「体罰は許されない」では解決しない理由

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3つの対策

 

ではどうすればよいのか。

 

文部科学省は今年7月に「スポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議(タスクフォース)」報告書をとりまとめた。体罰問題を中心とするスポーツ指導者に関する問題に対して「専門家」たちが出した1つの答えだ。

 

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/017/index.htm

 

具体的な内容はぜひリンク先でお読みいただきたいのだが、なかなかいいことをいっていると思う。ここに書かれていることをふまえて、自分なりに特に重要と考える部分を3点ほど整理してみた。

 

 

(1)スポーツ指導の現場のオープン化

 

体罰への風当たりが強い今、体罰は、外部の目の届かないところで行われる。したがって、外部の目がスポーツ指導の現場に常にあるようになれば、体罰を行うことはきわめて難しくなろう。法律で禁止したり外部から罵詈雑言を浴びせたりするよりははるかに有効な対策と思われる。

 

上記タスクフォースの検討段階で作成された「報告書取りまとめの方向性」では、こんな表現で書かれている。

 

 

コーチングの現場をオープン化し、競技者・チームとコーチだけでなく多様な関係者の目が入る体制にすることが重要であり、これは不適切な指導を防ぐ手立ての一つとなると考えられる。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/017/attach/1337245.htm

 

 

これは、体罰という「犯罪」を防ぐために皆で監視せよ、という意味もないではないだろうが、もちろんそれだけではない。スポーツ指導の現場に、より広い視野、立場からの意見を反映できるしくみを作るべき、ということでもある。たとえば選手の家族や指導者以外の教員、地域の人々、医師、トレーナーなどの専門家、競技団体、行政など、関わるべき人々はさまざま考えられる。少なくとも学校におけるスポーツは、幅広い層の人々に関係する裾野の広い問題だ。当事者だけに任せず皆で関わっていこうという主張はしごくもっともだと思う。

 

 

(2)指導スキル・ノウハウの知識化と共有

 

指導者が体罰に頼るのは、それを好んでしているというより、やむにやまれずといったケースが少なくないだろう。つまり、達成しようとする目標に対して選手の技量や努力が足りないから、態度が悪いからというわけだが、それは言い換えれば指導者の指導力が自身の期待する水準と比べて足りないということでもある。

 

足りなければ足す必要がある。スポーツ指導者育成のための教育研修プログラムは競技ごとに整備されている場合が多いが、必ずしも充分とは言えない、とスポーツ界でも考えられているようだ。上記の「報告書取りまとめの方向性」にはこう書かれている。

 

 

コーチの育成過程においては、競技に関するトレーニング、技術・戦術面などの専門的な事項だけでなく、哲学・倫理、コミュニケーション能力や説明力、事故対応等の知識・技能、競技者の長期的なスポーツキャリアを視野に入れた指導の在り方等の競技横断的な事項の学習も大切であるが、必ずしも十分体得できていないと考えられる。

 

 

実際、スポーツの指導に必要なのは当該スポーツの技量だけではないし、スポーツ指導のスキルとスポーツそのもののスキルも同一ではない。体罰の「有効性」を自らの身をもって知る指導者は同時に、その体罰が恐ろしい結果をもたらした事例や、体罰を使わずに行う指導法についても学ぶべきだ。「体罰に頼らずとも効果的に指導できる」と主張する優秀なスポーツ指導者は、自らその手法を知識化、共有し、スポーツ界全体の知とすべきだろう。研修や資格制度の充実、大学・大学院における専門教育の普及など、やれることはたくさんあり、報告書にも提案されている。

 

もちろん、ただ学べというだけでは実効性がない。指導者がそうした学習を行う機会のなさや時間的、経済的余裕の不足も、スポーツ指導にまつわる課題として認識されている。制度があるというだけではなく、それが普及し、知識やノウハウが広く共有される状態が実現して初めて意味が出てくる。事態改善のためには当然ながら指導者や教育現場だけではなく、文部科学省や地方自治体、競技団体等が協力して、実効性のある対策をとっていかなければならない。端的にいえば、精神論や脅しではなく、具体的に予算を割いて体制やプログラムを整備すべき、ということだ。

 

 

(3)スポーツ指導者の評価基準を変える

 

もう1つ重要なことは、スポーツ指導者の評価基準を明示的に変えることだ。

 

スポーツ指導者へのアンケート調査などをみると、よくいわれる「勝利至上主義」のような考え方は、指導者の間で必ずしも多数派ではないようだが、一部に存在するということは共通して指摘されている。指導者一般というより、上位選手の指導にあたるスポーツ指導者の間で、こうした考えが根強いということなのだろう。しかしそれは、彼らのせいばかりではない。上記タスクフォース報告書にはこのような記載がある。

 

 

現在、コーチの活用に当たっては、その評価を行う観点・評価方法等が共通化しておらず、現実には、直近の競技者やチームの大会成績の結果などが主要な指標になっています。

 

今後、コーチの活用のための評価基準や評価方法について検討し、コーチが適切に活用される仕組みを作っていくことも重要です。

 

 

指導者が体罰に走ってしまうのは、彼ら自身が、競技における選手のパフォーマンスによって評価される傾向にあるから、あるいは彼ら自身がそう感じているからなのではないか、ということだ。「選手のことを思って」体罰を行った、という指導者がいるが、その裏には選手の競技成績が自らの評価につながるという思惑がある、とみる方が確かに自然だ。

 

もちろんプロ選手や、オリンピック選手などトップレベルのアマチュア選手の指導者であれば、その評価が選手の競技成績と関連づけられるのもある意味当然であろう。しかしそうでない場合、特に、学校という教育の場でのスポーツ活動の指導者を同様の基準で評価するのはどうかと思う。

 

教育の場であれば、選手の競技成績よりどれだけ向上したかが重要であろうし、併せて選手の定着率や怪我などの数、さらには学業成績なども評価の対象とすべきだろう。つまり、教育の場でのスポーツ指導者を「教育者」であるととらえることだ。上記「ガイドライン」を取りまとめた文部科学省「運動部活動の在り方に関する調査研究協力者会議」の報告書は、このように書いている。

 

 

・「運動部活動の在り方に関する調査研究報告書」(2013年5月27日)

http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/__icsFiles/afieldfile/2013/05/27/1335529_1.pdf

 

運動部活動は、スポーツの技能等の向上のみならず、生徒の生きる力の育成、豊かな学校生活の実現に意義を有するものとなることが望まれます。

 

 

これもまた、ただ叫ぶだけでは進まない。競技団体だけでなく、国や関係機関、大学などもいっしょになって、適切な評価基準を早急に整備し、実際に現場に浸透させていくための方策をとっていく必要がある。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

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