障害者差別解消法、社会に求められる“合理的配慮”とは?

限りあるリソースの中で

 

荻上 こんなメールもきています。

 

「車椅子ユーザーです。毎日、自宅の目の前にある駅から電車で通学しています。ところが、昨年4月から早朝と夜間は無人駅になり、その時間帯は駅で乗車・降車ができません。乗車・降車の際、車掌さんなどにスロープを出してもらえないかと聞きましたが、『車両から離れたら安全確保ができない。一つ前の有人駅で降りてください。』と言われました。事業者側の顧問弁護士は、これは差別解消法に反していないというのですが、どうなのでしょうか。」

 

近藤 かなり難しい問題ですよね。ただ、求めていくことはおかしいことではないので、対話を続けていくしかないと思います。日本の法律というのは調停が何重にも入る仕組みになっているので、いろいろなところに相談して、上手くいかなかったら次の段階で調停をお願いする。とくに前例が少ないケースでは、自分から対話を積極的にやっていき、フロンティアになることがどうしても必要になってくると思います。

 

荻上 おそらく、このメールの方は自宅の近くの駅を利用したいという明確なニーズがあるわけですよね。それを、いきなり一つ前の有人駅で降りてくださいというのは乱暴なような気もします。別の方法で段階的なやり口を検討することはできそうですよね。

 

たとえば、民間の方に車両から離れたところでの移動の介助をお願いするなどして、車掌さんはスロープを手渡すだけで良いという形にするとか。介助をする人も切符代は無料で駅の中に入れるようにしたり、乗車する時と降車する時とで別の人が分担して介助をするなど、さまざまな構想の余地はあると思います。

 

近藤 そう思います。合理的配慮とは、どこかの部分で柔軟な調整をしなければならないので、とにかく建設的対話を働きかけてみるしかないんですよね。

 

荻上 その間の道筋をもう少し探る余地がありそうですよね。それを探るのが合理的配慮なので、探らずにいきなり隣の駅まで自力で行けというのは差別解消法の理念に反する気がします。ただ、それが違法なのかと言えば、明確にはそうとは言えないと。

 

近藤 そうですね。何が違法かという最終的な決着は裁判所の規範的な事例が示していくことですが、対話をすることは法の趣旨として勧めているものなので、それは引き続き行って良いことだと思います。

 

荻上 車椅子ユーザーの大野さんはどうお感じになりましたか。

 

大野 とくに地方の調査に行くときに感じることですが、高齢化が進行して自治体の人口が減少しているような地域では、一般の人々に対する社会サービスの質自体が低下している場合があるということです。当事者の方がより発現しにくいような環境が生じていると考えられます。

 

荻上 限りあるリソースのなかで、どうすれば当事者がより生きやすくなるのでしょうか。

 

大野 合理的配慮の提供は、新しいテクノロジーによって解決を促進していくという方向性もあります。例えば発達障害の方への提供の際にiPadを教育現場に導入するなど、コストをなるべくかけずに合理的な調整をしていく方法もあると思います。コストはある程度かかるけれど、一旦の調整がご本人以外の多くの方々の便宜を図る結果となる場合もあります。

 

東京都内の地下鉄などでは、無人でも使用できるスロープ付きの自動ホームドアを設置している場所もありますね。このような施設はご本人だけでなく、その他の大勢の高齢者の方々やベビーカーユーザーの方々の使いやすい一般的な形態として維持することが可能です。

 

荻上 そうですね。最新の福祉機器を紹介している「国際福祉機器展」などに行くと、キャタピラー型の車椅子や、一段くらいの段差だと自力で乗り越えることができる車椅子なども展示されています。そうしたものが当たり前になれば、ゆくゆくはスロープは不要だという状況になるかもしれない。ただ、今は明日の通勤・通学で困っているので、おそらく駅と交渉するだけでなく、市役所や地域のNPO団体と交渉して介助を手伝ってもらうとか、やり口はいろいろあると思います。

 

近藤 大学の支援なども全く同じで、合理的配慮だから自分たちだけでやらなきゃいけないと考え始めると、必ず袋小路になります。保証しなければならないのは、その人が今やりたいと思っていることです。そのためには柔軟に、使えるリソースは何でも使っていくべきです。

 

荻上 なるほど。リスナーからのメールをご紹介します。

 

「私が感じるのは、見た目には障害者と分からない、学習障害に対する差別です。学習障害者は他人とのコミュニケーションも普通にできるので、社会的に認識がほとんどないのが現状。福祉の面からも学習障害者は事実上、障害として認められていない、言わば障害者として抜け落ちている存在です。

 

就職をしたくても単に能力がないと判断され、また国からも障害者としても認められていないので、障害者手帳も交付されない、支援も全く受けられないのが長年に渡って続いています。ですから、学習障害者についてもっと理解をしてもらい、国と社会から障害者として認めてもらいたい。差別や偏見もなくなって支援もしてほしいと思います。」

 

そして、もう1通ご紹介します。

 

「脳性麻痺と内部障害のある障害者です。大学で教員をしています。どんな社会になって欲しいかと言えば、言いたいことはいくつかあります。それなりの年数を生きてきて感じるのは、障害のある人が社会を変える、変えられる存在になれる社会にしたいということです。

 

どうしても社会では障害のある人は福祉サービスを受けるひと、支えられる人といった受け身のイメージで見られがちで、自分も周囲の目を過剰に意識して、目立ちすぎないようにこっそり生活をしてきました。幼少期から障害のある人はない人とは異なる空間、特別支援学校・特別支援学級で教育を受けることが多く、健常者と障害者の関わりに大きな壁ができてしまっています。

 

合理的配慮を円滑に行うには幼少期からの相互の関わりを増やすことが必要だと思います。そうすれば、障害がある人ももっと社会に積極的に関わり、変革者になれるのではないでしょうか。」

 

合理的配慮をしてあげるように学びましょうと言うだけではなく、今までの「障害」の枠組みや関わり方の関係性そのものを見直していく機会にしてほしいというメールが二つ続きました。

 

近藤 今回の法改正で日本は初めて合理的配慮というアプローチに入るので、やはり必要になってくるのは障害のある当事者がしっかり声をあげていくことだと思います。そして、障害があることを歓迎して一緒に過ごしていくことが当たり前になるような社会を強く願っています。

 

大野 昨年にアメリカへ調査に行ったとき、差別解消法の産みの親でもあるADA法(1990 年成立)が成立してちょうど25周年でした。あちこちで25周年をお祝いするパレードが行われていて、合理的配慮の提供は既に一般的な規範として社会に定着していました。日本でもきっと、そうなると思います。

 

荻上 今後いろいろなケースが出てくると思いますので、「この場合の合理的配慮はどうなんだろう」と語り合う場を大切にしていきたいですよね。

 

 

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