憎悪表現(ヘイト・スピーチ)の規制の合憲性をめぐる議論

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アメリカの状況

 

日本でも近年耳にすることが増えた「ヘイト・スピーチ(hate speech)」という語は、アメリカから輸入された用語である。アメリカにおいて、「ヘイト・スピーチ」という用語が一般的に用いられるようになったのは1980年代後半以降である。

 

この時期、人種や性別をめぐる差別や偏見の解消のための効果的な対策が模索され、とくに大学のキャンパスにおける人種的・性的な嫌がらせ(ハラスメント)行為に対処するため、多くの大学が憎悪表現を含むハラスメント行為全般を規制する学則を採用するようになったことから、憎悪表現規制の合憲性及び妥当性をめぐる議論が一気に活発化した。そのような議論のなかで、「ヘイト・スピーチ」という用語が定着していったのである。

 

ヘイト・スピーチの規制をめぐる対立は、従来の表現規制をめぐる典型的なリベラル派と保守派との対立とは異なる様相を見せた。すなわち、従来繰り広げられてきたわいせつ表現、不道徳な表現、反国家的な表現の規制の合憲性をめぐる議論では、保守派が規制を認める姿勢を見せる一方で、リベラル派は一貫して表現規制を否定してきたのであるが、ヘイト・スピーチ規制をめぐる議論では、保守派(の一部)が規制に反対し、リベラル派(の一部)が規制に賛成するという構図を見せたのである。

 

とくに1980年以降のヘイト・スピーチ規制をめぐる議論は、有色人種や女性の積極登用を進めるアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)やハラスメント防止対策を中心とした「政治的な正しさ(Political Correctness)」を追求する流れと相まって推進され、リベラル派と保守派とのあいだでの社会的・政治的な論争を激化させた。

 

さらに、そのような対立にとどまらず、リベラル派内部においても規制肯定派(マイノリティの自由と権利を重視)と規制否定派(個人の表現の自由を重視)とが対立する様相を見せ、「リベラル派の分断」(Owen Fiss, “Liberalism Divided” (1996))と呼ばれる状態を生み出した。

 

そのような論争のつづくなか、1992年、アメリカ連邦最高裁は、RAV判決(R. A. V. v. City of St. Paul, 505 U.S. 377 (1992))において、憎悪表現規制は違憲であると判断した。RAV事件の争点となったミネソタ州セントポール市の「偏見を動機とした犯罪に関する条例」は、ある者のなした表現行為が人種、肌の色、信条、宗教、性にもとづく怒り、不安、憤りをもたらし、それが「喧嘩言葉」を構成する程度に至った場合に刑罰を科すというものであった。

 

*)なお、「喧嘩言葉」とは「言葉自体が侵害を与え、あるいは平和の破壊を即座に引き起こす傾向にある」表現を指し、連邦最高裁の先例のなかで、わいせつや名誉毀損と並んで表現規制が許されるとされた表現領域である。

 

連邦最高裁は、当該条例が人種等の不人気な題材(disfavored topics)に関する表現のみを喧嘩言葉のなかから選び出して規制していることを指摘し、当該条例は表現の内容にもとづく規制であると述べた。そして、連邦最高裁は、市の主張する規制利益(=歴史的に差別の対象となってきた集団に属する人々の基本的人権を保障すること)の重要性を認めつつも、当該利益を達成するために表現内容にもとづく規制を課す必要性を否定し、同条例は違憲であると述べた。

 

RAV判決によって、全米において憎悪表現の規制は不可能となったと理解され(*)、それまで憎悪規制を設けていた自治体や大学は規制を廃止した。しかし、憎悪表現規制を違憲と判断した連邦最高裁のRAV判決に対しては、規制合憲説の論者からさまざまな反論が寄せられている。規制合憲派の主張は多岐にわたるが、まずは、合憲派の主張するところの「憎悪表現のもたらす害悪」を紹介したい。ここで紹介する害悪は、被害者個人に及ぶ害悪と、社会全般に及ぶ害悪とに大別できる。

 

*)2003年の連邦最高裁のブラック判決では、脅迫に該当する「十字架を燃やす行為」を規制する州法を合憲としている。十字架を燃やす行為は、白人優越主義集団KKKが黒人を威嚇・迫害するために用いた表現行為であり、アメリカにおいては今日でもとくに強烈な威嚇的・迫害的なメッセージを発するものとされる。さらに、連邦最高裁は、人種・宗教的な憎悪を動機とする「犯罪」を罰する際に刑を加重すること(憎悪犯罪刑罰加重規定、hate crime法)は合憲であると判断している。

 

第一に、憎悪表現が伝達するメッセージは、差別意識の残る米国社会において、その被害者に劣等感を植えつけ、精神面に重大な影響を与えるのみならず、自己表現の権利を行使することを躊躇させるなど、被害者の自由な行動を抑制する効果をもつと言われる。つまり、憎悪表現は、被害者の尊厳を傷つけるとともに、被害者の自律的な自己決定を妨げるものであると言われる。

 

さらに、憎悪表現は、被害者側の表現活動の自由を抑制する効果を生み出すと言われる。そのため、憎悪表現の被害者に「言論には言論で対抗せよ」という原則(=「対抗言論」の原則)を強いるのは不適当であると言われる。つまり、憎悪表現に関しては、表現発信者に対して被害者がまともに反論をすることができる可能性は低いのであり、現実には多くの被害者は沈黙を強いられ、表現発信の機会を奪われていると言うのである。

 

第二に、憎悪表現の発信は、被害者個人に被害をもたらすにとどまらず、社会全体の憲法上の理念を損なう結果をもたらすと言われる。まず、憎悪表現の「発信」の自由を保障することは、社会全体における表現の自由の保障そのものを後退、または縮小させることにつながると言われる。つまり、憎悪表現の発信の自由を保障することによって、将来的に憎悪思想の蔓延した社会が到来する可能性が指摘される。

 

先に述べたとおり、憎悪表現に関しては「対抗言論の原則」が想定している「(憎悪表現を受けた側からの)反論」が実際になされる可能性が低いため、その結果として、社会には憎悪表現(およびその思想)のみが流通することになり、憎悪表現に対する反論は流通しない。さらに、憎悪表現は、連鎖的に周囲の者を感化して憎悪表現の蔓延を促進させる可能性が高く、長期的には社会全体の人々の偏見や憎悪を増進することとなり、社会の理性のレベルを下げる傾向にある。

 

こうして憎悪や偏見の思想が社会に充満してしまうという段階に達してしまった場合、もはや憎悪表現に対する反論を発信しようにも、偏見や憎悪の思想を理性的に論破することはきわめて困難であるし、そもそも偏見や憎悪の対象者である被害者の意見は軽んじられる可能性も高い。そして、このように社会に憎悪表現が蔓延するということは、民主主義の過程に偏見や憎悪の思想が浸透するという事態をもたらすのみならず、公共の議論に被害者側の観点が登場しないという事態をもたらす。このような影響を考慮すると、憎悪表現に関しては、積極的に(善良なる)政府が介入をして規制を試みる必要があると主張される。

 

憎悪表現の害悪はこのように説明されるのであるが、もちろん、憎悪表現の害悪の重大さの程度は、個々の憎悪表現の内容、性質、状況、あるいは、その受け手の立場、性質、状況などによって異なる。そこで、規制合憲説は、規制可能な憎悪表現の範囲を厳格に確定することで、表現の自由の侵害を避けようと試みる。そして、厳格に定義された憎悪表現については、喧嘩言葉や脅迫など既存の原則のもとで、あるいは新規の規定を設けることで規制することが可能であると主張するのである。

 

もっとも、このような規制肯定派の見解に対して、規制否定派からは、それでもなお表現内容規制は避けるべきであるという主張がなされる。つまり、憎悪表現の害悪がいかにひどいものであろうとも、特定の内容の表現(つまり憎悪表現)を「悪い表現」であると政府が認定して、そのような表現の発信を禁止するということは、表現の自由の保障の中核にある表現内容規制の禁止という考え方に根本的に反するゆえ、許されないというのである。

 

このような指摘に対し、規制合憲派は次のような反論を展開する。まず、憎悪表現のもたらす害悪は、わいせつ表現や脅迫表現の害悪とは異なり、法的に認識されるようになってから間もないため、それを規制すべきか否かをめぐる社会のコンセンサスが得られないために、その規制が許容されないのだという主張がある。

 

また、憎悪表現の害悪は深刻かつ重大であるにもかかわらず、社会の多数派にはその害悪が及ばないがゆえに、わいせつ表現などのように多数派にも害悪が及びうるものと比較して、害悪の重大さが理解されにくいという指摘もある。この点につき、1960年代以降の国際社会では人種や宗教を原因とした憎悪にもとづく思想の流布や人種差別の煽動などを法的に規制すべきとする見解が主流であって、人種差別撤廃条約などでも差別表現の国内規制が義務化されているという主張もなされる。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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