2015.03.28
ロシアは世界の劇場にどう貢献できたのか
3月27日は「世界劇場の日」。ロシアは世界の劇場の舞台にどう貢献したのか。ロシアNOWが特集する。(アレクサンドラ・グリヤノワ)
A.チェーホフの戯曲
20世紀初めの世界の演劇界にとって、アントン・チェーホフの戯曲は画期的であった。その展開は特殊な心理主義によって当時の伝統的な演劇とは違うものとなっていた。チェーホフは主役を救うための唯一の正しい道筋を示さず、代わりに登場人物の日常の行動モデルを観客に観察させ、自分なりの結論を出させた。
チェーホフの作品は、イプセン、バーナード・ショー、ストリンドベリと同様に、19世紀から20世紀にかけての重要な演劇の流れ「新演劇」の基礎を構築。優れた劇作家はチェーホフを心理劇の父とあがめた。バーナード・ショーはその戯曲「傷心の家」を「イギリスの主題をロシア風に扱った幻想劇」と呼んだ。テネシー・ウィリアムズは「かもめ」を愛し、自分の解釈で舞台化することを生涯夢見ていた。この戯曲は「三人姉妹」や「桜の園」と同様、80以上の言語に翻訳され、イギリス、ドイツ、フランス、日本、アメリカなどで、多くの演劇を生みだした。
K.スタニスラフスキーとM.チェーホフの演技体系
有名な演出家、モスクワ芸術座の創設者の1人であったコンスタンチン・スタニスラフスキーの伝説的なフレーズ「信じない!」は、世界の演劇社会で流行した。スタニスラフスキーは、俳優にとって厳しい「トレーナー」であった。その演技術の体系は俳優に「役を生きる」ことを教えるもの。弟子には少しずつ役の個性を研究させ、自分の感覚と似た部分を見つけさせ、その後舞台でそれらを表現させた。
この方法は今日まで、すでに100年以上も俳優学校で教えられている。キーラ・ナイトレイからベネディクト・カンバーバッチまでの多くの映画スターが、この方法を愛してやまない。
ミハイル(マイケル)・チェーホフは、アントン・チェーホフの甥で、スタニスラフスキーの弟子であり、追随者であったが、そのシステムは多くの点で「先生」の基本要求に対抗するものであった。チェーホフは特に、自分を役と同化させるのではなく、演じている時に自分の演技を入念に客観視しながら、また自分の自然さを確認しながら、役の感情を緻密にコピーすることを俳優に提案した。チェーホフの体系は今日、スタニスラフスキーの体系よりも人気となることがある。クリント・イーストウッドやジャック・ニコルソンなどが、これを採用している。またアメリカには、チェーホフ演技体系指導者協会もある。
V.メイエルホリドのグロテスク演劇と「ビオメハニカ(バイオメカニクス)」
フセヴォロド・メイエルホリドは民族的な広場演劇の継承という特別な演劇種をつくりだした。「グロテスク演劇」(本人が後にこう称する)は、最大限に生き生きとしていて、明るく、肉体的に困難な動きを提案した。ダンスあり、サーカスあり、また舞台空間をつくる大がかりで構成主義的なセットありの演出であった。メイエルホリドの演出の主なヒットの一つとなったのは、マヤコフスキーの「ミステリア・ブッフ」の未来演劇。
メイエルホリドは俳優との作業体系、いわゆる「ビオメハニカ(バイオメカニクス)」も考案。これはブレヒトの劇作法で支柱の一つとなった。ビオメハニカでは役の肉体的習得が重要な要素である。俳優はまず、ジェスチャー、役の独自性をマスターする。正しい動きを通じてこそ、俳優と役の心理的類似が実現できるのである。
S.ディヤギレフのバレエ・リュス
アメリカとヨーロッパで1910年代から1920年代まで行われていた「ディヤギレフのバレエ・リュス」が成功したのは、興行師セルゲイ・ディヤギレフのセンスと才能によるものである。ディヤギレフはアンナ・パブロワからバランシンやニジンスキーまでのバレエのスターを一つのバレエ団に集めることができた。名ダンサー以外に、ロシア・アヴァンギャルドの主な担い手たちが参加したことで、バレエ・リュスは世界に斬新な演出を加えることができた。舞台の革新的なコンセプトを実現させたのは、アレクサンドル・ベノワ、ナタリヤ・ゴンチャロワ、ミハイル・ラリオノフ、ナウム・ガボなどの多くの芸術家。ここには後に、マティス、ピカソ、ココ・シャネルなど、当時の西側のイノベーターたちも加わった。
■本記事は「ロシアNOW」からの転載です。