3.11以降の世代間倫理を考える――討議か、想像力か

福島第一原子力発電所事故は、科学技術に対する私たちの見方を変えてしまった。私たちは、一流の科学者集団が状況の解明に困惑し、一流の技術者集団が事故の対応に戸惑う姿を見せ付けられた。そもそも制御できないものによって、私たちの社会が支えられていたという現実を突きつけられた。そして、同事故の処理には途方もない長い期間が必要であり、私たちは未来の世代に責任を負うことになった。それからすでに3年が経った。

 

本論は、同事故が与えた影響を念頭に置きながら、原子力技術が抱える哲学的な問題を検討する。戦後、多くの哲学者が原子力技術に言及し、人間との関わりの観点から批判を試みてきた。本論が特に注目するのは、主に日本で「世代間倫理」と呼ばれる倫理学の領野である。本論は、原子力技術に対する制御の困難さと、そこから帰結する未来の世代への責任のあり方を考察し、3.11以降の世代間倫理を模索していく。

 

 

「10万年後の安全」という問題提起

 

フィンランドのオルキルオトでは、世界初の高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場が建設されている。その過程を描いたドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」が話題を呼んだことは記憶に新しい。高レベル放射性廃棄物が生物に無害になるためには、最低でも10万年の期間が必要であるという。この見地から、同処分場は10万年間の廃棄物の保管に耐えるように設計されている。

 

劇中に印象的なシーンがあった。建設者らが、処分場の存在をどのような方法で周知したらよいか、ということに関して、議論が紛糾する場面だ。万が一、保管期間内に誰かが中に立ち入るようなことがあれば、周囲に深刻な汚染が引き起こされる可能性がある。従って、そこが処分場であることを誰が見ても分かるように配慮する必要がある。しかし、ではどのような言語で周知すればいいだろうか。いうまでもなく、数万年後の人類がどんな言語を用いているか、想像することすらできない。そうだとすれば、言語を用いた看板による周知は諦めなければならない。

 

やがて設計者らが考えついたアイデアは奇抜なものだった。処分場全体を巨大な棘状の建築物で覆ってしまい、不気味な形状にして人足を避けてはどうか、あるいはムンクの『叫び』のような絵画を大きく掲げ、不快感を煽るようにしてはどうか。たとえそこが処分場であることを伝えることができなくても、とにかく処分場内に人を立ち入らせないことが重要である。そうした考えから、処分場をあえて人に不快感を与えるような外観にすることが検討されたのである。

 

ここには原子力技術が抱える問題の本質が示されている。原子力技術が影響を与える期間は個人の生涯よりも長い。そうした技術を使用するとき、私たちは同時に未来の世代にも甚大な影響を与えることになる。しかし、言うまでもなく、私たちは未来の世代とコミュニケーションをとることはできない。従って、原子力技術を運用する場合、私たちは原理的にコミュニケーションをすることができない他者(未来世代)に対して責任を負うことになる。これは、ハンス・ヨナスが指摘する通り、哲学史において前代未聞の問題である(Jonas[1979], S.7.)。

 

 

科学技術の制御の困難さ

 

未来の世代への責任が特別に必要にされるのは、私たちが科学技術を適切に制御することができず、不慮の事故の可能性を潰し切ることができないからだ。そうした現実を露呈させたのが福島第一原子力発電所事故だった。しかし、注意しなければならないのは、そうした制御の困難さは、科学者・技術者の能力が劣っていることに由来するのではない、ということだ。もちろん、同事故の対処に当たった人々の行動の適切さは厳しく問われなければならない。ただし、考えられる限りの最善の対処さえすれば原子力技術は適切に制御できる、という考え方は楽観的に過ぎるのである。むしろ、高度な科学技術は、たとえ私たちが最善の仕方で対処したとしても、依然として制御不能なものとして考えられなければならない。

 

戦後早くからそうした主張を訴えていたのがギュンター・アンダースである。アンダースは、人間が作りだすことができるものと、人間が想像できるものとの間には大きな落差があると指摘し、楽観的に安全を謳うことを厳しく批判した。人間は非常に複雑で、破壊的な威力をもつ機械を作ることができる。しかし、たとえ作ることができたとしても、その機械がもたらす被害を具体的に想像する能力はもっていない。例えば、核兵器を製造することの難しさと、核兵器によってもたらされる被害を想像することの難しさは、決して同じではない。そして戦後社会において、そうした落差を如実に表しているのが原子力発電所である、とアンダースは指摘する。この落差によって、私たちが極めて危険な機械を目の前にしていても、その危険性に気付くことができなっているのである。

 

 

たとえば原子炉はそこらの工場施設とまったく同様に、危険でもなければ目立ちもせず、その潜在的な機能についても、それが有する脅威についても何も示していない。靴工場を案内するように(まだ運転されていない)原子力発電所を案内してもらった後で、挨拶を受けたとき、有名なヨーロッパの政治家は、「どこが不都合なのだ?」と得意げに嘲笑うように尋ねた。(Anders[1984], S.35.)

 

 

こうした生産能力と想像力の落差は、個人の過失によるものではなく、現代の科学技術文明がもたらした必然的な帰結である。そうである以上、専門家が自らの持ち合わせている想像力を行使して、高度な科学技術の安全性を証明しようとしても、その当の想像力が制約されているために、証明された安全性は不完全なものに留まる。それが科学技術を制御することの原理的な困難さである。アンダースは、そうした専門的知識に頼るのではなく、むしろ制約されている「道徳的な想像力」(Ander[1983], S.273.)を拡大する努力こそが必要であると主張する。

 

アンダースと同様に、科学技術の制御の困難さを指摘するヨナスは、科学技術の運用に際しては、なによりもまず自分が無知であることを承認することが義務である、と主張する。科学技術は本質的に予測不能なものであり、一度重大な事故が起きれば対処不能なものであり、その事故によってもたらされる甚大な被害に関しては回収不能なものである。ヨナスに拠れば、今日の科学技術の安全性を検討する際には、最も恐怖するべき最悪の結末を想像することが必要であり、そうした「恐怖に基づく発見術」(Jonas[1979], S.63.)が養われなければならない。

 

 

 

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