「第三者による検証」という言葉をとらえ直す――事故や災害の検証を行うべきは「誰」なのか

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事故や災害の検証を行うべきは「誰」なのか

 

事故や災害が発生する。そしてその再発防止のためには、責任追及とは切り離した形での検証(調査)を行うことが必要である、という主張がなされる。またこの再発防止のための検証は、「中立的な」もしくは「第三者的な」立場から行われることが肝要であるとされる。

 

これまでこの第三者的視点は、「専門家」の側から提示されることが常であった。そしてその対となる「被害者(遺族や負傷者やその家族など)」の言葉は、専門知識をもたない素人の意見として、怒りや悲しみの感情が先に立つ人々の主張として受け止められがちであった(*1)。

 

(*1)柳田邦男「この解説書の大きな意義 納得感のある開かれた事故調査への一歩」http://www.mlit.go.jp/jtsb/kaisetsu/nikkou123-kikou.pdf (2013.9.24現在)

 

また場合によっては、被害者の言葉は、客観性や科学性を重視すべき検証を妨げるものとして位置づけられ、検証の場から排除される傾向が強かった。しかしそうなのだろうか。被害者の声は「素人の」「感情的な」ものばかりなのだろうか。

 

 

「2.5人称の視点」をもつ専門家

 

作家の柳田邦男氏は、フランスの哲学者ジャンケレヴィッチの「死の人称性」という概念をもとに、被害者視点にたった上で検証(事故調査や対策立案)を行うことの重要性を「2.5人称の視点」という言葉で表現している。

 

柳田氏は、検証を行う上で「もし自分が事故にあっていたら」と考えるのは1人称の視点、「もし自分の家族や大切な人が事故にあっていたら」と考えるのは2人称の視点、専門的な知識だけに基づいて判断するのは3人称の視点。そして1人称、2人称の視点をいれつつ、専門家として冷静に判断するのが「2.5人称の視点」であるとしている。

 

また、航空・鉄道事故調査委員会の委員であった黒田勲氏は生前、「学識経験者(専門家)というのは、『有』学識『無』経験者なんだよね。その事故を経験していない。だから常に事故調査や再発防止策の立案に、経験をどう役立てることができるかを考えなければならない」と語っていた。

 

この二人の専門家の主張は、専門的な知識に裏打ちされ、真実を知る者と認識されやすい専門家の「力」に対するいさめであるとも言えよう。第三者の視点で専門家が十分に配慮して検討したとしても、そこに見落としの可能性は残る。それを少しでも埋めるための方法として、被害者だからこその気づき、被害者が苦悩の末にこだわり抜く要素も含めた形で、専門家が検証に臨むことこそが、事故の再発防止や被害軽減につながるという主張でもある。

 

 

「被害者の社会的責任」という考え方

 

筆者は、2005年に発生したJR西日本福知山線事故の被害者らをはじめとして、国内で発生したさまざまな事故、特に公共交通事故の被害者の方々と活動をともにし、また研究の一環としてインタビューを行っている。

 

その中で、公の場での強い言葉としては語られることは少ないが、『被害者としての責任』『被害者だからできること、言うべきこと』『よりよい被害者でありたい』というような言葉で、「被害者の社会的責任」とも呼べるようなことがらに、被害者自らが言及する場面に居合わせたいくつかの経験がある。

 

筆者がここで「被害者の社会的責任」と表現するものは、被害者(すべて)が行うべきことという意味ではない。被害者という立場になった人の心身の痛み、平穏な日常を破壊されたことの影響力を考慮すれば、それらの人々はさまざまな社会的支援を受け、自らの回復を最優先する立場にある。

 

一方で、被害者の想いや状況はひとつに収斂するものでもない。おかれた状況によっては、自らが遭遇してしまった事故の原因究明や再発防止策の立案に積極的にかかわり、「被害者の社会的責任」とも呼べるものを全うしたい、そう考える被害者も存在するのである(*2)。

 

(*2)被害者の考え方も一様ではない。本稿で述べるように被害者の社会的責任を強く自覚し、積極的に活動する被害者もいる一方で、活動に係わっていても強く社会的責任を自覚しているわけではないと話す被害者も存在する。また、当然のことながら、被害者自身の人称も異なる。その意味で被害者がもつ「2.5人称の視点」の背景や実態はさまざまである。本稿では、被害者としての責任を意識し、発信しようとする強い想いを持つ人々を中心に記述していることを付記する。

 

1985年に発生した日本航空機墜落事故の遺族である美谷島邦子さんは、『遺族である私にできること、遺族だからできること』があるとその著書に綴っている(*3)。

 

(*3)美谷島邦子、御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年 新潮社 2010

 

その上で、社会的には注目されにくい事故(多くの場合は、被害者数が少ない事故)の被害者と比較して、『私たち遺族は、大事故だったが故に、こうして発言の場をいただいた』という言葉とともに、加害企業や報道機関、規制機関がその声に耳を傾けやすい立場だからこそ、個人の感情を超えて、発言するべきことがあると語っている。これは、社会的に注目をあびることになってしまった事故や災害の被害者の中に存在する、あるひとつの想いである。自らの事故の原因究明を求めるだけではなく、自らの生活を破壊した事故を社会の「負」の共有財産としてとらえ直し、二度と同じような事故を起こさせないという強い想いである。

 

このように被害者としての社会的責任を果たそうとする人々は、専門家とは別の仕方で「2.5人称」の視点から、事故の再発防止に寄与しようとする人々であるとも言えよう。そのような被害者の声は、事故や災害の検証において、被害者の声というデータとして位置づけられるだけで十分なのであろうか。もう一歩踏み込んだ形で検証にかかわる仕方がありうるのではないだろうか。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.264 

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