歴史の証言者たち ―― 日本の『制度』をささえた人びと(3) 堀利和~憲政史上初の、盲人の国会議員~

日本憲政史上初の、視覚障害をもつ国会議員

 

何か大きな組織に由縁があるわけでも、政治家の家系と関係があるわけでもない。何の知名度も資金源もなく、1986年の第14回参議院通常選挙に「自分で発言」「民主主義の原点」といういたって地味な理念を掲げて立候補した。その際には、落選する。一政治家としての堀さんは、頑固なまでの理想主義者であるという印象が強い。

 

“私は、代弁者としてのすぐれた政策通の議員も確かに必要だが、それにもまして、障害を持つ議員が自らの体験、発言、行動によって議会に参画し、かかわり、直接存在することによって政策決定に大きな影響を与えることも極めて貴重な現実、決して理想ではなくて現実であると確信する。- [1995年 堀]”

 

リクルート事件で竹下内閣が退陣した直後の、1989年7月、第15回参議院通常選挙で社会党比例代表で当選をした。同年11月はベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造下の政治体制に大きな変化が起きた年でもあり、「そのような時代の雰囲気の中にあった」と堀さん自身も振り返る。

 

 

“<赤じゅうたんも白杖には不便>

7月の参院選で社会党比例区から当選した視覚障害者の堀利和議員(39)が16日、同院社会労働委員会で初めての質問に立ち、障害者の社会参加について思いを訴えた。秘書の介添えつきでの議会へのデビューだが、目の不自由な議員を想定していない国会の建物構造自体が堀議員には大敵。さらに肝心の国会資料は点訳されているわけではなく、政治活動に支障が大きい。

…(中略)…国会には設備はなく白杖も議場持ち込みは許可がいる。赤じゅうたんも音を吸い込み、白杖がつっかえるので、視覚障害者には不便という。

…(中略)…堀議員は当選後すぐに、参議院に 1)基本文書の点訳と録音 2)点訳、墨字(普通の文章)訳、朗読ができる介助者をつける、などを要求した。参院は直ちに憲法、国会法や「議員のしおり」「議員食堂メニュー」などを点訳。議員会館内に点字ブロックを設置し、エレベーターのアナウンス設備も発注した。だが堀議員は「一番必要なのは審議のための資料や情報」と不満。「国会の資料は全部墨字。会議で資料を出されて「●ページの●行目」と言われてもわからない。キチンと活動するには配られた資料をその場で読んで聞かせたり、点訳する介助者が必要という。 – [1989年11月17日 毎日新聞]」”

 

 

1989年当時の国会議事堂や議員会館には、点字ブロックはなく、エレベーターの音声アナウンスもついておらず、白杖は凶器とみなされるので持ち込むことはできなかった。

堀さんに限らぬことであるが、戦後の障害者当事者運動の担い手たちは、ひとつひとつの制度をこうして要求して――もはや、古臭い表現なのであろうか――獲得してきたのだと、色が変色した当時の新聞記事のスクラップを集めながら思う。

 

 

就労の支援者として

 

大学を卒業した堀さんは、1974年に、認可保育園の産休代替の非常勤で「保父」として働いた。

 

 

―― 「保父」ですか

 

「当時は、保父なんていなかったよ。ほとんど保母さんでした。その保育園の園長先生が進歩的というか、理解のある人だったんですね。盲人だから、日誌もかけないし絵も描けない、絵本も読んであげられないんですよ。でも3歳・4歳児の子どもたちの遊び相手をしていました、子どもたちには人気がありましたけど」

「三か月間の約束だったんですが、二か月目で肺炎を起こしてしまって。そこで入院してしまって、辞めてしまったんだけれども」

 

 

―― 以降、障害者の就労についての運動に尽力されておられます。

 

「翌75年になって、東京都などの自治体の人事院と、特別区の職員採用試験を障害者が受けられるようにと、行政と交渉を始めました。もちろん、最初は断られましたよ。「目の見える人しか採用しません」ってね」

「当時、「障害者の労働権」を主張する運動なんて、他にはありませんでした。」

 

堀さんは現在、「共同連」という、障害者の就労の場をつくることを目的としたNPO法人の代表をつとめている。

 

「共同連の歴史は、80年代からです。1984年に設立されます。当時、制度らしきものは何もなかったのだけれど。ヨーロッパで「ワーカーズコレクティブ」という方式で障害を持っている人が、自分たちで働く場を共同運営しているらしいということを聞いたんです。それを参考にしました」

 

―― 確かに、「ワーカーズコレクティブ」は日本語に訳すと「共同運営共同経営」と表現できますね。

 

「10年ほど前に、イタリアに「社会的協同組合法」というものがあると聞いたんです。それで実際に行ってみたり、実態を勉強したりしました。今は障害のある人だけじゃなくて、社会的に排除されている人たちの場についても考えています。「ソーシャルインクルージョン」、社会的包摂というものを目指してきました」

 

 

震災と視覚障害の「壁」

 

白杖の翁の表情は、どんな話題を喋るときもあまり変わらない。けれどこの日のインタビューの終わりにすこし憂鬱な表情をして、このようにも語った。

「15年前に厚生省(当時)が、視覚障害者30万人を対象に、初めて点字の実態調査をしたとき、点字を読める人は1割にも満たなかったんです。9割は読めない、書けない。でも視覚障害対策というと、いまだに「点字」の固定的なイメージが強いですね」

 

「震災の時は、本当に悔しい思いでした。東日本大震災の沿岸部数百キロには、1800か所以上の避難所が点在していましたが、そこを日本盲人福祉委員会の職員が訪ね歩いたんです。避難所の担当者もほとんど視覚障害者の存在を認識しておらず、最初は見つけることができなかった」

「当初は、避難所で視覚障害者であることを隠している人がかなりいたようです。視覚障害者は、これは全国の統計ですが、もう6割以上が65歳以上で、さらにはその多数派が、中高年以降に失明した中途視覚障害者です」

 

 

―― 東北の土地柄もあるのかもしれません。周囲に知られないように、迷惑だと思われないようにと、避難所で障害や疾病について話すことすらできないという話は、頻繁に伺います。

 

「関東や関西の視覚障害者の当事者団体が中心になって、岩手、宮城、福島の三県の当事者団体の名簿と点字図書館の名簿のリストを探しあてて、自宅を訪ねたり近隣の避難所を探し回ったんです」

「震災発生から宮城では3か月、岩手と福島では1年以上が経過してから、徐々に支援の要望が届くようになりました。でもね、「白杖がほしい」とか、本当に初動のレベルのことで、1年経過してからそういう支援が始まったところなんです」

「話を聞いていると、限界状況で耐えていたんだけれども結局、避難所での生活を続けられずに、半壊状態の家屋に戻っていたりね。あるいは避難所の情報はほとんど「張り紙」でやりとりされるから、視覚障害者は食料の情報もわからないような状態でした」

 

最後に、ご自宅で使われている点字を「打つ」、点字板の話になった。わたしも、合併症として薬の副作用で既に白内障が始まっており、緑内障やその他の目の疾病のリスクが非常に高い身だ。目が見えなくなったらどうしようか、と時々ふと考えることがある。

 

―― 堀さんご自身は、やっぱり点字が使いやすいんですか。

 

「その部分は、アナログと言われるかもしれないけどね。音声読み上げのソフトウェアなんかはスピードは早いかもしれないけど、丁寧に読み書きするには向いてないでしょう。論文調の文章にはあまり向かないというか、推敲は難しいですね」

 

「わたしにとっては、古典的な点字というのは、考えながら書けるんです」

 

*「歴史の証言者たち」は不定期連載として継続していきます。

 

 

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)書籍

作者大野更紗

発行ポプラ社

発売日2012年6月20日

カテゴリー文庫

ページ数356

ISBN4591130215

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