「民衆的な表現」の真の意味を考える――ふじのくに⇄せかい演劇祭の試み【PR】

静岡県舞台芸術センター(SPAC)が主催する「ふじのくに⇄せかい演劇祭」が、今年もゴールデンウィーク期間に開かれる。日本、フランス、台湾、レバノン、韓国、ベルギーから舞台人が集まり、全9演目が上演される。新作あり、日本初演ありと意欲的なプログラムの中、やはり注目は、宮城聰が手がける『メフィストと呼ばれた男』(作:トム・ラノワ)だ。原作はクラウス・マンが1936年に発表した小説。ドイツ最高の俳優と謳われ、ナチ党支配下でプロイセン国立劇場の芸術監督にまでのぼりつめた実在の人物グリュントゲンスをモデルとしている。

 

宮城聰と劇団SPACといえば、昨年、アヴィニョン演劇祭に招聘されブルボン石切場で上演された『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険』の成功が記憶に新しいが、まったく異なる社会派の作品への挑戦。しかも、リアリズムの手法で演出するという。新作と演劇祭について、芸術総監督・宮城聰さんに話をうかがった。(取材・構成/長瀬千雅)

 

 

 「空気」に取り囲まれたときに我々はどうすべきか

 

――昨年、KAAT(神奈川芸術劇場)で『マハーバーラタ〜ナラ王の冒険~』を拝見しました。白で統一された平安貴族調の衣裳、打楽器の生演奏、踊り手は円環状の舞台を疾走し、語り手はひとときも休まず語り続ける。まさに壮麗な絵巻物、幻想の世界でした。なので、今回のSPACの新作はかなり意外です。ナチス政権下で政治に翻弄される劇場人たちのお話。まずは、この作品を選ばれた理由からうかがえますか。

 

僕がSPACへ来て、満8年が経ちます。その間に公立劇場の認知は少しずつ広まってきました。公立劇場とは、貸し小屋タイプの文化施設ではなく、自分たちで作品を製作したり、所属俳優を持っていたりする劇場です。ですが、まだまだ黎明期です。

 

つまり、税金を使って劇場を維持するのが当たり前だと考えている人の数はあまり多くない。ですから、どの公立劇場も、公共の劇場が地域に必要なんですよ、地域の役に立つんですよ、ということを一生懸命広めて、根付かせている、その途中だと思います。

 

一方で、格差の拡大が進行して、多くの人たちが、自分たちはわりを食っているという感覚を持っています。うまい汁を吸っている連中が一部にいて、自分たちはそこからはじき出されている感じと言えばいいでしょうか。それは排外的な気分にも直結するわけですが、まさに『メフィスト』の舞台である32年のドイツにも似たような気分があった。すると、多様な意見を許容する土壌がだんだんなくなってくるんですね。

 

「いろいろいていいなんて悠長なことを言ってたらやられちゃうんだから、結束を固めようぜ」という機運が高まってくる。それは、ごく少数の過激な人の意見ではなく、多くの人がそういう感覚を持つわけです。

 

 

――今の日本の社会状況を見ても、そういう空気は感じます。

 

当然、公立劇場を取り巻く空気も、おのずとそうなってくる。今の日本ではまだそこまで来ていませんが、起こり得る状況になっている。あくまでもたとえ話ですが、たとえば、性のモラルの多様性を訴えるような作品があったとします。そして、劇場の支持者の多くから「そういうのはあんまり劇場では観たくないよね」という「空気」が漂ったとします。

 

そうすると、劇場の人たち自身が、「ようやく公立劇場が根付き始めてきたところに、あえて強い異論があるようなものを劇場に持ち込まなくてもいいのでは」と、考えかねない。

 

 

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『メフィストと呼ばれた男』写真:日置真光 戯曲の原題は『Mefisto For Ever』。「2007年のアヴィニョンで、アントワープの劇団による上演を見たのがこの戯曲との出会い」(宮城さん)

 

 

――可能性はあるかもしれません。

 

劇場を応援してくれる人たちから、「ああいうことをやられると困っちゃうんだよね」みたいな声がもしも出てきたときに、あの人たちを困らせるのはよくないな、などと慮っていくと、劇場の側が「空気を読む」ということになってくるわけです。

 

そして、自主規制のようなことをし始めるようになっていくのではないか。それは遠い未来の話ではなくて、おおいにあり得る近未来だなという感じがするんですね。

 

この、あり得べき危機に直面したときにおろおろしないためには、似たような過去の例を学ぶといいわけですが、第二次世界大戦の前の、いわゆる全体主義の時代に、公立劇場というシステムが整っていたのはドイツくらいなんです。

 

 

――そうなんですか。フランスとかにはなかったのかしら…。

 

国立劇場(national theatre)はあるんだけど、地域の公立劇場というシステムではないんですね。

 

 

――もっと中央集権的なものだったわけですね。

 

そう。フランスの公立劇場は戦後に、パリ一極集中打開のためにつくられた制度なので。

 

 

――戦前でいえば、もともと州の寄せ集めだったドイツにしかなかったと。

 

今でもドイツの劇場は、日本語で「国立」とついていても実際には州立であるところが多いです。小説『メフィスト』の舞台になっている劇場は日本語では「プロイセン国立劇場」と書かれますが、当時のプロイセンはドイツ共和国の一州です。各州にそういう劇場があって、劇場に所属して給料をもらう俳優やダンサーやオーケストラがいる。そういう制度を作り上げていた。

 

 

リアリズム演劇は得意ではないのだけれど

 

――地域の人たちに娯楽を提供する意味もあったんですか。

 

観客動員という意味では、非常にメジャーな娯楽施設ですね。今日でもドイツでは、サッカースタジアムへ行く人より劇場へ行く人の数が多いくらいメジャーです。それでもさすがに納税者の過半数は超えませんし、劇場に税金を使うぐらいなら、壊れているドブ板を早く直してくれという声は常にあるんです。

 

――それでも、劇場に行かない人も、自分たちの町にそういうものが必要だというコンセンサスはとれているということでしょうか。

 

町の顔だというところまでは、みんな思っているんです。ただ、そこで行われている演劇は、まだ、上流階級のものというか、余裕のある人たちのものだと思われている。32年のドイツでも、劇場に行く人たちは社会の上澄みだと過半数の人は思っていた。上澄み層が実権を握っているうちは問題は起こりませんよね。しかし、格差が広がり、ナチスのような全体主義が出てくると、劇場に行っているようなやつらこそが俺たちの敵だ、困窮する元凶だ、という見方が出てくる。

 

そうすると、劇場の方は、昔ながらの演目を守ろうとする人もいるでしょうが、それはそうだ、私たちはもっとわかりやすいものをやらなくちゃいけないんだ、と考える人も出てくる。特権階級ではない人たちが望んでいるものを提供するべきなんじゃないかと。

 

それはある意味で劇場人としての良心なんですね。あるいは、そうやってお客さんの支持をとりつける方が、ナチズムに抵抗できるのではないかと思ったりもする。それは一見もっともらしいんだけど、あとから見ると、それってナチスに協力しただけだよね、とも見えるんです。

 

 

――そのような状況が日本でも起こり得るという危機感が、宮城さんにはあるんですね。

 

公立劇場に関わる人はみんな、その局面に立ち至ったら自分たちはどうするんだろうということは、薄々は考えていると思います。これは、簡単に答えは出ません。芸術監督一人がクビになればいいということでもない。単純にはいきません。

 

 

――もう稽古は始まっていますか。

 

始まっています。

 

 

――俳優や、劇場のみなさんの反応はいかがですか。

 

これをやらなきゃいけないんだよという話はしばらく前からみんなにしていたので。本当は国立劇場とかがやるべきだと思うけれど、でもきっと取り上げないから(笑)、演技のスタイルとしては得意じゃないけど、僕らがやることにしようって。

 

 

――演技のスタイルを変えるのはやっぱり大変なことなんでしょうか。

 

演技上はそうです。リアリズム演劇は僕らの普段の手法とまったく違うものなので。

 

 

――それでもトライする意義があると。

 

この問題は僕だけで、あるいはSPACだけで考えていても、まったく答えが出ないんです。

戯曲の中で、32年のドイツの人たちも考えるわけです。ここで俺たちがみんなやめてしまったならば、結局このベルリンの劇場はナチスがやりたいことをやるだけの小屋になってしまう。

 

むしろ、踏みとどまって、表面的には従ったように見せながら、バランスをとりながら、批判するような作品を出していけばいいんだとか。その方がしぶとい戦い方なんじゃないかとかね。

 

 

――そういう葛藤を、芝居を通して追体験している感覚でしょうか。

 

その通りです。この作品で何かを訴えたいというよりも、どう考えても到底答えの出ない、難しい問題だから、一緒に考えてくれる仲間を増やしたいんですよね。正直、僕らの得意なタイプの戯曲ではないけれども、この作品をSPACでやれば、考えてくれる仲間が増えるような気がしてね。

 

 

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宮城聰さん

 

 

アングラムーブメントと公立劇場は接続できるか

 

――『メフィストと呼ばれた男』は社会派リアリズムの作品ですが、演劇祭のプログラムを見ると、もう一つのSPAC製作作品である『ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む』は唐十郎さんの戯曲ですし、森の中で上演される『盲点たち』や、演劇版RPGと銘打たれた『例えば朝9時には誰がルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする』など、実験的な演目が並びますね。

 

プログラミングのコアになるコンセプトは「アングラ演劇50年」です。早稲田小劇場や状況劇場、天井桟敷など、日本のアングラ小劇場運動が1960年代なかば、ちょうど今から50年前にスタートしているんですね。その遺産がいかに継承され、発展を見せているのか。

 

また、運動の核となる考え方は一言で言うと、反権威、反自然主義、それからフォークロア、民俗的なものに対するリスペクト、そして、身体劇やサーカス、呪術といった、芸術以下と見なされていたものの復権だったと思いますが、それらを共有している海外の表現を集めたプログラムになっています。

 

 

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『ふたりの女 平成版 ふたりの面妖があなたに絡む』写真:橋本武彦 オリジナル版は1979年に劇団第七病棟(主宰:石橋蓮司)により初演された。

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『觀〜すべてのものに捧げる踊り』写真:CHIN Cheng-Tsai 台湾の振付家林麗珍(リン・リーチェン)率いる無垢舞蹈劇場は日本初紹介。

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.220 特集:スティグマと支援

・稲葉剛氏インタビュー「全ての人の『生』を肯定する――生活保護はなぜ必要なのか」

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