ニセモノの父、ホンモノの父――悪魔のしるし「わが父、ジャコメッティ」劇評

ジャコメッティのアトリエに通いつめた矢内原伊作

 

小劇場演劇で「父」という存在は目立たない。もちろん登場人物として出てくることがないわけではないが、日本の家庭での「父」を反映してか、存在感が薄い。そもそも小劇場は、父親のことなど敬遠したい年頃の若者が中心の文化。「父」の居所はあまりないのである。

 

そんなわけで、「悪魔のしるし」(というのが団体名である)の「わが父、ジャコメッティ」には大いに期待した。タイトルにまで「父」とうたい、いわば主題として宣言しているわけだ。本当に珍しい。小劇場演劇の中における家族像を探ろうとしている私としては、どうしても見にいかなければなるまい。芝居を見に行く動機としては多少変わっていると自分でも思うが、構うものか。そして実際、これは作品としても面白かったし、「父」のことについても考え抜かれた公演だった。

 

「悪魔のしるし」は危口(本名は木口)統之が主宰する団体で、演劇にとどまらずパフォーマンス、建築、美術などにまたがる活動を続けているとのこと。今回の「わが父、ジャコメッティ」は危口が実の父親を舞台に上げた作品だ。そこにジャコメッティが絡む。

 

アルベルト・ジャコメッティ(1901‐1966)はスイス出身の彫刻家・画家で主にパリで活動した。細長い人物像は有名なので、写真等でご覧になったことのある方も多いだろう。「わが父、ジャコメッティ」は矢内原伊作著『ジャコメッティ』『完本 ジャコメッティ手帖Ⅰ,Ⅱ』(みすず書房)を「原案」としてクレジットしている。矢内原(1918‐1989)は哲学者・評論家で、1950年代に哲学研究のため渡仏したが、あまり机に向かうことはなく、ジャコメッティのアトリエに通いつめ、モデルを務めつつ、あらゆる話題について意見を交わした。その時期の膨大な記録に基づいて書かれた上記の著書は、世界的にジャコメッティ研究の基本資料と見なされている。

 

開演間近に客席に座って舞台を見ると、危口の父の木口敬三(以下、敬三)らしき年配の男性が奥に置かれたピアノのそばの椅子に座り、2人の女性(1人は若く、1人は年配)と話をしている。内容は忘れたが、何か芸術に関することだった。舞台はいろいろなものが置かれ、雑然としている。中央にはカンバスが立てられ、下手と正面奥に大きなスクリーン。右奥にソファーベッドのようなもの。上手手前にマイクがあり、危口がここで上記の本を読むなどする。あちこちに油彩画が置かれ、ピアノの手前にほぼリアルタイムの時計の文字盤が見えるのが印象的だった。全体としては芸術に関わる人の暮らしぶりを彷彿とさせるセットである。

 

 

「わが父、ジャコメッティ」横浜公演から。左から危口統之、木口敬三、大谷ひかる。撮影:前澤秀登 禁無断転載

「わが父、ジャコメッティ」横浜公演から。左から危口統之、木口敬三、大谷ひかる。撮影:前澤秀登 禁無断転載

 

 

舞台に置かれているのは大部分、危口の実家から持ち込んだものだという。事実、敬三は武蔵野美大卒業後、パリ留学の経歴もある画家である。作品の中で危口が言うことによれば、敬三はふだん絵画教室などで教えながら2年に1度、地元の倉敷で個展を開いている。個展ではほとんどの作品が売れ、そのたびに家の電化製品などが新しくなった。「立派なものだと思う。ぼくは父の絵は好きです」(記憶に頼っているので、正確ではない。以下、本稿に引用されるセリフは全て同様)と危口は言うのだが、地方レベルにせよ、十分な成功を収めた芸術家であるわけだ。

 

この作品はそんな父を舞台に上げつつ、ジャコメッティと矢内原の関係を自分たちに重ねていく。敬三と危口はパフォーマンスのうち半分ほどは、紙で作ったジャコメッティ風の仮面をかぶっている。そのまま敬三が危口を座らせて絵を描いたりなどする。

 

 

現実の父(画家)を舞台に上げた息子(演出家)

 

矢内原の著作に登場するジャコメッティは、分かりやすい言い方をすれば「芸術の鬼」のような人である。朝から晩まで製作に没頭するが、自分の作品に満足できず、いつまでたっても完成することがなかった。「完成のためには断念が必要なのに、断念せずに完成させることが可能だと信じていたのが、ジャコメッティの変なところです」と危口は言い、「マティエールのせいで続けられない」というジャコメッティの言葉を紹介する。

 

マティエールというのは絵具など画材の物質性のことだそうだ。危口は「絵画というのは絵具というモノによってイメージを表現するわけですが、モノであるがゆえに思うようにいかないこともあります」といった趣旨の解説を加える。『完本 ジャコメッティ手帖』を読むと、ジャコメッティは製作に行き詰っては「マティエールのせいで何もすることができない」「マティエールのせいで筆がうまく動かない」などとマティエールのせいにしている。「マティエールの困難さとは、あまりにも狭い部分が多いのと、太すぎる筆のためだ」(上記書の引用は、表記を分かりやすく改めた。以下同)などと言っており、要は「絵具が自分の思うように動いてくれない」ということだ。【次ページにつづく】

 

 

「わが父、ジャコメッティ」横浜公演から。撮影:前澤秀登 禁無断転載

「わが父、ジャコメッティ」横浜公演から。撮影:前澤秀登 禁無断転載

 

 

 

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