2017.12.29

全ての人の「生」を肯定する――生活保護はなぜ必要なのか

つくろい東京ファンド代表理事、稲葉剛氏インタビュー

福祉 #生活保護#生活保護基準引下げ

全ての人に「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する生活保護制度。本来生活に困窮する全ての国民を守るために作られた制度だが、利用者への強い偏見から、利用をためらう生活困窮者は多い。利用者に対するスティグマの言説は、どのように築かれたのか。スティグマが蔓延した社会的背景とは。東京都内で生活困窮者の支援に携わっている「つくろい東京ファンド」代表理事で、立教大学大学院特任准教授の稲葉剛氏に伺った。(取材・構成/増田穂)

生活保護の利用は「恥」?

――日本の生活保護では、受給漏れが問題になっています。本来であれば生活保護を受けられる人が、そのセーフティネットから漏れてしまっている。漏れている人の割合は要件を満たしている人のうち7、8割に達するとありますが、稲葉さんはこうした日本における生活保護利用のハードルとして、利用に対しての社会的なスティグマが強いことを指摘されていますね。

ええ、イギリスやその他のヨーロッパ諸国では、低所得者を公的に支援する公的扶助制度は権利として社会全体に認められているのですが、日本ではそうした認識が非常に低い。生活保護を利用するということが、何か「お上の世話になる」ような、恥と考える傾向がとても強いんです。

2012年にはお笑い芸人の親族の方が生活保護を受けているのがけしからんという話があって、テレビをはじめ週刊誌などでも生活保護バッシングが行われました。あの時も片山さつき議員をはじめ、自民党の議員から「生活保護を受けることを恥だと思わなくなったことが問題である」といった発言が繰り返され、「生活保護=恥」という言説が広がってしまいました。

このように偏見が強くなってくると、生活に困窮していても、生活保護利用者になることが恥ずかしくて、申請を踏みとどまる方も出てきます。路上生活者の中には70代、80代の方もいて、体力的にもかなり厳しい生活ですから、私たち支援者としては生活保護の申請を勧めるのですが、身体が動く内は人の世話にはなりたくない、と拒否される方が多いんです。

こうした心理的なハードルを乗り越えて利用にいたっても、今度は自分が生活保護を利用していることに引け目を感じて、周囲の人や以前関わりのあった人には打ち明けられないといった話はよく聞きます。

――ご著書『生活保護から考える』(岩波新書)の中では当事者の方ご自身が生活保護を利用していることをなかなか受け入れられないといったお話もありました。利用者自身が自分に対して強いスティグマ、拒絶感を持ってしまっているように感じました。

世間の偏見やマイナスイメージがとても強いため、そのことをご自身も内面化してしまって、恥ずかしいとか、後ろめたいといった気持ちを抱かれる方は多いですね。さきほど申し上げた生活保護バッシングの時も、世間からの生活保護利用者への風当たりが大変強くなりました。我々生活困窮者支援団体も、当時、生活保護利用者へ向けた緊急の相談窓口を開設して、当事者の方たちの不安や悩みを相談できるようにしたのですが、当事者の方からは、バッシングキャンペーンが広がってからは周囲から見られているのではないかと恐怖を覚えたり、結果として外出できなくなったといった声もたくさん上がってきました。

生活保護バッシングをはじめ、多くの人が生活保護に対してこうした負の印象を持っていますが、本来生活保護は生活が困ったときに権利として利用できる制度なんです。これは2006年頃から私たちが行っている反貧困運動の中でも広報に努めているのですが、議員発言をはじめ、なかなかそうした認識が広まっていない、それどころか事実に反するような言説が広まってしまっている。

広がる無理解、福祉事務所職員にも

――稲葉さんは日本では生活保護の「権利」が「恩恵」、つまり「やってあげる」ものとして認識されていることの問題は常々ご指摘されていますね。

ええ。日本国憲法の25条には、「健康で文化的な最低限度の生活を保護する」という内容の規定があります。この規定は生存権と言われていますが、基本的人権の視点から、どんな人であろうと無条件に人間らしく生きることを保障するものです。生活保護は、この条文に基づいて生活困窮者の最後のセーフティネットとして存在しています。特に戦後、1950年に生活保護法の抜本改正が行われた時には、欠格条項、つまり「こういう人は生活保護を受けられませんよ」という規定はすべて取り払われ、無差別平等に生活に困っていれば誰でも制度を受けられるようになったんです。ですから生活保護は、本来は年金や失業保険と同じように、必要な人は誰でも引け目などを感じずに権利として利用できるものなんです。

しかし現実の運用としては、福祉事務所の職員により恣意的な判断がされていたり、水際作戦で追い返されたりして、無差別平等には支給されていない。そればかりか、現場では窓口に相談に来る人を不正受給や犯罪の予備軍と見なすような対応、発言などがされ、スティグマ強化に一役買ってしまっている。本来生活困窮者に寄り添うはずの制度、そしてそれを運用する側の人間が、利用者に対して差別や偏見の視線を向けてしまうことが非常に多いのです。

――福祉事務所からは、例えばどのような対応があったのでしょうか。

少し前のことになりますが、例えば2012年には東京都目黒区の総合庁舎において、「受付窓口での不当な要求や暴力に対する訓練」と称して、「生活保護の申請に来た来客に対して、職員が申請書を確認したところ、要件に該当しなかったことから受理を拒んだところ、来客者は、受理されないことに腹を立て興奮状態となり、刃物を出して振り回すという想定」のもと「危機対応訓練」が行われました。

そもそも福祉事務所の窓口には申請の受理を拒む権限はなく、仮に生活保護の要件に該当しない場合でも、調査をした上で却下決定を出すべきであり、申請自体を受け付けないというのは違法行為なのですが、そうした前提で訓練が行われた上、「支援を必要としている人」を犯罪予備軍とみなし、偏見を増長するものでした。

今年1月には小田原市の福祉事務所職員が「保護なめんな」と書かれたジャンパーを長年着用していた、という問題も発覚しましたが、こうした福祉事務所職員の無理解や偏見も生活保護行政が抱える大きな問題のうちのひとつです。

――本来制度を熟知して、当事者たちに寄り添うはずの職員が、なぜこのような対応をとってしまうのでしょうか。

福祉事務所の職員が、専門職採用でないことが大きな要因だと考えられます。横浜や川崎など一部の地域では、福祉事務所で専門職を採用していますが、全国ほとんどの自治体で専門職採用は行われていません。着任するまで全く別の職務にあった人、例えば税金の徴収窓口にいた人がいきなり福祉の窓口に回されるといったことが起こっています。当然、生活保護に関する専門的な知識は持っていない上に、一般の人が抱いているような負のイメージをそのまま持って業務をこなしていたりする。結果として、窓口で違法な対応がとられたり、申請者に対して不当な対応がとられたりするんです。

――窓口の職員自身が生活保護をめぐる問題をしっかりと理解していないと。

ええ。本来福祉事務所での生活保護の相談というのは、かなり多分野にわたる知識が必要な職務です。ホームレスの方をはじめ、知的障害や傷病を抱える方、DVや虐待の被害者など、複雑かつさまざまな問題を抱えた方がいらっしゃる。それぞれがセンシティブな問題で、専門的な知識を必要とするのですが、申し上げたように専門知識のない人が対応することになり、研修も不充分なので、申請の意思を挫くような発言や対応がとられたりする。そういう話が生活困窮者の間で広まって、余計に申請に行くのをためらう人が増えたりしています。

また、近年の生活保護利用者の増加に職員の数が追いついていないので、特に都市部の福祉事務所職員はオーバーワークになっています。そのため、福祉事務所は役所の中で不人気職場と言われており、ベテランが育たないという話もよく聞きます。

最低限の生活を保障する制度

――2013年には生活保護基準の引き下げが行われました。今あったような偏見や無理解が広まっていることもあり、引き下げに肯定的な意見もあちこちから聞こえていますが、引き下げが実行されたことでどのような問題が起こるのでしょうか。

生活保護基準の引き下げは、最低生活費の基準を下げることを意味します。最低生活費とは「ナショナルミニマム」とも言われ、国が国民に対して保障する生活の最低水準のことです。このナショナルミニマムの基準をもとにして、さまざまな社会保障制度が成り立っているます。つまり、生活保護の引き下げによりナショナルミニマムの基準が引き下げられるということは、「社会保障の岩盤」が崩れ、その他のいろいろな社会保障制度の基準が厳格化されることを意味します。

2013年の引き下げの際、私たちが国に問い合わせたところ、影響を受ける制度は38に上りました。1番影響を受けたのは就学援助の基準です。就学援助とは、生活保護世帯に限らず、低所得者世帯のお子さん向けに修学旅行費や学用品代等が支給される制度です。自治体によって支援額が異なるのですが、大体生活保護基準の1.1倍とか1.3倍に設定されているところが多い。つまり、生活保護の基準が下がるということは、就学援助の基準も厳しくなるということになります。場合によってはそれまで支援を受けてギリギリでやりくりしていた子供が支援を受けられなくなるということもある。生活保護基準の引き下げは、言うなれば日本の社会保障制度全体の地盤沈下なのです。

――生活保護費が年金よりも高いのはおかしい、といった声も聞かれますが、そのあたりはいかがでしょうか。

それはよくある誤解ですね。確かに、生活保護の基準と基礎年金の基準を比較して、生活保護基準が年金よりも高いことを指摘したり、最低賃金でフルタイムで働いた金額よりも生活保護費が高いことを指摘する声はあり、だからこそ生活保護基準を下げるべきだ、という意見はよく耳にします。

しかし生活保護の趣旨とは、「健康で文化的な最低限度の生活を保障する」というものです。ですから年金収入や労働収入があっても、その収入では健康で文化的な生活を維持できない、というのであれば、足りない分だけ支援を受けるということも可能なんです。「補足性の原理」といいますが、これがあまり知られていない。

資本主義の世の中ですから、健康で文化的に暮らすには、どうしてもお金が必要になります。そのための最低ラインを決めているのが生活保護なんです。ですからそのラインに達していなければ、日本社会に暮らす全ての人たちが利用できる。こうした制度が理解されず、不正受給や年金との公平性などについての議論で生活保護基準を引き下げようというのは筋が通りません。そもそも、賃金との公平性などを議論するのであれば、最低賃金を上げることで公平性を担保すべきです。

――不正受給も実はとても限定的なんですよね。

ええ。予算ベースでいうと全体の0.5%以下です。ごく一部なのですが、あたかもそれが蔓延しているかのような印象が植えつけられている。メディアでも生活保護の問題が取り上げられる、といえば不正受給の話になりがちで、受給漏れの問題はほとんど取り上げられません。

扶養義務強化の課題

――生活保護の厳格化については、生活の困窮は家族で助け合うものとして扶養義務を強調する動きもあります。

芸能人をめぐるバッシングを受けて、2013年に生活保護法が改正され、民法上の扶養義務者、つまり親族への圧力を強化することを可能にする法改正が行われました。日本の生活保護制度は、各国の公的扶助制度、貧困対策に比べて、非常に家族主義的な側面が強い。これは民法で家族はお互いに助け合わなければならない、ということが定められているからなのですが、このため、生活困窮者に対しても、親族による扶養が生活保護に優先する、という規定があるんです。

従って、生活保護を申請すると、扶養照会といって、家族に問い合わせが行く。それが嫌で生活保護の申請に踏み切れないという方は結構いらっしゃいます。特に家族との関係が悪い方はこうした傾向が強く、事実上制度から疎外されてしまう。厚労省はDVや虐待などの事情があれば家族には連絡しないと言ってはいるのですが、当事者の方から話を聞くと、家族との関係に問題があるので連絡しないでほしいと言ったにもかかわらず連絡を取られそうになり、結果的に申請を諦めざるを得なかったということもあります。扶養義務の強調は、制度から排除される生活困窮者を増やすことになりかねません。

――DVなどは、連絡がついてしまうと大変ですよね。

そうなんです。確かに家族で助け合って、困難を乗り切るというのは美しい話かもしれませんし、実際に助け合っている家族もたくさんあります。しかし、生活に困窮している人の中には家族関係に何らかの問題を抱えている人が非常に多いのも事実です。たとえばDVだったり虐待だったり、家庭内で暴力や支配といった問題を抱え、それが精神的な疾患につながり働けなくなっている人もいます。

家族というのはブラックボックスなんです。何か問題を抱えていても、外からはわからないことが多い。40代50代になっても親との間の支配的な関係から抜けられず、精神的にコントロールされていることもある。障害年金などの収入を搾取されている場合もあります。逃げようと思って親元を離れても、他につながりがなくて、生活に困窮すると吸い寄せられるように親のところに戻ってきてしまったりする。

そうした状況にある人にとって、家族の助け合いを促すというのは支配関係を継続させ、貧困状況を引き延ばす要因になりかねません。自立を促すためにも、生活保護を利用して家族との距離を置き、困窮した生活状態から脱するための足掛かりにすることもあるんです。

――家族間での扶養を強調することで、子供が親の生活を支えなければならず経済的余裕がなくなり、結果的に貧困の世代間連鎖が起こるという話もあります。

ええ。ここ数年、貧困の世代間連鎖を断ち切ろうということで、子供の貧困対策が進んでいます。生活保護などの貧困世帯の子供たちへの無料学習支援も広がってきました。こうした一連の支援のおかげで、貧困世帯の子供たちの進学、就職にも一定の成果が出てきています。

しかし、家族の助け合いが強調されるようになると、進学して、独り立ちして、収入を得るようになった子供は、今度は親を養わなければならなくなる。教育支援や就労支援により、子供は生活保護から抜け出せても、どんどん年を取る親が生活保護から脱するのはかなり難しい。そうすると子供は延々と親の扶養という責務を負い続けなければならなくなります。その分、経済的に圧迫を受けることになり、生活が苦しくなったり、夢を諦めなければならなくなったりする。一方で経済的に余裕のある家庭に生まれた子供は、親の扶養から事実上、免除されています。子供たちの人生における公平性から考えても、家族の助け合いを制度化することには問題があると言わざるを得ません。

――家族だけでどうにかしようとした結果、一家で生活に困窮し、餓死した状態で発見される、といったニュースもありましたね。

生活保護に限らず、日本の社会保障制度全体に言えることですが、家族主義の弊害が出てきていると思います。介護でも、家族が介護するのを当たり前とするような社会的認識があって、制度もそうした家族主義を前提に取り決められているところがある。結果的に一人で負担を抱え込み、介護殺人に発展するようなケースもあります。生活困窮者の支援を行っている立場からすれば、家族に過度な負担がかかりすぎている現状があります。

自民党などの保守派には家族の助け合いを憲法にも盛り込もうとする動きがありますが、とんでもないことです。逆に社会が家族に押しつけてしまっている過分な負担をどう社会全体で分担するのか、といった視点で社会保障を組み立て直さなければならない、と考えます。

見えない稼働能力の有無

――生活保護に反対する論調として、生活保護を支給すると、利用者が働かなくてもお金がもらえると甘えてどんどん自立しなくなる、というものがありますが、この意見、現場の方としてはどのように感じますか。

稼働能力のある人、つまり働くことができる人の生活保護利用については、特に厳しい意見がありますね。2008年のリーマンショックで失業者が増えて生活保護利用者が増加したことで、働ける者が怠けて生活保護を受けるのはけしからん、楽をしていて許せない、といった論調が広がりました。確かに事実としてリーマンショック後、一時的に働ける年齢層の人たちの生活保護利用は増えました。しかし、これはその後、失業率が下がる中で減ってきています。そもそもナショナルミニマムを守ろうとする生活保護の趣旨から考えて、失業者が増えれば、その分生活が困窮する人も増えますから、利用者が増えるのは当然で、怠けているいないの問題ではないんです。稼働能力があるか否かと、稼働する場があるかは別の問題です。

現在、生活保護世帯のうち約8割は高齢者、障がい者、傷病者、母子世帯で占められています。それ以外の世帯を「その他の世帯」と区分し、稼働能力のある人たちの世帯はここに含まれます。「その他の世帯」への生活保護の支給は全体の2割弱を占めますが、世間ではその2割があたかも全員バリバリ働けるようなイメージで語られている。しかし実際には年齢としては50代くらいの方が多かったり、現時点では福祉事務所が傷病や障がいを認知していないだけで、実際には何らかの隠れた症状を抱えている人が多いんです。

例えば東京都立川市では2015年12月に、40代の生活保護を受けていた男性が就労指導に従わなかったとして保護を打ち切られた翌日に自殺するという事件がありました。現在、法律家やNPO関係者による調査団を組んで事実確認を行っているところですが、彼はよく周囲に「死にたい」と漏らしていたという証言もあり、うつ病を発症していた疑いがあります。しかし精神科の受診には至っておらず、福祉事務所は稼働能力がある前提で男性に接していた。福祉事務所としては、男性が働けるにもかかわらず仕事探しが不充分であった、という理由で保護を打ち切っているのですが、結果として精神的に追いつめてしまい、自殺という悲劇につながってしまったのではないかと思っています。

――診断されていないだけで、実際には働けない状況にある人も多いのですね。

一般的には、働ける人と働けない人を機械的に2つに振り分けることは簡単だと思われがちですが、現実的にはそこははっきりわかれているものではないんです。特に昨今は労働市場全体が、労働者に対して高いスキルを求めているので、精神疾患や発達障がいを抱えている方は一見して働けるように見えても、就労が難しいこともある。

高度経済成長期のような経済状況、労働環境であれば、多少の知的障がいを抱えていたり、字が読めなかったりしても、仕事に就くことができました。身体的に健康で、重労働を厭わなければ、肉体労働で働くことができたんです。しかし今は時代が変わって、産業構造が変わったため、人とのコミュニケーションが苦手な人はなかなか仕事に就けません。また職場環境も変わり、例えばメールやレポートでの業務報告が必須になっているため、字を読んだり書いたりするのが苦手な人にとって就労は困難になりました。

時代の変化とともに労働市場に参入するハードルが上がっている。従来のように単純に体が動くからとか若いからといった理由で、働ける働けないを分類できなくなっています。こうしたグレーゾーンの人たちの状況をきちんと踏まえて就労支援をする、寄り添い型、伴走型の支援が必要だと思います。

生活保護と人権

――冒頭でイギリスをはじめ外国では公的扶助は権利として社会全体に認知されているという話がありました。確かに日本ではそうした認識が薄いと感じるのですが、その理由はなんだと思いますか。

生活保護や社会保障の問題に限らず、やはり日本社会では基本的な人権が無条件に保障されるべきであるという認識が低いと思います。つまり当人が良い人か悪い人かということは関係なく、尊厳は守られ、最低限の生活が守られるべきだという価値観です。

日本での生活保護は、権利としてではなく、品行方正な弱者に対する恩恵として受け取られがちです。例えばリーマンショックの影響で2008年から2009年にかけて派遣切りが問題となり、メディアで貧困問題に関する報道が急増したことがありましたが、当時の報道の主流は、「これまで一生懸命働いてきたのに急に仕事を失って、生活に困窮している。それでも健気に生きている」という悲劇の美談なんです。もちろんその話自体は嘘ではないのですが、話の持っていき方が「かわいそうだから助けなければならない」という運びになっている。

これは裏を返せば「かわいそうに見えない人は助けなくていい」ということになりかねない。それが例えばホームレス問題に限らず、貧困高校生へのバッシングなどにもつながっているのでしょう。私たちの社会が「助けられる人」に対して、無意識のうちに「清く、正しく、美しく」あることを求めてしまっている。だからちょっとでも自分が持っている「“かわいそうな人”像」から外れると、徹底的に攻撃する、ということになるのではないかと思います。

確かにこうした美談的なストーリーを私たちのような支援関係者が利用することもありますし、そこをとっかかりに貧困や生活保護に関する問題を考えてもらえるのは有難いことです。しかし、繰り返しになりますが、生活保護は全ての人に最低限度の生活を保障するための制度なんです。これは全ての個人の「生」を無条件に肯定するという、基本的人権の価値観にもとづいたものです。

素行が良いか悪いか、勤労意欲があるか無いかは、客観的には判断できません。こうした指標を生活保護の利用に規定すれば、それは役所の窓口での恣意的な選別につながりかねない。そうした選別や排除が起こらないように、生活保護では欠格条項を全て廃止し、必要な人に無差別に支援をするように取り決めているのです。「かわいそう」に見えるかどうかで選別をするという日本人の社会保障に関する恩恵的な意識の背景には、人が生きるということを条件付きでしか肯定できない感性が蔓延しているのではないかと思います。

生活保護を正しく理解するためには

――ご著書の中あった「私たちの社会がいかに生活保護利用をめぐる偏見やスティグマにとらわれているかに気付かされる。それは当事者の身近にいるはずの支援者をも浸食している。」という一文が印象的でした。稲葉さんは、これまでこうした生活困窮者の方々に寄り添って支援をされてきたわけですが、どのような時にこうした支援者の中にある、無意識のスティグマをお感じになりますか。

私は「生活保護の利用は権利である」ということを本で書き、講演でも言っていますが、例えば将来、自分が生活に困窮し、生活保護が必要になった時に正々堂々と申請できるか、というと、おそらく葛藤すると思います。「落ちぶれた」と見られるのではないかと意識するでしょうし、申請したことを引け目を感じずに周囲に打ち明けられるかどうかも、あまり自信がありません。それは私自身も偏見やスティグマから自由になっていないからだと思います。

支援者の間でも、生活保護に「陥る」という表現がなされることがあります。それに対して当事者の方から「陥る」という表現にはマイナスイメージが付きまとうので、やめてほしいという意見が表明されたこともありました。

言葉や表現の問題は結構重要だと思います。私は生活保護を「利用」するという言葉を積極的に使うようにしています。「受給」だと、「恩恵を受けるもの」という受け身の印象が強い。そうした印象をなくすためにも「権利」として生活保護を「利用」する、という言葉を使うように気を付けています。

日弁連も「生活保障法」と名称変更をすべきではないかという提案を行っていますが、「生活保護」という名前も変えた方が良いと思います。「保護」という言葉は、受け身で守られているというニュアンスがつきまとうからです。韓国では「国民基礎生活保障法」と名称変更をしています。

もちろん名前を変えるだけで問題が解決するわけではありませんが、これだけマイナスなイメージがついてしまっている以上、名前を変えるのも一つの手かもしれません。

――そうしたところからスティグマや誤解を解いていくための努力をしていかなければならない。

そうですね。あとは何よりもまず、正確な情報を伝えるということです。私たちもネットやパンフレット、漫画などさまざまな媒体を通して発信していますが、こうした正しい情報が増えることが重要だと思います。

もう一つ重要だと思うのは、労働環境の改善です。これは本当によくある誤解なのですが、生活保護に対して「働かなくてお金がもらえていいですね」といったイメージを抱く方が多い。実際は、稼働能力のある人が生活保護を利用する場合、厳しい就労指導も行われているので、就労から免除されているということはないのですが、そうしたイメージがついてしまっているんです。

正しい情報の発信でそうした誤解は解いていかなければならないのですが、同時にそうしたイメージが蔓延する背景には、現在の労働環境自体が非常に劣化していることがあると感じています。著書の中では「徴兵逃れ」という表現を使っていますが、現代の社会では、労働がある種、兵役のような重いものとして人々の上にのしかかっているのではないかと。だからこそ、その「兵役」から逃れているように見える生活保護の利用者に対して、非常に厳しいバッシングが起こるのではないかと思います。ですから、生活保護に対する偏見を払拭するためには、劣悪な労働環境を変えていくことも同時に必要だと感じています。

――確かに、みんな自分が必死だからこそ、楽しているようにみえる人を許せない、という部分がありそうです。

そうなんです。生活保護のバッシングをしている方も、多くの方は毎日仕事や生活を頑張っているんだと思うんですよ。我慢して辛いことを頑張っているから、楽しているように見える人や、権利を主張して自分を守ろうとする人に辛く当たりたくなってしまうのではないかと思うんです。

ただ、私たちとしては、辛いなら自分のために声を上げていいんだよと伝えたい。今、全国29都道府県では生活保護基準引き下げは違憲であると当事者の方々が裁判を闘っています。スティグマや偏見が非常に強い中で彼らが声を上げるのはものすごく勇気のいることだったと思います。さらなるバッシングを受けることもあるでしょう。しかしこうした活動を通じて、自分も自分の生活や権利のために声を上げてもいいんだと思える人がひとりでも増えていけば、社会の雰囲気は変わっていくのではないかと思っています。

――生活保護を守るということは、ひいては自分の生活を守るということになるんですね。稲葉先生、お忙しいところありがとうございました。

稲葉氏
稲葉氏

※本稿はαシノドスvol.220からの転載です。

プロフィール

稲葉剛一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事

1969年広島県生まれ。一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事。立教大学特任准教授。著書に『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために―野宿の人びととともに歩んだ20年』(エディマン、2014年)、『生活保護から考える』(岩波新書、2013年)、『ハウジングプア』(山吹書店、2009年)など。

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