2013.10.07

「体罰は許されない」では解決しない理由

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #体罰#いじめ#スポーツ#桜宮高校

昨年、大阪の高校で起きた、運動部顧問教師による体罰を苦にした生徒の自殺事件をきっかけに、学校などスポーツ指導の場における体罰が問題となっている。件の教師には先日、傷害と暴行の罪で、執行猶予付きではあるが有罪判決が下された。

判決が出たことで、この件については1つの区切りがついたわけだが、もちろん失われた命が戻るわけではないし、体罰問題全般が解決したわけでもない。スポーツ指導の場での体罰自体は今に始まった話ではないが、本件は自殺という取り返しのつかない結果になってしまったことと、折からいじめ問題やスポーツ界の諸問題がクローズアップされていたというタイミングが重なったせいもあってか、いつもより大きな社会的関心を呼んだ。せめてこの問題について真剣に考える機会とすべきだろう。

・「桜宮高の体罰自殺、元顧問に有罪 大阪地裁判決」(日本経済新聞2013年9月26日)

http://www.nikkei.com/article/DGXNASHC2600Y_W3A920C1000000/

 

昨年12月に自殺した大阪市立桜宮高校バスケットボール部主将の男子生徒(当時17)に暴行を加えたとして、傷害と暴行の罪に問われた部顧問だった元教諭、小村基被告(47)=懲戒免職=の判決公判で、大阪地裁(小野寺健太裁判官)は26日、懲役1年、執行猶予3年(求刑懲役1年)を言い渡した。

気になる風潮

いうまでもなく、教育の場における体罰はいけない。もともと他人に対して暴力をふるうことは犯罪だ。学校での体罰も法律で禁止されているし、何が体罰にあたるのかについてのガイドラインも定められている。さまざまな弊害があることも知られている。スポーツの場においても同じだ。

・学校教育法第11条(昭和22年4月1日施行)

校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

・児童懲戒権の限界について((昭和23年12月22日付法務庁法務調査意見長官回答))

http://www.jinken-library.jp/search_detail/55677.html

・学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方(文部科学省通知平成19年2月5日)

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm#a01

・運動部活動での指導のガイドラインについて(文部科学省 2013年5月27日)

http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1335529.htm

・「『部活の体罰でPTSD』 中学生、宇都宮市などを提訴」(朝日新聞2013年10月03日)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201310030219.html

生徒は昨年3月8日朝、バレーボール部の練習中、注意を無視したなどとして、教諭に胸ぐらをつかまれ、投げ倒されるなどした。その後、生徒は校内で教諭とすれ違うと体調が悪くなり、学校を早退、欠席することもあった。PTSDと診断され、現在も通院治療を続けている。

私は現在教員という立場にあるが、仕事の場で(もちろん家庭でも)体罰を行ったことはないし行うつもりもない。世の中には「体罰の会」なる団体があるようで、上記の学校教育法第11条但書の削除を主張しているらしいが、それには賛同できない。メディアの中にも、信頼関係があれば体罰も有効と主張する人が一部いるようだが、問題として表面化しているのは信頼関係がなかったケースであるから、もとより主張として無意味だ。

・体罰の会 趣意書

http://taibatsu.com/

体罰とは、進歩を目的とした有形力の行使です。体罰は教育です。それは、礼儀作法を身につけさせるための躾や、技芸、武術、学問を向上させて心身を鍛錬することなどと同様に、教育上の進歩を実現するにおいて必要不可欠なものなのです。

・「一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる」(産経新聞2013年1月27日)

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/other/625375/

教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。その場合、体罰はむしろ有効である。だから、体罰の全否定には反対である。

それらを前提としての話だが、このところの一連の流れには、懸念を感じている。

「このところの一連の流れ」というのは、体罰をおよそ人にあるまじき極悪非道のふるまいであると頭から断じ、そんなことをする指導者は問答無用で即刻教育やスポーツ指導の現場から追放せよ、犯罪者として処罰せよ、といった過激な主張を展開する人たちが次々と出てくる状況だ。

体罰は悪くないといいたいのではない。しかし、このところの体罰をめぐる世間での議論のあり方はどんどん過激なものとなってきているようにみえて気になる。「何が何でも体罰は許されない」という問答無用の主張からスタートして、それに従わない「頭の古い」指導者を糾弾することばかりに注目が集まり、より厳しい態度や過激な表現であればあるほど偉いかのような風潮すらみてとれる。

・「生徒諸君、体罰教師を現行犯逮捕しなさい。」(BLOGOS2013年1月15日)

http://blogos.com/article/54004/

犯罪である以上、生徒が現行犯逮捕すればよい。それが体罰を根絶する最も有効な方法なのに、大人は誰もそう言わない。なぜだろう。

体罰を否定しない人々

繰り返すが、体罰がいいといっているのではない。しかし重要なことは、上で紹介した体罰肯定論者ほどはっきりはしていなくとも、体罰を必ずしも絶対悪とは見ず、スポーツ指導の手段として有効な場合がある、とする考え方には一定の支持が今でもあるということだ。おそらくは全面的容認というより、限定的容認論ないし必要悪論といったものなのだろうが、このような考えの人たちは、選手や指導者の中に、かなりの割合で存在する。

・「体罰、運動部員6割容認 3大学に朝日新聞社アンケート」(朝日新聞2013年5月12日)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201305110382.html

体罰の影響(複数回答可)は「気持ちが引き締まった」(60%)「指導者が本当に自分のことを考えていると感じた」(46%)などの肯定的なものが、「指導者自身が勝ちたいという気持ちで体罰をしてきたと感じた」(20%)「指導者の目を気にして練習、試合をするようになった」(18%)などの否定的な影響を上回る傾向があった。

・「運動部活動における指導者のあり方-スポーツを通して自立する人間を育てる-」(読売新聞2013年2月12日)

http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/sports_130212.htm

漠然とした印象ではあるが、この10年間で「体罰を受けた」学生数は確実に少なくなっていた。しかし残念ながら、その数が0件であった年は一度もなかった。2012年度も調査を実施した結果、クラスの約2割の男女学生が「体罰を受けた」と回答した。その内容は、「試合中、ミスした」「ふざけていた」時に「叩か(ビンタさ)れた」、「土下座」「丸坊主に」させられた等であった。また、彼らに「その体罰をどのように受けとめましたか」と質問した結果、1名(「うざい」と思った)を除いて、ほとんどの学生が「自分が悪かった」「反省した」「次、頑張ろう!」「自分への悔しさ」等と指導者を否定するどころか、むしろ肯定的に受けとめていた。

・梅津迪子(2003)「成育過程の経験によって醸成される体罰観・暴力観の研究」(聖学院大学論叢第15巻第12号、p.31-44)

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000506490

指導者による暴力行為が多い種目は、団体競技の球技(バレーボール,バスケットボール)に集中している。体育大学に入学する学生の多くは、高校時代に各種目の強豪チームに所属していたか上位入賞校であることが多い。そこでは、指導者から要求された技術が「できないこと」、試合で「ミスをしたこと」や「負けたこと」などを理由に体罰が加えられたと回答している。

ところが、驚くべきことに、体罰を受けるのは「できないから仕方がない」と思っている学生が8割以上、「運動部は厳しいものだから」が7割を超えるなど、「上手になるため」や「全国大会に出るため」にはむしろ「必要」でさえある、との肯定論が優位であることが窺われる。

個人的には、スポーツの指導を受ける際、体罰やそれに近い仕打ちを受ければ、嫌だと感じるのがふつうだろうと思う(私自身はスポーツの際に体罰を受けたことはないが、練習中に声出しを強いられたことはたまらなく嫌だった)。耐えられないと思う生徒もいただろうし、実際に部を辞めていった者もいただろう。しかし、そうした過酷な指導に耐えた者、あるいはそれによって自らの力が伸びたと感じる者、自分に加えられた体罰には意義があったと考える者も少なくないことが、上記の記事や論文からわかる。

おそらく大半がそうした選手の出身であろう指導者の中にも、体罰あるいは体罰に似た「指導」が必要な場合があると考えている人は少なからずいる。もちろん「公式には」禁じられた手法であることは承知の上で、指導への「熱心」さゆえに、「あえて」「明るみに出れば職を失うリスクに自らをさらしつつ」体罰を使って指導している人たちだ。自殺者を出した件の顧問もそうした「熱心」な指導者の1人だったのではないかと推察する。だからこそ、周囲から惜しむ声が上がっているのだろう。

・「桜宮高校体罰自殺問題、顧問をかばう声も…保護者の本音と、橋下市長国政出馬のサイン」(Business Journal 2013年2月8日)

http://biz-journal.jp/2013/02/post_1468.html

一方で、この顧問教諭を「熱血漢」としてかばう、教え子、保護者もいる。ある体育系学科OBは「(顧問教諭は)手を上げることもあるけれど、ちゃんとフォローしてくれた。暴力のための暴力ではなかった。また遠くから通学している子には、奥さんに弁当を作らせ、それを配ったりもしていたと聞く。マスコミは顧問の先生のことを一方的に叩きすぎ。スポーツの世界をわかっていない」と話す。

・「『恩師の有罪判決つらい』『復帰の道を』…バスケ部OBら小村被告への“思い”語る」(産経新聞2013年9月26日)

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130926/waf13092619030033-n1.htm

保護者らによると、この日の判決を前にバスケ部のOB有志が小村被告の刑の減軽を求めて署名活動を行い、約4千人の署名を集めていた。だが小村被告自身が「自分はすべての罪を受け入れる」と話したため、署名簿の提出は見送られたという。

昨年まで小村被告の指導を受けていたバスケ部OBは判決を受け、「恩師が有罪判決を受けたのは本当につらいが執行猶予がついたのは本当に良かった」と安堵(あんど)の声。保護者の男性(43)は「有罪となったことで社会的制裁は受けた。本人が望むのであれば復帰の道を閉ざさないでほしい」と話した。

もしそうだとすれば、「体罰は悪」とどれほど叫ばれようとも、それだけで体罰がなくなることはない。

もちろん、少なくとも現在、こうした「本音」が表だって伝えられることはほとんどなくなった。いわゆるpolitical correctnessの問題だ。特に社会的に影響力ある立場の人がこのようなことをいえば、今ならマスメディアでもインターネットでも袋叩きになるだろう。それで当然だと思う人も多いだろうが、これを「多くの人と異なる意見は言わせない風潮」ととらえれば、それは「同調圧力」であり、構造的には「多数の暴力」と変わらない。

同調圧力で抑え込んでも、こうした考え方自体が消え去るわけではない。たとえ黙らせても、納得していない人が考えを変えることは期待できない。たとえいっときは収まったかに見えても、必ず問題は地下に潜り、人の目に届かないところで「必要悪」として生き続けるだろう。法律を作ってもそれは建前にとどまり、現場に浸透することはない。選挙における事実上の買収、公共工事入札における談合がどんなに禁止されても根強く生き残っている構図とまったく同じだ。実際、かつては「鬼コーチのしごき」として半ばおおっぴらに伝えられた体罰も、今や「隠すべきもの」との「知恵」がスポーツの現場に浸透しつつある。

・「佐世保実業 野球部員の暴力行為を隠蔽」(NHK2013年10月2日)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131002/t10014971561000.html

3年生の部員は、1年生の部員を慰留するよう野球部の清水央彦監督から指示を受けていたということで、清水監督と野球部の部長の高田洋介教諭は、学校側に「練習中の事故だった」とうその報告をしていました。

また、清水監督は、大けがをした部員の母親に「練習中に打球が当たり、転んだことにしてほしい」と口止めを依頼し、了承を得ていましたが、部員が先月、学校側に相談して発覚したということです。

・「【野球】中学野球部の父母会会長らが体罰隠蔽工作 「表に出ると監督に迷惑がかかる」 文科省の全国体罰調査で発覚」(毎日新聞2013年3月23日)

http://mainichi.jp/select/news/20130323k0000m040107000c.html

文部科学省が全国で実施している体罰調査を巡り、兵庫県高砂市の市立中学野球部の父母会会長らが、監督の体罰を報告させないよう部員の保護者にメールと電話で指示していたことが22日、同市教委への取材で分かった。

 

体罰は有効なのか?

しかし、なぜ彼らはそれほど体罰にこだわるのだろうか。

学術的には、体罰が教育やスポーツ指導の手段として有効かどうかについて以前からさまざまな研究が行われている。多くはなんらかの弊害を指摘するもののようだが、有効性を支持する研究も存在する。「場合によるが有害である場合は少なくない」とは言えるが、「議論の余地なくすべて有害で、有益な場合などひとつもない」とまではいえない、といったところだろうか。

・「体罰で精神疾患の可能性高まる、米研究」(AFP2012年7月6日)

http://www.afpbb.com/articles/-/2887637?pid=9213189

子どもの時に尻や体を叩かれるといった体罰を受けたことがある人は、そうでない人よりも成人後に気分障害や不安障害、依存症などの精神疾患で悩まされる可能性が高くなるとしたカナダの研究が、2日の米小児科専門誌「ペディアトリクス(Pediatrics)」で発表された。

・Simon T. Powers, Daniel J. Taylor, and Joanna J. Bryson (2012). “Punishment can promote defection in group-structured populations.” Journal of Theoretical Biology vol. 311: 107-116.

http://arxiv.org/abs/1206.4476

Contrary to the suggestions of previous work, we find that anti-social punishment can prevent the evolution of pro-social punishment and cooperation under a range of group structures. Given that anti-social punishment has now been found in all studied extant human cultures, the claims of previous models showing the co-evolution of pro-social punishment and cooperation in group-structured populations should be re-evaluated.

・Mark D. Seery (2011). “Resilience: A Silver Lining to Experiencing Adverse Life Events?” Current Directions in Psychological Science 20: 390-394.

http://cdp.sagepub.com/content/20/6/390.abstract

… (S)ome theory and empirical evidence suggest that the experience of facing difficulties can also promote benefits in the form of greater propensity for resilience when dealing with subsequent stressful situations.

実際のところ、体罰に走る指導者の行動に影響を与えているのは、これらの研究というより、自身の経験だ。彼らは体罰を受けてもその弊害をそれほど感じずにすんだか、あるいはそれを上回るメリットがあったと感じているのだろう。一方で体罰に苦しむ人があり、もう一方で体罰に前向きな意義を見出す人がいるというのはどうもすっきりしない話だが、多様な事例があること自体は事実だ。客観的には誤認である例が多いのかもしれないが、「自分にとって体罰が有効だったと考える人は愚かだ」と頭ごなしに決めつけ、彼らの主観までも否定するのはやや傲慢な態度であるように思われる。

一方、有力なスポーツ選手や名監督、名コーチなどと呼ばれた人たちの中には、体罰不要論ないし有害論を唱える人たちがいる。

・「スポーツに暴力は必要か」(山口香 / 体育学)(Synodos2013年9月9日)

https://synodos.jp/society/5523

体罰に頼って作り出される人間は体罰によってしか動かない。そんな人間を社会は必要としていないことを指導者もスポーツ界も認識する時期にきている。

・「『体罰は自立妨げ成長の芽摘む』桑田真澄さん経験踏まえ」(朝日新聞2013年1月11日)

http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.html

私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

・「大阪・高2自殺:体罰問題 桜宮高元顧問「有罪」 元プロ陸上選手・為末大さんの話」(毎日新聞2013年9月26日)

http://mainichi.jp/select/news/20130926dde041040029000c.html

体罰がなぜいけないのか。それは、指示待ち人間を作るからです。体罰を受けた選手は萎縮し、指導者の顔色ばかりうかがうようになる。暴力で追い込むと、選手の競技力を向上させるどころか、将来の人生にも悪い影響を与えるのです。

赫々(かっかく)たる成果を挙げたこのような方々に体罰を否定していただけるのはたいへん心強いわけだが、だからといって安心してはいられない。スポーツ選手や指導者は、彼らのような優れた才能を持つ人たちばかりではないからだ。もし彼らにとって体罰が効果のないものであったとしても、すべての選手にとって同じである保証はない。

彼らのようなトップアスリートは、もちろんスポーツ界を代表する存在ではあるが、より広く、裾野まで含むスポーツ選手全体の中では特殊な部類に属する少数派だ。彼らは才能があったから体罰を受けることなく才能を開花させることができたのではないか、彼らのような優れた指導者の下には優れた選手が集まってくるがゆえに、体罰に頼ることなく成果を出すことができたのではないか。そうした疑問への答えは、彼らの主張からは必ずしも読みとれない。

そもそも、本当にまったく有益でないなら、厳しい競争を繰り広げているスポーツ界の人々の間でなぜ体罰がこれほど根強く、広範に残っているのだろうか。しかもそれは、競技によってはナショナルチームレベルのスポーツ指導者も行っていたわけで「体罰では強くならない」と主張しても建前論のように聞こえてしまう。少なくとも、上記のような体罰不要論はスポーツ界に全体としては浸透していない。

・「柔道女子・園田前監督を訓戒処分 刑事処分は見送り」(産経新聞2013年4月26日)

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130426/crm13042617160010-n1.htm

園田前監督は「五輪で勝ってもらうために強く育てる過程で、ある程度の有形力の行使は許されるという指導理念があった」と釈明。

しつこいようだが、だからスポーツ指導における体罰を容認すべきだといいたいのではない。体罰は犯罪だと脅してやめさせようというアプローチも、体罰は指導方法として有効ではないと説得してやめさせようというアプローチも、それだけでは有効な対策にはならないということだ。

彼らは自身や周囲の経験から、体罰の有効性をかなりの程度信じており、目的達成のためには一定の体罰もやむを得ないと考えている。熱心さゆえの行為で「信頼関係」がベースにあると思っているから罪悪感がない。社会的には認められないことを知っていても、当事者が黙っていれば隠せると思っている。ハイレベルの実績を持つ人が含まれているから、体罰は効果がないとか有害だとかいっても、それだけでは説得力がない。研究成果も玉虫色ときている。

したがって、彼らを頭ごなしに否定するのではなく、選手の技能を向上させたり真剣に取り組ませたりするという点において体罰には有効性がある場合もあるかもしれないということを前提としたうえで対策を打たなければならない。仮に有効な場合があったとしてもなお、数々の事件や事故の例が示す通り、無視できない弊害が生じるリスクが小さくないがゆえに、体罰は指導手法として採用してはならない、ということだ。

体罰は個々の指導者や選手の心がけや倫理観だけの問題ではない。スポーツ全体のあり方やその構造に根ざした問題ととらえるべきであって、それは彼らを理屈で論破したり激しいことばで黙らせたりすることでは変わらない。したがって、その解決のために行うべきなのは、指導者たちが納得して行動を変えたくなるような具体的な対策を打ち出し、スポーツ界の構造を変えていくことだ。

指導者の糾弾ばかりしていれば、指導者に過剰なリスクを負わせることになる。上記の「ガイドライン」も、「諸条件を客観的に考慮して判断すべき」としていくつかの例を挙げるものであって、あらゆる場合を網羅したルールではもとよりないから、現場での判断には必ずリスクが伴う。指導者の意図や配慮が選手にきちんと伝わらない可能性があるからだ。

たとえば「ガイドライン」に許される行為として例示された「バレーボールで、レシーブの技能向上の一方法であることを理解させた上で、様々な角度から反復してボールを投げてレシーブをさせる」ことと許されない行為として例示された「生徒が疲労している状況で練習を継続したり、準備ができていない状況で故意にボールをぶつけたりするようなこと」は現場でどの程度明確に区別しうるのか。許される行為として例示された「計画にのっとり、生徒へ説明し、理解させた上で、生徒の技能や体力の程度等を考慮した科学的、合理的な内容、方法により、下記のような肉体的、精神的負荷を伴う指導を行う」ことと、許されない行為として例示された「パワーハラスメントと判断される言葉や態度による脅し、威圧・威嚇的発言や行為、嫌がらせ等を行う」こととは、具体的にどこがどうちがうのか。

たとえ体罰の疑いがかけられても、もし身に覚えがないなら事後的に調査してもらえばよい、という考え方もあろう。しかし現在のように、いったんトラブルが起きれば糾弾の声がどんどん高まり、一方的に断罪する声が指導者としてのキャリアに致命的な傷をつけかねない環境の中では、早晩指導などしていられなくなるだろう。ただでさえボランティアが多く、人数も不足しがちな指導者が現場を去ってしまったら、それこそスポーツにとっても教育としてもかえって望ましい結果にはなるまい。

3つの対策

ではどうすればよいのか。

文部科学省は今年7月に「スポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議(タスクフォース)」報告書をとりまとめた。体罰問題を中心とするスポーツ指導者に関する問題に対して「専門家」たちが出した1つの答えだ。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/017/index.htm

具体的な内容はぜひリンク先でお読みいただきたいのだが、なかなかいいことをいっていると思う。ここに書かれていることをふまえて、自分なりに特に重要と考える部分を3点ほど整理してみた。

(1)スポーツ指導の現場のオープン化

体罰への風当たりが強い今、体罰は、外部の目の届かないところで行われる。したがって、外部の目がスポーツ指導の現場に常にあるようになれば、体罰を行うことはきわめて難しくなろう。法律で禁止したり外部から罵詈雑言を浴びせたりするよりははるかに有効な対策と思われる。

上記タスクフォースの検討段階で作成された「報告書取りまとめの方向性」では、こんな表現で書かれている。

コーチングの現場をオープン化し、競技者・チームとコーチだけでなく多様な関係者の目が入る体制にすることが重要であり、これは不適切な指導を防ぐ手立ての一つとなると考えられる。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/017/attach/1337245.htm

これは、体罰という「犯罪」を防ぐために皆で監視せよ、という意味もないではないだろうが、もちろんそれだけではない。スポーツ指導の現場に、より広い視野、立場からの意見を反映できるしくみを作るべき、ということでもある。たとえば選手の家族や指導者以外の教員、地域の人々、医師、トレーナーなどの専門家、競技団体、行政など、関わるべき人々はさまざま考えられる。少なくとも学校におけるスポーツは、幅広い層の人々に関係する裾野の広い問題だ。当事者だけに任せず皆で関わっていこうという主張はしごくもっともだと思う。

(2)指導スキル・ノウハウの知識化と共有

指導者が体罰に頼るのは、それを好んでしているというより、やむにやまれずといったケースが少なくないだろう。つまり、達成しようとする目標に対して選手の技量や努力が足りないから、態度が悪いからというわけだが、それは言い換えれば指導者の指導力が自身の期待する水準と比べて足りないということでもある。

足りなければ足す必要がある。スポーツ指導者育成のための教育研修プログラムは競技ごとに整備されている場合が多いが、必ずしも充分とは言えない、とスポーツ界でも考えられているようだ。上記の「報告書取りまとめの方向性」にはこう書かれている。

コーチの育成過程においては、競技に関するトレーニング、技術・戦術面などの専門的な事項だけでなく、哲学・倫理、コミュニケーション能力や説明力、事故対応等の知識・技能、競技者の長期的なスポーツキャリアを視野に入れた指導の在り方等の競技横断的な事項の学習も大切であるが、必ずしも十分体得できていないと考えられる。

実際、スポーツの指導に必要なのは当該スポーツの技量だけではないし、スポーツ指導のスキルとスポーツそのもののスキルも同一ではない。体罰の「有効性」を自らの身をもって知る指導者は同時に、その体罰が恐ろしい結果をもたらした事例や、体罰を使わずに行う指導法についても学ぶべきだ。「体罰に頼らずとも効果的に指導できる」と主張する優秀なスポーツ指導者は、自らその手法を知識化、共有し、スポーツ界全体の知とすべきだろう。研修や資格制度の充実、大学・大学院における専門教育の普及など、やれることはたくさんあり、報告書にも提案されている。

もちろん、ただ学べというだけでは実効性がない。指導者がそうした学習を行う機会のなさや時間的、経済的余裕の不足も、スポーツ指導にまつわる課題として認識されている。制度があるというだけではなく、それが普及し、知識やノウハウが広く共有される状態が実現して初めて意味が出てくる。事態改善のためには当然ながら指導者や教育現場だけではなく、文部科学省や地方自治体、競技団体等が協力して、実効性のある対策をとっていかなければならない。端的にいえば、精神論や脅しではなく、具体的に予算を割いて体制やプログラムを整備すべき、ということだ。

(3)スポーツ指導者の評価基準を変える

もう1つ重要なことは、スポーツ指導者の評価基準を明示的に変えることだ。

スポーツ指導者へのアンケート調査などをみると、よくいわれる「勝利至上主義」のような考え方は、指導者の間で必ずしも多数派ではないようだが、一部に存在するということは共通して指摘されている。指導者一般というより、上位選手の指導にあたるスポーツ指導者の間で、こうした考えが根強いということなのだろう。しかしそれは、彼らのせいばかりではない。上記タスクフォース報告書にはこのような記載がある。

現在、コーチの活用に当たっては、その評価を行う観点・評価方法等が共通化しておらず、現実には、直近の競技者やチームの大会成績の結果などが主要な指標になっています。

今後、コーチの活用のための評価基準や評価方法について検討し、コーチが適切に活用される仕組みを作っていくことも重要です。

指導者が体罰に走ってしまうのは、彼ら自身が、競技における選手のパフォーマンスによって評価される傾向にあるから、あるいは彼ら自身がそう感じているからなのではないか、ということだ。「選手のことを思って」体罰を行った、という指導者がいるが、その裏には選手の競技成績が自らの評価につながるという思惑がある、とみる方が確かに自然だ。

もちろんプロ選手や、オリンピック選手などトップレベルのアマチュア選手の指導者であれば、その評価が選手の競技成績と関連づけられるのもある意味当然であろう。しかしそうでない場合、特に、学校という教育の場でのスポーツ活動の指導者を同様の基準で評価するのはどうかと思う。

教育の場であれば、選手の競技成績よりどれだけ向上したかが重要であろうし、併せて選手の定着率や怪我などの数、さらには学業成績なども評価の対象とすべきだろう。つまり、教育の場でのスポーツ指導者を「教育者」であるととらえることだ。上記「ガイドライン」を取りまとめた文部科学省「運動部活動の在り方に関する調査研究協力者会議」の報告書は、このように書いている。

・「運動部活動の在り方に関する調査研究報告書」(2013年5月27日)

http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/__icsFiles/afieldfile/2013/05/27/1335529_1.pdf

運動部活動は、スポーツの技能等の向上のみならず、生徒の生きる力の育成、豊かな学校生活の実現に意義を有するものとなることが望まれます。

これもまた、ただ叫ぶだけでは進まない。競技団体だけでなく、国や関係機関、大学などもいっしょになって、適切な評価基準を早急に整備し、実際に現場に浸透させていくための方策をとっていく必要がある。

スポーツを神聖視しすぎないこと

これらの対策はスポーツ界と周囲の関係者が協力してとっていくべきもので、実際にこうして方針が実行に移されるなら、一定の効果は期待できるかもしれない。しかし、これで充分なのかといえば、充分ではないのではないかという気がする。この問題の根幹は、スポーツ界の中というよりむしろ外にあるのではないかと思うからだ。私たちの社会の中に、「熱心」なスポーツ指導者を体罰に走らせる「空気」があって、非公式かつ暗黙裡のプレッシャーが彼らを圧迫しているのではないか。そしてその「空気」を生み出しているのは、スポーツに過剰な期待を寄せる私たちの目なのではないだろうか。

もっとはっきりいえば、私たちはスポーツを神聖視しすぎなのではないか、ということだ。私たちの社会にはスポーツ観戦を趣味とする人が多くいる(私もその1人だ)わけだが、どこかスポーツ選手や指導者を一種の求道者としてとらえ、彼らのスポーツに対する無限の献身を当然のように期待しているところがある。

そうした、スポーツに「感動」、選手に「ストイックさ」を求める私たちの無邪気で無慈悲な好奇心と期待が彼らをどれだけ追い詰めているか。体罰やそれに起因する諸問題だけではない、スポーツをめぐるさまざまな問題がここから生まれている。

・「済美・安楽の熱投が問いかけたもの。高校野球における「勝利」と「将来」。」(Number Web2013年4月4日)

http://number.bunshun.jp/articles/-/391492

高校野球の報道には「感動主義、批判排除」の風潮がある。高校野球のフィールドでは、批判は避け、感動を推進していこうというようなものだ。取り決めがあるわけではないが、長い歴史の中で、そうした報道が当たり前になっている。だから2回戦での232球の熱投も、好意的に見るメディアが多かった。

・「“天性のヒール”出産発表の安藤美姫にフィギュア界から吹き荒れる逆風」(日刊サイゾー2013年7月4日)

http://www.cyzo.com/2013/07/post_13781.html

1日に放送された『報道ステーション』(テレビ朝日系)で、今年4月に女児を出産していたことを明かしたフィギュアスケート選手の安藤美姫に、フィギュア界から逆風が吹き荒れている。

他にも、競技生活で無理をした結果、健康を害する選手が後を絶たない、といった問題もある。ドーピングの影響で健康を害したり、若くして亡くなったりしたと思われる選手は複数いる。先日は朝日新聞が「女性トップアスリートの4割は月経異常」と報じた。

・「女性トップアスリート、4割月経異常 学会が治療支援へ」(朝日新聞2013年10月3日)

http://digital.asahi.com/articles/TKY201310020139.html

調査対象は、ロンドン五輪の選手と47競技団体の強化指定選手の計683人。2011年4月~12年5月の受診記録を分析した。この結果、40・7%にあたる278人が月経周期に異常があり、うち53人は無月経だった。また、15歳までに初経がなかった選手は12・6%で、都内の高校生を対象にした過去の調査の0・3%より大幅に高かった。

15歳を過ぎても初経がなかったり、月経が3カ月以上、止まったりすると無月経と診断される。体内の女性ホルモンが減ると骨がもろくなる。今回の調査でも、月経が正常な10代では疲労骨折の経験者は1割だったが、無月経では4割近くが疲労骨折の経験があった。

確かに彼らはこうした苦しみを自ら選び取っているにはちがいないが、だからといって、選手の勝手だと突き放すのはあまりに無責任というものだろう。プロでもアマでも、スポーツ選手に対する経済的支援や機会の多くは、それらを与える政府や企業などの意思決定メカニズムを通じて、選手たちの競技を見て熱狂する私たちの「感動」と深くつながっているからだ。同じことは指導者についてもいえる。選手のパフォーマンスは選手自身だけでなく、指導者のキャリアにも大きく影響する。

彼らの苦しみは、必ずしも報いられるとは限らない。ごく少数のトッププロや幸運にも指導者として収入を得る立場を得ることに成功した一部を除き、現役引退後の生活に苦労する元選手の話は枚挙にいとまがない。セカンドキャリアに不安を抱えるからこそ指導者に絶対服従して競技に自らのすべてを投じるしかなく、それが体罰を許容する土壌ともなる。プロはともかく、学生を含むアマチュア選手たちに栄光への夢を煽り、彼らを酷使して過剰な献身を強いたあげく、その大半を競技生活終了後に放り出して平然としている社会は異常というほかない。

競技への常軌を逸した献身を賞賛する考え方と、スポーツ指導において違法な体罰も辞さないという考え方とは通底するものがある。その意味では選手だけでなく指導者も、スポーツに熱狂する私たち大衆の無邪気で無慈悲な好奇心と期待の犠牲者だ。1人で230球を投げ抜いた高校生投手を賞賛し、まだ10代の選手に「金メダル確実」とはやしたてるメディアは、そうした自らの態度がスポーツ指導の現場で体罰を生む温床だという自覚はあるのだろうか。私たちは、周囲のプレッシャーから自らに命を絶つという最悪の「体罰」を下した円谷幸吉の悲劇から何も学んでいないのではなかろうか。

多くの人にとって、スポーツは見て楽しい娯楽であり、また自分でプレイしても楽しい余暇活動、あるいは健康増進活動だろう。それが一部の人にとって自分を向上させるものであり、そのまた一部の人にとってはすべてを捧げても追求したい道であるわけだ。しかし、一部の人にとって何より大事であったとしても、社会全体としてはそうではない。スポーツは、聖域化して外部では通用しないルールを平然と適用していい場ではないし、勝利を追求するために人生を棒に振ることを美談にすべき場でもない。

必要な対策をとり、行動を変えていくのはスポーツ界だとしても、体罰を許容する風土の改革は、彼らだけに任せておくべきものではない。考えを改めなければならないのは、選手や指導者というより、むしろ私たち自身なのではないだろうか。

サムネイル「Gymnasium, Rokugo elementary school」keyaki

http://www.flickr.com/photos/keyaki_no_kokage/2092873823/

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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