2018.06.20

いま、虐待死をなくすために我々が向き合うべきこと――児童相談所と警察との情報共有を強めることは、子どもを救う切り札になるのか

山岸倫子 ソーシャルワーカー

福祉 #虐待

目黒区で起きた5歳女の子の痛ましい虐待死事件が、虐待への関心と、虐待防止に向けてどうあるべきか、という議論を巻き起こしている。それ自体はとても良いことだと思う。良いことなのだが、事件の検証がなされておらず、かつ児童相談所の可能性が十分に検討されず、それどころか、虐待の実態さえ十分に把握されないまま、警察と児童相談所における虐待情報の全件共有(以下、全件共有とする)へと議論を進めて行くことに、私はとても大きな違和感をもっている。

警察との全件共有の議論はとてもシンプルな善意に基づいている。あの亡くなった女の子がかわいそうだ、今もまだ苦しい思いをしている子がいるはずだ、早く助けてあげたい。 それは人として当然の感情で、だからこそ、「ちょっと待った」といいにくい雰囲気がある。でもあえて、「ちょっと待った」をかけたい。

私は生活困窮者の支援をしており、児童福祉の専門家というわけではないが、福祉の現場で様々な家庭を見ているソーシャルワーカーとして、そして1人の子を育てる母として、さらに地域で生きる主体として、人でなしとののしられようとも、やはりきちんと言わなければならない。それは警察との全件共有がさほど効果的ではないと思われるうえに、より事態を悪化させると考えるからだ。

全件共有に向かう議論の根底にあるのは次のような理屈であると理解をしている。品川児童相談所が当該世帯に訪問に行き、子に会わせてもらうことを拒否をされた時に警察に連絡さえしていれば助かったはずだ。助かったはずなのに、警察に連絡をしなかったから亡くなったのだ、と。だから警察に連絡をして、強制介入すべきだった。警察との連携を深めるべきだという論調である。これはとてもわかりやすい。しかしここにはいくつも検証すべき点がある。

警察が介入していたらあの女の子は本当に助かったのか

報道では、そもそも暮らしていた香川県の児童相談所のもとで、指導措置がとられていた。指導措置とは児童福祉法第27条に定められるもので、助言や相談にとどまらない、言わばより強い権限をもって指導を行う対応を指す。しかし、その後家族は児童相談所に行先を告げずに上京。その時点で、先ほど述べた指導措置は解除されていた。

つまり、一定の改善が見られたとの見解であり、指導の措置をとる必要のない状態という認識である。品川児童相談所が「移管(注1)でしたか、情報提供でしたか」と言ったのはそのためだ。本来指導措置が取られたまま転居すれば引き継ぎ事務上は移管という扱いになる。しかし、指導指示解除の状態であれば、情報提供というかたちになり、緊急度はやはり下がる。担当者としては当然二つの可能性を視野に入れる。虐待がおさまっており、心機一転の生活を始めている可能性と、虐待が悪化して水面下に潜っていく可能性である。

(注1)移管とは、平成19年全国児童相談所長会総会で決定された「被虐待児童の転居及び一時帰宅等に伴う相談ケースの移管及び情報提供等に関する申し合わせ」にて、居住地を管轄する児童相談所が援助を実施している間に当該世帯が管轄区域外に転居したことに伴う公式な引き継ぎ事務を指すとされる。これに対し、情報提供とは、援助が終結(指導が解除されている状態)で転居した際に用いる言葉である。

品川児童相談所が訪問した際に、母は、「児童相談所に家庭をめちゃくちゃにされたのでかかわってほしくない」と述べ、児童に会わせることを拒否したという。ここでまず思うのが「虐待が悪化しているのではないか」ということ。多くの人がこの可能性を指摘する。「会わせない時点で虐待確定だ」と。しかし、現場としては、違う可能性を知っている。自分たちが権力を持つ存在であることを認識している。虐待がおさまった家庭にとって、児童相談所という存在は相談に乗ってもらえる機関として機能する場合もあるが、あまり関わってほしくない機関でもありうる。

私ならこのときどうこの母に声をかけたか、ということについて、自分なりの方法があるし、品川の児童相談所でどう声をかけたかということについては不明なので何とも言えないが、そのリスクアセスメントは、虐待の現場から遠くにいる人にとっては「簡単」に見えるかもしれないが、実際はそうではない。二回も逮捕歴があって!と言う人もいるが、逮捕歴があっても再犯しない人もいる。再犯する人は報道されるが、しない人はあまり報道されないので、「よくなったケース」というのに一般の人は触れる機会がないが、確かにいる。

さて、この状況、つまりリスクアセスメントが容易ではない状況で、

1.警察が踏み込めたか

2.警察が踏み込めたとして確実に保護できたか

この2点を明らかにしなければ、警察に言えば助かったのに!というのはあまりに拙速である。現に香川時代には警察が介入しているが、強制的な保護を継続できるほどの根拠を示せず自宅に戻すかたちになっている。結論から言えば、踏み込んだ時の女の子の状態がすべてで、その時点で警察に連絡というのは現場で働くものとしては大きな賭けになる。警察も連絡があったからと言っていきなりドアをぶち破ってよいわけでもない。警察としても「根拠」がなければ動きにくい状況は同じである。そしてその「根拠」、つまり親から子を引き離すための正当な理由、のハードルはとても高い。

今回のケースで、どの時点であの女の子が「確実に保護可能な状態」になったかはわからない。2月の訪問の時点で確実に衰弱しているとか、痣があるとかでなければ、最悪の空振りになるのだ。

毅然とした態度、もしくは警察と一緒に行けば親は観念するのか

実際踏み込んで、何もなければそれで良いじゃないかと多くの人は思うだろう。しかし我々はことを「穏便に」進めたい。なぜなら保護に失敗するとその後、二度とドアを開けてくれることはなくなるかもしれないからだ。確実に保護できると踏んだ時にしか踏み込みたくないというのが本音だ。というのも会えない人に会うというのはそんなに簡単なことではないからだ。毎度警察を呼ぶわけにもいかないだろう。

そうなると当然関係性構築、という地道な作業をし、家庭の様子を見ながら保護のタイミングをつかんでいくことしかできないということになるし、私はこれがまっとうなやり方だと思っている。これがまた世間から「ぬるい」と言われる要素になっている。しかし、やはりこれだけは身に染みて思うのだ。親の後ろには必ず子供がいる。親をどついて張り倒せば、下敷きになるのは子供なのだ。

私たちは、世間から見ると、とてもぬるいやり方で人と関わるように見えるかもしれない。それは人に対峙するのが怖いからではない。人を追い詰めることが怖いから、親を追い詰めることが怖いからである。非難は是正をもたらすかもしれないが、同時に隠蔽を産む可能性をはらむ。厳罰化は抑制力として効果的に働く場合もあるが、同時に巧妙化を産む可能性をはらむ。人間の行動の変化を促すのは、単純なことでも簡単なこともはない。

結局、私たち支援者はもっとも確実に対象者に近づく方法をとる。どんなに虐待に腹が立っても、どんなにすごまれても、罵倒されても、自身の感情をグッと腹に据えて、もっとも効果的な方法で対峙し、対話をはじめてゆく。決して迎合しているわけでない。厳しくして状態が良くなるならそうするだろうがそれでは良くならないと経験的に知っているから、対話をするのだ。

厳しく言ってやりたい気持ちも必ずある、ハラワタが煮えくりかえることもある。でもその感情をぶつけて正論を伝えてゆくことが、良い結果をもたらさず、自分はすっきりするけど、二度と対象者に会えなくなるという最悪の事態をもたらす。それでは専門職ではなくてただの自己満足だ。そこを私たちは覚悟して、ことに当たっている。

もし、この部分を大切にしない、背後の子供に気が回らず、自分の正義感だけで信頼関係もないのに親に詰め寄る支援者がいるのであれば、それは支援者とは言い難い。

警察が全件共有しても対応は変わらない

現在でも、各都道府県の児童相談所で、緊急度が高いケースの共有がなされている。基本は福祉的関わり、しかし緊急度が高く、時間との闘いの場合は警察、という体制である。そして、その緊急度のアセスメントの精度をより上げるために、児童相談所の人員を増やすこと、そして子供の権利と親の権利のせめぎあいという視点から弁護士を交えてのアセスメントを行える基盤を作ることが急務である。批判以前に、現在の児童相談所はその機能を十分に発揮できるような体制にはなっていない。

そもそも、警察に全件が持ち込まれても全件になど対応できないのだから、結局は児相がリスクアセスメントをして、介入の優先順位づけをつけなければならない。リスクアセスメントをするために警察を介入させて、無理やり安全確認をするべき、という考え方もあるが、それとて法的に可能かどうかもまず怪しい。無理矢理の安全確認ができないのであれば、警察を呼んでも無意味である。

警察が全件共有することはむしろ新たなリスクを誘発する

リスクアセスメントをする段階で、警察介入させてしまうこと、全件共有をすることに、私は以下の観点から大きな危機感を抱いている。 子は泣く生き物だ。我が子が小さかったころ、外で泣くと、かならず人の少ないところに退避していた。

ある時、泣きはじめたので、スーパーの外に退避したときのことだ。駐車場にいた酔っ払いのおじさんが近づいてきて静かに、穏やかにこういった。「泣きやませろ、殺すぞ」。世の中には赤ん坊の声が許せない人がいるということを突きつけられた出来事だった。恐怖と絶望に支配された。

おじさんにも理由はあったのだろうけれど、一般的に言えばおじさんが悪いと思う。外、しかも、駐車場で泣いていて殺すと言われたら、親としてできることなどない。しかし、その件があってから、私はとにかく、外で泣かれることが怖くなった。「まなざし」の種類が「見守り」だけではないことを突き付けられ、「敵意」のまなざしにおびえたのだ。いまだに電車で赤ちゃんが泣いていると、キャパオーバーになっている誰かが危害を加えたりしないだろうか、とドキドキしてしまう。

これは極端な例だろうか。でも、私たち親、とくに母親にその機会が多いが、社会に迷惑をかけない子育てに囲い込まれている。もちろんお互いに配慮し合わなければならないのだけど、最近の若い親は、とか、ママが仕事してるから寂しいのよ、とか、小さいうちから保育園でかわいそうね、とか日々小さな刃物のような言説のなかで神経をすり減らしながら生きている。良い子に育てなきゃ、と気負って生きている。そのために良い母でいなきゃと自分の首を締め続けてしまう。

そんな社会のなかで、警察に虐待通報の全件共有がなされてしまうということ。これほど苦しい子育てがあるだろうか。泣いたら警察が来るかもしれない、子供を連れていかれるかもしれない。今は我が子も中学生になり、泣き声で児童相談所に通報される、なんてことの心配がない。だから、私は余裕をもって、病ましいことがなかったら正々堂々としてればいいのよ、と言える非当事者でもある。

しかし、当事者だった頃の記憶も残っていて、こんなことをしたら虐待にあたるのではないか、とかこんなことを言ったら虐待と思われるのではないか、とか万が一子供が連れて行かれたらどうしよう、と萎縮する気持ちが過去に確かにあったことを苦々しく思い出すのだ。児童相談所に通報されてしまえば警察が来るかもしれないというのはとても大きな恐怖だ。孤独な子育てのなかでは「監視されている」ということとほぼ同義にはたらく。

子供がいる世帯、とくに乳幼児がいる世帯は、誰でも子供を保護されてゆかれる可能性をもっている。全件共有に賛同している人は、いろんな意味で、うちは大丈夫、と思っているのだろうか。それは所詮、虐待とは自分とは無縁の、遠い存在としてとらえている、いわば他人事だからではないだろうか。

ほとんどの人が、大変ななか一生懸命育てている、それもワンオペのギリギリななかで育てていたら、虐待を疑われ、児童相談所が来るという状況に腹も立つだろうし、悔しい気持ちももつだろう。警察だともっとだろう。見守りの眼差しが一気に監視の眼差しに見え、地域から孤立をせざるを得なくなる。「見守り」が「監視」になるのだ。ここで、ウチの子、みんなから見守られていて幸せだなぁ、と考えられるほどの余裕ある育児を実際どれくらいの人ができているのだろうか。そういう意味でも、他人事ではない。

児相が警察も全件共有するのであれば、相談したい親のハードルもものすごく高くなる。これはかえって虐待を水面下に潜り込ませてしまうのではないだろうか。極端な話「どうやったら、子供の泣き声が外に聞こえずに済むか」という方向で物事を考えてしまう人も出てくるのかもしれない。

親を追い詰めることは子を追い詰めること。これをもう一度言いたい。監視のなかで通報されない育児をしなければならない(泣き声を含めて)と親に強いる社会が親を追い詰めない社会といえるだろうか。

まずは虐待を知ってほしい

虐待の難しさは、その様相の複雑さゆえというところもある。会えないのはもう危険な証拠だから児童相談所がすぐに動くべきだという声も聞かれたが、会えないという一つの現象が表す状況は実際はもっと濃淡に富んでいる。拒否、という言葉ひとつとっても、様々だ。

親自身が後悔しながらも止められないこともあるし、ネグレクトの場合は認識できていないこともある、本気で躾でこの子のためと思っている人もいる、知的な課題を持っている人もいれば、病気の人もいる。女性が困窮に陥りやすく、次の安定の手段が再婚しかないという人もいるし、地域から孤立している人も多い。だから、あらわれてくる事象は一つでも100人の親がいれば100通りの動き方がある。

今回の女の子の件はレアケースとは言えない。同じくらいの緊急度のケースもあれば、もっと急を要するケースもある。かと思えば、落ち着いていたのにある日突然スイッチが入るようなケースもある。面前DV(注2)もあればネグレクトもある。親の状態も様々だし、子供の特性も様々である。鍵となる親族がいるかどうかにもよる。だから、アセスメントにも対応にも人手と時間もかかるし、かけなければいけないと思う。児童相談所に、その時間が与えられていないのは過去の様々な指摘からも明らかである。

(注2)子供の前で親が配偶者に暴力をふるうこと。あまり認識はされていないが、心理的な影響は大きなものであるとされる。これは暴力を日常的に受けているものにとって、非常に苦しい虐待の類型である。自らが暴力を受けて苦しみ、そのことが子供を苦しめることで苦しめる。そして、子どもが連れていかれると思うと、「暴力を受けていることは絶対に人には言えない」という気持ちを生む。

地域としてできることはある

私はなんでもかんでも地域に投げていくような福祉の在り方はあまり好きではないが、児童虐待に関しては物理的に身近である地域という存在がやはりとても大きいと思う。今回のような事件が起こると、必ずといってよいほど児童相談所批判が出てくるが、周囲は果たしてどのように見ていたのだろうか。

ネット上ではいつも外を歩いており隙あらば家に上り込んできてお菓子をねだり居座るという「放置子」と呼ぶ。そういった子たちへの対策のセオリーは「かわいそうだけど、無視」「一度甘い顔をするとずっと来るから無視」「どうせ頭のおかしい親だろうからかかわらないほうがよい」である。しかし、放置子のなかにはネグレクトといってよい状態の子が結構いるのだ。

死んでしまったかわいそうな子を憐み、児童相談所は何をしていたのだ、親は鬼畜だと叫ぶ傍らで、足蹴にしている被虐待児がいるということ。そこからまず考えてほしい。なにも、家にあげてごはんを食べさせてあげろとは言わない。私だってそこまではできない。ただ、「迷惑だ」と排除してあとは知らないとするのではなく、「大丈夫かな」というまなざしをもってほしいと切に感じる。

事後対策型ではなく予防型へ

警察介入を私は決して否定はしない。人命にかかわる場合はやはり警察を呼ぶ。だから、最終手段としてはいつだってアリだと思っている。そして、やはり即効性はある。しかし権力を発動し、親と子を引き離すことはやはり最後の最後だ。できることはまだあるはずだ。監視ではなく、見守りのまなざしを。

私たちはまだ最善を尽くしていない。最善を尽くさないまま、川底をさらうようなやり方を称賛し、推していくことにやはり私はノーと言いたい。児童相談所の体制および人員を強化し、スキルアップに努めることができる十分な機会を用意すること、そして地域の構成員である我々が虐待を正しく理解すること、不用意に親を追い詰めていかないこと、これが支援者として、結果的に一番早く効果的に虐待死を防ぐ手段であると考える。

プロフィール

山岸倫子ソーシャルワーカー

1979年北海道生まれ。東京都立大学社会科学研究科社会福祉学修士課程修了。専門は障害者福祉論、障害学。法政大学非常勤講師。生活保護の面接相談業務を経て、現在は、ソーシャルワーカーとして生活困窮者支援に従事する傍ら、福祉を担う人材育成のため、研修講師として活動している。

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