いま、虐待死をなくすために我々が向き合うべきこと――児童相談所と警察との情報共有を強めることは、子どもを救う切り札になるのか

警察が全件共有することはむしろ新たなリスクを誘発する

 

リスクアセスメントをする段階で、警察介入させてしまうこと、全件共有をすることに、私は以下の観点から大きな危機感を抱いている。 子は泣く生き物だ。我が子が小さかったころ、外で泣くと、かならず人の少ないところに退避していた。

 

ある時、泣きはじめたので、スーパーの外に退避したときのことだ。駐車場にいた酔っ払いのおじさんが近づいてきて静かに、穏やかにこういった。「泣きやませろ、殺すぞ」。世の中には赤ん坊の声が許せない人がいるということを突きつけられた出来事だった。恐怖と絶望に支配された。

 

おじさんにも理由はあったのだろうけれど、一般的に言えばおじさんが悪いと思う。外、しかも、駐車場で泣いていて殺すと言われたら、親としてできることなどない。しかし、その件があってから、私はとにかく、外で泣かれることが怖くなった。「まなざし」の種類が「見守り」だけではないことを突き付けられ、「敵意」のまなざしにおびえたのだ。いまだに電車で赤ちゃんが泣いていると、キャパオーバーになっている誰かが危害を加えたりしないだろうか、とドキドキしてしまう。

 

これは極端な例だろうか。でも、私たち親、とくに母親にその機会が多いが、社会に迷惑をかけない子育てに囲い込まれている。もちろんお互いに配慮し合わなければならないのだけど、最近の若い親は、とか、ママが仕事してるから寂しいのよ、とか、小さいうちから保育園でかわいそうね、とか日々小さな刃物のような言説のなかで神経をすり減らしながら生きている。良い子に育てなきゃ、と気負って生きている。そのために良い母でいなきゃと自分の首を締め続けてしまう。

 

そんな社会のなかで、警察に虐待通報の全件共有がなされてしまうということ。これほど苦しい子育てがあるだろうか。泣いたら警察が来るかもしれない、子供を連れていかれるかもしれない。今は我が子も中学生になり、泣き声で児童相談所に通報される、なんてことの心配がない。だから、私は余裕をもって、病ましいことがなかったら正々堂々としてればいいのよ、と言える非当事者でもある。

 

しかし、当事者だった頃の記憶も残っていて、こんなことをしたら虐待にあたるのではないか、とかこんなことを言ったら虐待と思われるのではないか、とか万が一子供が連れて行かれたらどうしよう、と萎縮する気持ちが過去に確かにあったことを苦々しく思い出すのだ。児童相談所に通報されてしまえば警察が来るかもしれないというのはとても大きな恐怖だ。孤独な子育てのなかでは「監視されている」ということとほぼ同義にはたらく。

 

子供がいる世帯、とくに乳幼児がいる世帯は、誰でも子供を保護されてゆかれる可能性をもっている。全件共有に賛同している人は、いろんな意味で、うちは大丈夫、と思っているのだろうか。それは所詮、虐待とは自分とは無縁の、遠い存在としてとらえている、いわば他人事だからではないだろうか。

 

ほとんどの人が、大変ななか一生懸命育てている、それもワンオペのギリギリななかで育てていたら、虐待を疑われ、児童相談所が来るという状況に腹も立つだろうし、悔しい気持ちももつだろう。警察だともっとだろう。見守りの眼差しが一気に監視の眼差しに見え、地域から孤立をせざるを得なくなる。「見守り」が「監視」になるのだ。ここで、ウチの子、みんなから見守られていて幸せだなぁ、と考えられるほどの余裕ある育児を実際どれくらいの人ができているのだろうか。そういう意味でも、他人事ではない。

 

児相が警察も全件共有するのであれば、相談したい親のハードルもものすごく高くなる。これはかえって虐待を水面下に潜り込ませてしまうのではないだろうか。極端な話「どうやったら、子供の泣き声が外に聞こえずに済むか」という方向で物事を考えてしまう人も出てくるのかもしれない。

 

親を追い詰めることは子を追い詰めること。これをもう一度言いたい。監視のなかで通報されない育児をしなければならない(泣き声を含めて)と親に強いる社会が親を追い詰めない社会といえるだろうか。

 

 

まずは虐待を知ってほしい

 

虐待の難しさは、その様相の複雑さゆえというところもある。会えないのはもう危険な証拠だから児童相談所がすぐに動くべきだという声も聞かれたが、会えないという一つの現象が表す状況は実際はもっと濃淡に富んでいる。拒否、という言葉ひとつとっても、様々だ。

 

親自身が後悔しながらも止められないこともあるし、ネグレクトの場合は認識できていないこともある、本気で躾でこの子のためと思っている人もいる、知的な課題を持っている人もいれば、病気の人もいる。女性が困窮に陥りやすく、次の安定の手段が再婚しかないという人もいるし、地域から孤立している人も多い。だから、あらわれてくる事象は一つでも100人の親がいれば100通りの動き方がある。

 

今回の女の子の件はレアケースとは言えない。同じくらいの緊急度のケースもあれば、もっと急を要するケースもある。かと思えば、落ち着いていたのにある日突然スイッチが入るようなケースもある。面前DV(注2)もあればネグレクトもある。親の状態も様々だし、子供の特性も様々である。鍵となる親族がいるかどうかにもよる。だから、アセスメントにも対応にも人手と時間もかかるし、かけなければいけないと思う。児童相談所に、その時間が与えられていないのは過去の様々な指摘からも明らかである。

 

(注2)子供の前で親が配偶者に暴力をふるうこと。あまり認識はされていないが、心理的な影響は大きなものであるとされる。これは暴力を日常的に受けているものにとって、非常に苦しい虐待の類型である。自らが暴力を受けて苦しみ、そのことが子供を苦しめることで苦しめる。そして、子どもが連れていかれると思うと、「暴力を受けていることは絶対に人には言えない」という気持ちを生む。

 

 

地域としてできることはある

 

私はなんでもかんでも地域に投げていくような福祉の在り方はあまり好きではないが、児童虐待に関しては物理的に身近である地域という存在がやはりとても大きいと思う。今回のような事件が起こると、必ずといってよいほど児童相談所批判が出てくるが、周囲は果たしてどのように見ていたのだろうか。

 

ネット上ではいつも外を歩いており隙あらば家に上り込んできてお菓子をねだり居座るという「放置子」と呼ぶ。そういった子たちへの対策のセオリーは「かわいそうだけど、無視」「一度甘い顔をするとずっと来るから無視」「どうせ頭のおかしい親だろうからかかわらないほうがよい」である。しかし、放置子のなかにはネグレクトといってよい状態の子が結構いるのだ。

 

死んでしまったかわいそうな子を憐み、児童相談所は何をしていたのだ、親は鬼畜だと叫ぶ傍らで、足蹴にしている被虐待児がいるということ。そこからまず考えてほしい。なにも、家にあげてごはんを食べさせてあげろとは言わない。私だってそこまではできない。ただ、「迷惑だ」と排除してあとは知らないとするのではなく、「大丈夫かな」というまなざしをもってほしいと切に感じる。

 

 

事後対策型ではなく予防型へ

 

警察介入を私は決して否定はしない。人命にかかわる場合はやはり警察を呼ぶ。だから、最終手段としてはいつだってアリだと思っている。そして、やはり即効性はある。しかし権力を発動し、親と子を引き離すことはやはり最後の最後だ。できることはまだあるはずだ。監視ではなく、見守りのまなざしを。

 

私たちはまだ最善を尽くしていない。最善を尽くさないまま、川底をさらうようなやり方を称賛し、推していくことにやはり私はノーと言いたい。児童相談所の体制および人員を強化し、スキルアップに努めることができる十分な機会を用意すること、そして地域の構成員である我々が虐待を正しく理解すること、不用意に親を追い詰めていかないこと、これが支援者として、結果的に一番早く効果的に虐待死を防ぐ手段であると考える。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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