであるのかどうか、という点である。そして、一致しない場合に、フェミニズムはどうするべきなのかということである。

 

たとえば、先の寸劇では、「夫の職場には女性の課長がおり、女性の活躍という男女共同参画のメッセージも、そつなくはいっていた」とある(211頁)。つまり、「公的領域」における男女平等について、保守派とフェミニズムは合意できる可能性があるということである。

 

しかし、フェミニズムは、「公的領域」における平等を妨げているのは、家族などの「私的領域」における男女間の役割分担だとも指摘してきた。フェミニズムにとっては私的領域において女性が主として家事・育児・介護などを担わなければならないことは、「性差別」の重要な構成要素または原因そのものである。

 

しかしながら、保守派活動家はもちろん、「地域」「地元」の人々にとってもそれが「性差別」であるかどうかはわからない。そうだとすれば、「キヅカセ・オシエ・ソダテル」を回避するフェミニズムは、取り組むべき課題を「公的領域」に限定するべき、ということになり得る。その時、フェミニズムは、自らの立場を限定することを求められるだろう。その「フェミニズム」が著者たちの考えるそれと合致するものであるかどうかは、疑問であるように思われる。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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