尊厳死の合法化は社会的弱者にとって脅威か

1.日本の尊厳死法案をめぐる論争

 

要約:現在国内でいわゆる尊厳死を合法化しようとする動きがある。終末期患者の延命措置の一部を中止・差し控えできるようすることが狙いである。しかしこれには、重度機能障害者など、周囲の十分な支援を期待しにくい人々のうちから、批判が多く提出されてきている。合法化は、支援不足や周囲の圧力のために患者が延命を諦めるという結果を導きかねないと懸念されているのである。

 

 

2012年、尊厳死の法制化を考える議員連盟が「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(以下、連盟の名称にちなみ尊厳死法案と略す)」を公にした(国会未提出)。2014年4月に再び第186回国会での提出が検討されるなど[*1]、その後もたびたび話題に上がっている。

 

[*1] 朝日新聞、「尊厳死法案 人生の最後をどう生きるか」、2014年4月16日、 朝刊 14面.

 

法案の内容は、「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」(第五条)な患者の延命措置を差し控えるか中止するかした医師について、その法的責任が問われないようにする、というものである。ただしその際「患者の意思を十分に尊重」(第二条)していることが条件になる[*2]。

 

[*2] 法案の全文は、立岩真也・有馬斉編『生死の語り行い①: 尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』, 生活書院、2012年、45-51頁に収録。

 

この法案にはいくつか批判がある。本稿ではその中でもとくに重要と思われる批判の一つに注目したい。これは、主として病人や障害者等、法が実現すればそのルールに則って自分の延命措置の差し控えや中止を要求することが予想される人々のうちから、寄せられてきた。文書で批判を公にした組織や団体には、日本ALS協会、日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」、人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)、全国委脊髄損傷者連合会、DPI(障害者インターナショナル)日本会議などがある[*3]。

 

[*3] 他に全国「精神病」者集団、全国遷延性意識障害者・家族の会、NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会などが発表した文書を立岩・有馬編 前掲書(2012)、II章に収録。

 

これらの団体が懸念しているのは、次のような状況である。

 

延命のために医療措置を要する人は、介護が必要だったり治療費がかさんだりするため、周囲には心理的また金銭上の負担がかかりがちである。加えて、その状態で生き続けることを、本人の意向とは別で、周囲が、本人にとってためにならないと感じることもある。こうした状況では、仮に延命措置の差し控えや中止が合法化された場合、延命措置を要する人にたいして、周囲が、延命を諦めるよう働きかける可能性がある。とくに患者にもともと障害があったり経済的に余裕がなかったりすれば、その可能性は小さくないかもしれない。周囲としてはおそらく多くの場合はっきりと言葉にするわけでなく、また自覚的でさえないかもしれないが、それでも患者に大きい圧力が加わりうる。

 

こうした働きかけのもとで人が自分の延命措置の差し控えや中止を要求する場合、それでも本人の意思を尊重するべきだといえるだろうか。尊厳死法が成立した場合、家族や社会の支援さえあれば、あるいは周囲の圧力さえなければ延命を希望するはずの人まで、支援の不足や圧力のため延命を諦めかねない。法案に反対する人々の多くはこのことを懸念してきた。この懸念を理由に尊厳死や安楽死の合法化に反対する見解を、ここでは「社会的弱者へのリスクに訴える批判」と呼ぶことにしよう。

 

じつは社会的弱者へのリスクに訴える批判は、国内外で尊厳死や安楽死の合法化の動きがあるたび繰りかえし提出されてきた。米国では、個人の死ぬ権利について否定的な判決を下した連邦最高裁判所の見解に組み込まれるなど、政策にも比較的大きなインパクトを与えてきた。そのため、尊厳死や安楽死の合法化を支持する側からもすでにさまざまな反論が提出されてきている。以下ではそれら反論にも一通り目を通しつつ、社会的弱者へのリスクに訴える批判がどこまで有効か少し丁寧に検討してみたい。やや長い論述になるが、尊厳死合法化の是非を議論するにあたって是非とも揃えておきたい材料の一部を整理できればと思う。

 

なお、いま日本で合法化が検討されている延命処置の差し控えや中止と、オランダ等でいちはやく合法化された致死薬の投与や処方とは、それぞれ別の呼称を宛てて区別するのが一般的である。前者は「消極的安楽死」と呼ばれることも多いが、安楽死という言葉にある否定的な響きをきらう人々は代わりに「尊厳死」の語を用いる。また後者については、致死薬の投与までする行為を「積極的安楽死」、処方するだけであとは患者に任せることを「医師による自殺幇助」と呼んでさらに区別することが多い。

 

たとえば、つい先日(2014年10月)、脳に悪性腫瘍が見つかり余命半年と診断された20代の米国人女性が、自宅で自死することを事前にインターネット上で予告し、注目を集めた。この女性は後日、医師から致死薬を処方してもらい、これを飲んで予告通り死亡した[*4]。この例における医師の行為は、ここでの区別に従うなら「医師による自殺幇助」である。

 

[*4] 朝日新聞、「米女性、予告通り安楽死」、2014年11月4日、朝刊31面.

 

2000年頃から米国内のいくつかの州で医師による自殺幇助が、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)では積極的安楽死と医師による自殺幇助の両方が相次いで合法化された。こうした動きに応えて、社会的弱者へのリスクに訴える批判は、海外では延命治療の差し控えや中止の合法化だけでなく、致死薬の処方や投与の合法化にたいする反対論としても多く用いられてきた。本論では、批判がこれまで政策上に与えてきたインパクトの大きさを理解するため、このことにも少し触れる。

 

 

2.合法化が社会的弱者に強いるリスク

 

要約:安楽死や尊厳死の合法化は、社会的弱者に特別大きなリスクを強いると考えられている。これは、たんに社会的弱者が他の人々より支援を多く必要とするから、というだけの話でない。たとえば重度機能障害を持ちながら支援を受けて生きることの価値について、周囲の人々や社会は極めて否定的な評価を下しがちである。リスクの背景にあるのは、社会的弱者の生活のありようにたいするこうした社会の差別的偏見であると考えうる。

 

 

消極的安楽死や積極的安楽死の合法化が社会的弱者にリスクを強いることは、ずっと以前から国内外で事あるごとに繰りかえし指摘されてきた。そこでの重要な論点の一つは、もともと周囲の支援を得にくい人々が、支援を得られないために延命を諦めることを合法化が後押しすることになるのではないかということだった。

 

1978年、日本安楽死協会が「末期医療の特別措置法案」を公表した。「不治かつ末期」の患者について本人の望まない「過剰な延命措置」は中止できるとするもので、結局法制化には至らなかった。同じ年、作家の野間宏や水上勉ら5人でつくる「安楽死法制化を阻止する会」が反対声明を発表している。

 

生きたい、という人間の意志と願いを、気がねなく全うできる社会体制が不備のまま「安楽死」を肯定することは、事実上、病人や老人に「死ね」と圧力をかけることにならない[*5]。

 

[*5] 安楽死法制化を阻止する会、「「安楽死法制化を阻止する会」の声明」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、41-2頁: 41頁.

 

すでに述べた通りその後2012年に尊厳死法案が公にされたときも同様の反応があった。例えばALS患者とその家族でつくられたNPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会の橋本操が法案を批判している。ALSは、Amyotrophic lateral sclerosisの略で、筋委縮性側索硬化症と訳される病気の名称である。発病すると運動ニューロンが少しずつ壊されていき、たいてい数年で自力歩行できなくなるとされる。とくに口まわりや胸の筋肉を動かせなくなると、食べたり話したり呼吸したりすることに介助や器械が必要になる。橋本によれば

 

重度の身体障害を併せ持つ難病患者が[…]事前に治療を断って死ぬ覚悟を患者自らが表明してしまうと家族も医師も安心し、呼吸器の長期装着を勧めてくれなくなります。もし、治療を断るための事前指示書やリビングウィルの作成が法的に効力を持つようなことになれば、ますますこれらの患者たちは事前指示書の作成を強いられ、のちに治療を望む気持ちになっても書き換えはことごとく阻止され、生存を断念する方向に向けた無言の指導(圧力)を受け続けることが予想されます[*6]。

 

[*6] 橋本操、「尊厳死法制化を考える議員連盟の件で」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、52-4頁: 53頁.

 

「人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)」も尊厳死法案を同様に批判している。

 

法律ができてしまえば、人工呼吸器や経管栄養の助けを借りて生きている人たちに対して『「自己決定」のもと「尊厳死」を選択している人たちがいるのに、なぜそうしてまで生きているのか、なぜ死なないのか』という社会の無言の圧力がかかることは必至です[*7]。

 

[*7] 人工呼吸器をつけた子の親の会、「改めて尊厳死の法制化に強く反対します」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、75-7: 77頁.

 

さてしかし、尊厳死の合法化が社会的弱者にリスクを強いると考えられている理由は、たんに社会的弱者が周囲の支援を他よりも多く必要とするから(あるいは支援を他と比べてより少なくしか期待できないから)というだけではない。もうひとつの重要な論点は、たとえば機能障害をもって周囲の支援を必要としながら生きることや、社会的また経済的に不遇な生活のありようにたいする差別的な偏見の影響のていどである。

 

たとえば、日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」は、尊厳死法案の前提に「人間の命を尊厳のある状態と尊厳のない状態に分けて考える」見方があるという。青い芝の会によればこの見方は「障害者差別」である[*8]。

 

[*8] 日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」、「全国青い芝の会は「尊厳死法案提出」に反対し強く抗議します」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、55-7: 56頁.

 

米国や英国には、機能障害者の延命措置を中止してよいとした有名な裁判所判決がいくつか存在する。じつはこれらの判決にたいする批判の中でも、今述べたのと同様の指摘がなされている。経管栄養補給を拒んで米カリフォルニア州の裁判所に訴えたエリザベス・ブーヴィア(Elizabeth Bouvia)は、脳性まひの患者で電動式の車椅子の使用者だった。死ぬために自分の呼吸器を停止してもらうことについてネヴァダ州の裁判所に許可を求めたケネス・バーグステット(Kenneth Bergstedt)は、子どもの頃の水泳中の事故で四肢にまひがあった。ジョージア州のラリー・マカフィ(Larry McAfee)もバイク事故で四肢まひとなり、やはり自分の呼吸器を停止してもらうことの許可を裁判所に求めた。裁判所はどの事例でも、障害者の延命措置の中止を許可した[*9]。

 

[*9] Cf. Gregory Pence, Medical Ethic: Accounts of Ground-Breaking Cases, McGraw-Hill, 2010: Ch.3.(邦訳 グレゴリー・ペンス著、宮坂道夫・長岡成夫訳、『医療倫理学(1): よりよい決定のための事例分析』、みすず書房、2000年).

 

批判されてきたのは裁判所がそのように判断した理由である。ブーヴィア事件の判決文にはこうある。

 

ブーヴィアの見解では、絶望的で、役に立たず、楽しむこともできず、不満ばかりになるほど、彼女の生命の質が落ちていた。無力でベッドに横たわり、自分の面倒をみることもできない患者として、彼女は自分の存在を無意味だと考えたのかもしれない。そのように結論する彼女がまちがっているとはいえない[*10]。

 

[*10] Vickie Michel, “Suicide by Persons with Disabilities Disguised as the Refusal of Life-Sustaining Treatment,” in Mappes and DeGrazia eds. Biomedical Ethics: Sixth Edition, McGraw-Hill, 2006: 335-40. p.336から孫引.

 

死にたいというブーヴィアの選択を裁判所は合理的と見なしたわけだ。ヴィッキ・ミッチェル(Vicki Michel)は、この判決文の中には障害者が生きることの価値を低く評価する差別的な考えかたがはっきり表れているという。

 

ミッチェルの主張の意図を理解するためには、これらのケースと、健常者が死にたいという場合とを比べてみるのがよいだろう。以前から障害のあったブーヴィアが26才で初めて死のうと思ったきっかけは、直前の離婚とその前に経験した流産だった。バーグステットは31才のときそれまで介護してくれていた父親が危篤に陥り、他に頼れる人がいないので死のうと考えた。しかし、仮にブーヴィアとバーグステットに障害がなかったとしたらどうだろうか。

 

障害のない人でも死にたいと思うことは決して稀でない。しかしその場合、例えば流産や離別が辛いからという理由で死のうとする人の決意について、周囲が「まちがっているとはいえない」などと評価するとは考えにくい。そのような人は通常「臨床的うつがあり、心療内科の治療にふさわしい対象だとまずみなされる」[*11]だろう。

 

[*11] 同上、p.338.

 

ところが障害者の場合、死にたいと考えることは理に叶っていると見なされる。米国の事例では、四肢に不自由がある場合、きっかけは流産や離別だとしても、本人が死にたいというなら死んだほうが本人のためだと思われていた。これは障害者の生の価値だけが低く評価されている、ということに他ならない。

 

判決文の前提にあるこうした見方は不当である。ミッチェルは「障害のない人なら自殺防止事業に紹介されることになるのにたいして、障害のある人が死にたいというとそれは理にかなった(reasonable)選択だと思い込むのはとんでもなく差別的だ(outrageously discriminatory)」[*12]と強い調子で非難している。

 

[*12] 同上.

 

 

3.合法化は差別的な意図がなくてもリスクを生じうる

 

要約:安楽死や尊厳死の合法化は、必ずしも社会的弱者の生活のありようにたいする差別的偏見を前提とするものとはかぎらない。しかし、たとえ法律がこのような前提で作られていなくても、法律を運用する医療者や患者家族に同様の偏見があれば、結果として社会的弱者が大きなリスクを被りうる。

 

 

さてしかし、5節の論点を先回りしてひとこと補足しておくと、社会的弱者へのリスクに訴える批判の要点は、必ずしも、合法化の前提に差別的な見方があるという青い芝の会やミッチェルのしたような主張である必要はない。あとで紹介する批判への反論にうまく応えられるようにするためにもこの点は精確に理解しておきたい。

 

死にたいという人の希望はときとして真に合理的と思われる場合があるかもしれない。たとえば車椅子の使用者について、車椅子なしで外出できないなら死にたくなって当然だと周囲がみなすとすれば、それはたしかに差別的である。しかし、たとえばがんの末期で、耐えがたいほどの身体的苦痛を緩和医療でも抑えられない状態が、亡くなるまでしばらく続くと分かっている。そうした患者が十分な支援にもかかわらず、輸液や呼吸器の中止を希望するとしたらどうか。具体的にこうして想像した場合、死にたいという希望が常に合理的でないとは思われないかもしれない。

 

また、そうだとすると、一部の人についてだけ死にたいという希望を聞き入れることは、必ずしも差別的なことではないと考える余地が出てくる。「車椅子で外出するのが苦で死にたい」という人の希望は素直に聞き入れるべきでないけれども、「からだの痛みが耐えがたいから死にたい」という人の希望は場合によって叶えてもよい。このような考えを差別的だとまでいうことは難しいかもしれない。

 

消極的安楽死等を合法化しようとする人の意図は、からだの痛みなど、あくまでいま述べたような具体的にイメージされるいくつかのケースでのみ病人を苦しみから解放することにある可能性がある。だとすると、合法化について、差別的な見方を前提しているという批判は必ずしも当たらない。

 

ただしそれでも四肢にまひのある障害者の自殺を例にとったミッチェルの具体的な論述(2節)は、合法化に伴う社会的弱者へのリスクの内容をよく理解するために非常に有益である。公正を謳う裁判所でさえああなのである。患者の担当医や家族が同様のあきらかに差別的な考えを決してもたないとは考えにくい。だから、仮に合法化のもともとの意図に差別的なところがまったくなかったとしても、いったん消極的安楽死等が合法化されてしまえば、死の間近に迫った状況でだれもが十分な支援のもと真に自律的な決定ができるとはかぎらない。あるいは、決して死ななければならないほどではない状態の患者についても、死のうとするのをだれも止めなかったり、むしろ延命を諦めるよう周囲から圧力がかかったりするかもしれない。そのような可能性があることは想像に難くない。社会的弱者へのリスクに訴える批判に含まれる主張のうちでさまざまな反論を凌ぎうるもっとも強力な主張はおそらくここにある。

 

なお、同じ趣旨の批判は、消極的安楽死(延命措置の中止・差し控え)だけでなく、積極的安楽死(致死薬の投与・処方)を合法化することにかんしても繰りかえしなされてきた。致死薬で一息に亡くなることを希望する患者でも、しばしば周囲に負担がかかったり、死んだほうが本人のためだとみなされたりしうるためである。実際この批判は、後者の合法化が議論される文脈でより大きな注目を集めてきたといえる。

 

とくに政策上大きなインパクトを与えた例としては、まず、米国の障害者団体ノット・デッド・イェットらが1997年に裁判所へ提出した第三者意見書がある。意見書の主張は上述のミッチェルの議論と同様である。意見書によれば、障害者の人生は「依存と屈辱と無力(dependency, indignity and helplessness)の人生」だとみなされがちである。医療者や法曹関係者も、障害者にとっての困難の真の原因が「うつや、ヘルスケアその他の支援の不足、徹底した差別に立ち向かうことからくる消耗」にあることを理解していない。そのため、死にたいという障害者の希望をすぐ「自然で理にかなっている」と考える[*13]。

 

[*13] Not Dead Yet et al., “Amici Curiae Brief of Not Dead Yet and American Disabled for Attendant Programs Today in Support of Petitioners, Vacco v. Quill, 521 U.S. 793,” 1997, http://kwing.christiansonnet.org/sourcebook/_reports/euthanasia_rep_USsupreme.htm (2014年6月6日閲覧) , ARGUMENT I.B.

 

積極的安楽死や自殺幇助の合法化が障害者への大きなリスクを伴うのはこのためである。通常は死にたいという人があればその原因を取り除こうとしたり、うつの可能性を疑ったりするはずだ。ところが障害者の場合「鎮痛剤を出さない、診断や予後評価や治療計画にまちがいがないことを確認しない、インフォームド・コンセントをしっかり得ない、といった医療ミス」が起きる。また「障害のない人にたいしては決して使用されない致死的な手段[=致死薬の処方]が使用される」[*14]。

 

[*14] 同上、ARGUMENT II.A.

 

もうひとつ、やはり米国でニューヨーク州の生命と法に関する特別委員会が1994年に公表した報告書『死が求められるとき―医学的文脈における自殺幇助と安楽死(When Death is Sought: Assisted Suicide and Euthanasia in Medical Context)』がある。こちらはより広範な論点を扱っており、社会的弱者へのリスクについての言及はややあっさりしている。ただし重要な点として、「貧しい人々、高齢者、社会的少数派に属する人々、または良質の医療ケアに手が届かない人々」等、リスクにさらされうる社会的弱者の範囲を広く捉えている点が注目に値する[*15]。紙幅の都合で詳しく紹介できないが、他の文献の中には人種的マイノリティや女性が同様のリスクにさらされると指摘するものもある[*16]。

 

[*15] New York State Task Force on Life and the Law, When Death is Sought: Assisted Suicide and Euthanasia in Medical Context, New York, The New York State Task Force on Life and the Law, 1994. p.xiii

 

[*16] Cf. Margaret Battin, Rosamond Rhods and Anita Silvers eds., Physician Assisted Suicide: Expanding the Debate, Routledge, 1998, Part II; Foley Kathleen and Herbert Hendin, eds., The Case Against Assisted Suicide: For the Right to End-of-Care, The Johns Hopkins University Press, 2002, Part III.

 

前者の意見書の文章は、医師による自殺幇助を禁止する州法について、違憲といえないと結論した連邦最高裁判所の判決(Vacco v. Quill)の中で引用された。後者の報告書は、知事の命で組織された委員会作の州政府公文書であり、積極的安楽死の法的妥当性を否定する内容となっている。どちらも、批判の主旨が政府側の意見に取り入れられた例であり、のちの政策への影響力の大きさからいって特別に重要な例である。たとえばディヴィッド・マヨ(David Mayo)とマーティン・ガンダーソン(Martin Gunderson)は、これらふたつの文書に代表される議論が「自殺幇助の合法化にかんする社会的論争において突出した役割(a prominent role)」を果たしてきたと述べている[*17]。【次ページへつづく】

 

[*17] David Mayo and Martin Gunderson, “Vitalism Revitalized: Vulnerable Populations, Prejudice, and Physician-Assisted Death,” Hastings Center Report, 32, no.4, 2002, 14-21. p.15.

 

 

 

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