3.11以降の世代間倫理を考える――討議か、想像力か

未来の世代への責任

 

ただし、科学技術に対する制御の困難が原理的なものであり、なんらかの過失に基づくものではないからといって、それが専門家や社会を免責する理由にはならない。むしろ、科学技術が予測不能であるからこそ、それに関わらざるを得ない者は責任を負う。そしてその責任は遠い未来にまで及ぶ、という点に、この責任の特殊性がある。原子力技術に限定すれば、それは10万年後の未来にまで影響を与え続ける。人類がこれまで、それほどまでに長大な時間的地平をもつ科学技術を手にしたことはなかった。

 

遠い未来にまで影響を与え続けるからこそ、原子力発電の産物は、私たちが未来の世代と共有するものであり、そうした仕方で私たちは未来の世代と関係を結ぶことになる。ただし、もちろん、この関係は双方向的なものではない。私たちが未来の世代に働きかけることはできるが、未来の世代が私たちに働きかけることはできない。ここに、未来への責任の問題の難しさがある。私たちは、一方的に未来の世代を傷つけることができるにも関わらず、未来の世代は私たちを裁くことができない。そうである以上、私たちは未来の世代に対して圧倒的な強者であり、それに対して未来の世代は極めて弱い立場に立たされている。

 

この問題は伝統的な倫理学の枠組みでは捉えることができない、とヨナスは指摘する(ibid., S.26.)。何故なら、伝統的な倫理学が前提にしている時間的地平は、当事者同士が相互に交流できる範囲に限定されているからだ。近代以降の民主主義的な倫理学は、当事者同士が話し合い、合意に至ることで拘束力をもつ規範を形成する、というプロセスを重視してきた。しかし、私たちは未来の世代と話し合うことができないのだから、民主主義の枠組みでこの問題を解決することはできない。ヨナスは、むしろ、強者と弱者の非対称的な関係を前提にする倫理学の必要性を訴える。

 

ヨナスが構想するのは、強者が弱者に対して一方的な配慮をする仕方での責任だ。法的な文脈では、責任は何らかの契約によって初めて拘束力をもつが、前述の通り私たちと未来世代は非対称な関係にあり、事前に契約を結ぶことはできない。しかし、そうした契約に基づかない責任も考えることができる、とヨナスは指摘する。それは「乳飲み子」に対する大人の責任である(ibid., S.240.)。目の前に傷つきやすい乳飲み子が存在するとき、大人はその乳飲み子を守る責任を自覚する。ただし、大人は乳飲み子とコミュニケーションすることはできないし、なんらかの契約を結ぶこともできない。この責任の根拠は、大人が強者であるのに対して乳飲み子が弱者であるという事実であり、両者の間にある非対称的な力関係だけである。

 

ヨナスはこの、乳飲み子に対する責任をモデルにして、未来世代への責任を考える。弱者がかかえる傷つきやすさは、それ自体で強者に対して保護の責任を課す。そうだとすれば、強者である私たちは、弱者である傷つきやすい未来の世代に対して、それを保護する責任を負う。こうした論証に基づいて、ヨナスは未来の世代への責任を次のように定式化する。「あなたの行為の影響が、地上における真正な人間の生命の存続と両立するように、行為せよ」(ibid., S.36.)

 

 

民主主義と世代間倫理の連結

 

以上のヨナスの思想は、社会的に大きな影響を及ぼし、哲学史の文脈においても新しい地平を切り開くものであったが、同時に、それが民主主義の逸脱する可能性をもつものとして批判を受けた。そうした批判者には、例えば科学哲学者のカール・ポーパーがいる(Popper [1987])。ヨナスのいう未来の世代への責任は、討議によって合意を得るという手続きを踏むことなく課せられる義務である。それは場合によっては暴力的な義務の押し付けにもなりうる。

 

原子力発電所の廃炉をめぐる議論を例にとってみよう。もし廃炉を決定することができれば、未来の世代が被る危険性を軽減することができ、私たちは責任を果たすことができる。一方で、それは現在の世代に電気料金の値上がりを強制するものであり、多くの人々の生活を苦しくさせる。そのため、原子力発電所を存続させるべきだ、と考える人々が社会で多数を占めているとする。そうした状況にあっても、ヨナスの思想は、あくまでも廃炉の決定を促す。何故なら、現在の世代の人々と合意を得られるか否かは、そもそも問題にはならないからである。そうだとすれば、多くの人々は自らの意志に反した生活苦が強いられるのであり、そもそも反論の機会すら用意されていないことになる。ここに、世代間倫理と民主主義の矛盾が露呈することになる。

 

この観点から、両者を接続させようとするのが、討議倫理学の旗手であるカール・オットー・アーペルである。アーペルは、そもそもヨナスが前提にしている、私たちと未来の世代との非対称的な関係を疑問視する。確かに、私たちは未来の世代を一方的に傷つけることができるが、だからといって私たちが「大人」で未来の世代が「乳飲み子」だと考えることは妥当ではない。むしろ未来の世代は、たとえまだ存在していないのだとしても、潜在的には民主主義的な共同体の成員として認められるべきである。そうである以上、私たちと未来の世代は同じ権利を有しているのであり、あくまでも対称的な関係にある(Apel[1988], S.196.)。

 

アーペルは、民主主義の改善を追求することから、未来の世代への責任を導き出す。私たちの社会は、開かれた討議による合意のプロセスによって、ルールを形成していくべきだ。しかし、現実の世界にはそうした討議を阻むものが多くある。権力、偏見、不平等などである。私たちが民主主義を支持する限り、その前提として、開かれた討議の場を実現するための努力が必要になるのであり、コミュニケーションの状況は漸次的に改善されていかなければならない。ただし、もちろんそうした改善は短期的には実現せず、無限とも思える時間が必要である。民主主義の前提となる開かれた討議の場の実現と、そのための現状の不断の改善は、未来の世代へ引き渡されるべき課題である(ibid., S.203.)。そうである以上、私たちは未来の世代が存続できるように配慮しなければならない。

 

アーペルの思想に従うと、現在の世代と未来の世代の利害が対立したときには、どのような結論に至るのだろうか。ヨナスとは異なり、アーペルはあくまでも現在の社会での討議を重視し、そこで得られた合意をルールとして採用する。ただし、そのルールは未来の世代の存続と両立するものでなければならない。そうでなければ、当の討議が依拠している民主主義の基盤自体が崩壊するからである。そのように考えることで、アーペルは世代間倫理と民主主義の連結を試みる。

 

 

 

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