今、戦争を描くということ

第二次世界大戦フィリピン戦線を描いた大岡昇平の小説『野火』を映画化した監督・塚本晋也氏、そして少女と戦争をテーマにした作品で評価を受ける漫画家・今日マチ子氏、荻上チキを交えて戦争を知らない世代の三人が「戦争を描くということ」をテーマに語り合う。2015年11月22日(日)パルテノン多摩小ホールで開催された第25回TAMA映画フォーラム「今、戦争を描くということ」より抄録。(構成/大谷佳名)

 

 ■ストーリー

第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。日本軍の敗戦が色濃くなった中、田村一等兵(塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされる。しかし負傷兵だらけで食料も困窮している最中、少ない食料しか持ち合わせていない田村は早々に追い出され、ふたたび戻った部隊からも入隊を拒否される。そしてはてしない原野を彷徨うことになるのだった。空腹と孤独、そして容赦なく照りつける太陽の熱さと戦いながら、田村が見たものは……。

 

 

「何か」からのしるし

 

荻上 塚本監督はかねてから大岡昇平原作の小説「野火」を映像化したいと思われていたそうですね。改めて、この作品に対する思い入れはどれほどのものだったのですか。

 

塚本 初めて「野火」を読んだのは高校2年生くらいのときだったので、36年ほど前です。それからずっと構想を温めていて、本格的に映画化の準備を始めたのは30歳を過ぎたころでした。

 

ただ、映画を見て頂ければわかるように、これほどの大作を作ろうと思うと大変なお金がかかります。だからずっと先延ばしにしていたのですが、最近世の中の風潮がなんだか昔と違ってキナ臭い気がして。今作らないとこの先作るチャンスがなくなるような危機感があって、とにかく手をつけたという感じです。

 

荻上 ある種の不穏さを感じられていたんですね。原作でも最後の方で主人公・田村が「再び戦争の匂いが近づいている」と感じる場面があります。監督としては、映画を観る人に受け取ってほしい思いなどはあったのですか。

 

塚本 「とにかく映画を作りたい」という気持ちばかりが先走っていたので、なけなしのものを皆様に観ていただけるレベルに上げていくだけでいっぱいいっぱいでした。しかし、実際に作りはじめて無意識のうちに感じていたのは、みなさんに「70年前の過去の戦争」ではなく「目の前で起こっている戦争」の恐怖や臨場感を味わってもらいたい、ということでした。

 

それは自分自信が、映画を作ることで原作を追体験したいと思っていたからです。同じように映画を観ている人にも追体験してもらいたかったので、とにかく臨場感を大事にして作りました。

 

荻上 他の戦争映画と比べると戦闘シーンもほとんどないし、作戦やミッションもなくて軍の組織もボロボロになっていますよね。

 

塚本 そうなんです。部隊からも病院からも追い出された田村にとっては、「パロンポンに集まれ」という言葉が唯一の指令であり、生還の希望でもありました。でも、それがどこからの情報なのかは分かりませんし、命令を出した上官の姿も見えません。そもそも「パロンポン」という名前も、実際にはあるのですが、ここではちゃらんぽらんな嘘くささが漂っていますよね。

 

もっと言うと、この映画で敵の姿も全く写していません。それは、本当の敵は目の前のアメリカ兵ではなく、見えないところにいるというイメージがあったからです。だからジャングルの中で突然弾が飛んでくるといった描写にしました。

 

もっと予算がたくさんあったとしても敵の兵士を登場させたりはしなかったでしょう。本当に描きたかったのは、「なぜ自分たちはこんなことをしているんだろう」という不条理さだったので。巨大な自然を背景にした密室劇のような感じにしました。

 

荻上 飢餓や理不尽さが肉感的な臨場感を持って描かれています。過去の戦争ではなくて明日にも変化が起こるかもしれない、という生々しさを感じました。

 

塚本 昔の話ではありますが、やはり観ていただくのは今の人なので、言葉遣いも昔風のものにはなっていません。ぼくが演じたラストシーンでも、過去ではなく近未来の炎をみているような危機感と願いを込めて撮りました。

 

荻上 原作でも田村が「『何か』からのしるし」を感じとるという描写が繰り返されていましたよね。この作品も何かのしるしになるかもしれないと思います。

 

塚本 そうなるとありがたいですね。

 

 

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「自分と他者」という構図がなくなる

 

荻上 今日さんは「野火」をご覧になってどうお感じになりましたか。

 

今日 最初は塚本作品であることを忘れていて、いわゆる「戦争映画」、あまり残酷な描写がなくうっすらと「戦争反対」のメッセージが感じられるものだとナメてかかっていました(笑)。なので、映画を見た後はかなり打ちのめされてフラフラと映画館を出たというのが正直なところです。全編に漂う、「これはいつ終わるんだろう?」という田村の気持ちがずっと自分にも圧としてかかっていたので。

 

また、率直に残酷表現が使われていることにも驚きました。私自身そのような描写を嫌悪しているわけではなく、そうあるべきだと思っているんですが、実写・映像化することは色々大変だと思われる中で実際に使っている人がいるんだ、と思ったんです。

 

荻上 「いつ殺されるかも分からない」という戦闘体験のインパクトではなくて、とにかく人間の価値が軽視されているのが感じられますよね。

 

今日 本当に「虫ケラ」のような、なにをやっても無駄な状況で無駄に動いて、何のためにいるのかもわからなくなっていく。それはどんな気持ちなんだろう、と思いながら見ていました。

 

荻上 特に印象に残ったシーンはありますか。

 

今日 人肉を食べるシーンはもちろんショッキングではありますが、それよりも田村の肩の肉が飛ばされたときに、即座に自分で食べるシーンが一番ショックでした。私だったら自分の肉を食べるくらいなら誰かの肉を食べる方が罪悪感がないかも、ととっさに思ってしまいましたね。

 

塚本 それは新しい見方ですね。

 

荻上 人肉食だなんだって線引きすらも吹っ飛んでいる極限的な状況の中で、食を求めてさまようだけの飢餓した存在として描かれる象徴的なシーンでした。

 

今日 人肉食というと、(食べる)私と(食べられる)相手というはっきりしたものがありますよね。でも、自分で自分の肉を食べるとなると、「自分と他者」という構図がなくなっていく。それがすごく怖かったんです。自分以外の人間が存在しない精神状態になっていることが……。蛇が自分の尻尾をもぐもぐ食べている、あの姿を思い出してしまいました。

 

 

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自然の美しさと人間の愚かしさ

 

荻上 映画『野火』にはカニバリズムの要素もありますが、とくに「タブーに挑戦したい」という気持ちはなかったんですよね。

 

塚本 それはないですね。原作では、人を食べるか食べないかという問題が非常に重点的に描かれていて、神様まで持ち出して荘重なまでに高められていますよね。でも、ぼくは十年前に戦争体験者の方から実際に話を聞いて、荘重さよりもむしろ目の前にある命の危機、その切実さがあまりにも強く印象に残ったんです。

 

だから、いつ終わるのかも分からない飢餓のなかで、たぶん「その時」がきたら当然食べるだろうなと思って自分は描きました。なるべく原作に忠実に作っているつもりですが、「カニバリズムの映画」にしなかったからといって原作に失礼なことをしたとは思わっていません。むしろ、人を食べざるをえない状態に自然となってしまう「戦争」そのものの理不尽さを問いたかったのです。

 

それに、映画ですので原作の内容を全部入れるわけにもいきませんし、やはりポイントを見定めることは必要だと思ったので。そう考えると、最初に読んだときに印象を受けた、本当に綺麗なフィリピンの大自然と愚かな人間の有り様というコントラストだけで十分でした。

 

 

ブルー、少女、そして「戦争」

 

荻上 塚本監督も今日さんの作品を読まれているそうですね。

 

塚本 はい。実は3年ほど前、本当にお金がなかったので「野火」の映画化は一人で作るアニメにしようかと考えていた時期があったんです。そのころ、本屋でとても印象に残る絵をみつけました。ほんとうに何度も目に止まってしまう。それが今日さんの絵だったんです。

 

それは綺麗な緑の風景と水が描かれていて、ふわーっとした雰囲気のある絵なのですが、そのタッチがとても印象的でした。自分のつくるアニメはものすごくリアルなアニメにしてもいいけれど、いっそフニャーっとした、かわいいキャラの兵士から脳みそが飛び出ちゃうような絵も描きたいと思っていて。

 

だから、その絵を見てすごく惹かれたんです。その後に「戦争漫画を描いている人がいる」と聞いて、手に取ってみると「あの絵と同じだ!」と、初めて作品とお名前が一致したんです。

 

荻上 今日さんの漫画も、塚本映画とはちょっと違うやり方ですが、鮮やかなブルーや少女たちの可愛らしさと戦争とのコントラストが強調されているように感じます。

 

今日 おそらく『COCOON』という沖縄戦を描いた作品と、『いちご戦争』という南方の戦線を題材にした絵本が、『野火』の雰囲気に近いのかなと思います。実は塚本監督の『野火』を見るまでは原作を読んだことはなくて、ずっと「カニバリズム」という怖い印象を持っていました。

 

荻上 原作と映画を比べてみていかがですか。

 

今日 映画では神様の問題などは描かれていませんし、今の人たちの心にフィットするのは映画の方なんだろうなと思いました。

 

荻上 原作では神様とか天皇制とかいろいろなものを持ち出してまでカニバリズムを避けようとする田村の迷いが感じられますよね。

 

今日 そうですね。それに、花や緑の色彩の美しさを堪能できるのが映画の良さです。逆にその美しさが人間の愚かさをよく表しているなとも思います。

 

 

(左)荻上氏、(右)塚本氏

(左)荻上氏、(右)塚本氏

 

 

「本当にあった戦争なんだよ」

 

荻上 私たち全員が戦争を経験していない世代になるわけですが、監督は「飢餓でさまよう」という体験を映像化しながら、その美しい自然との対比でどういったことお感じになりましたか。

 

塚本 撮影を通して何かを得たというよりは、原作に近づいていくという全体的な行為そのものが、相当色々なものを気づかせてくれたと思います。というのは、ぼくは戦争が終わって15年ほど後に生まれましたが、高度経済成長期で高層ビルがどんどん立ち始めていたので戦争の影は全く感じられなかったんです。だから、いま「戦争ってなに?」と思っている人と感覚はほとんど変わらないんですよ。

 

今までは『野火』の映画を作りたくてもなかなか資金が下りなくて、その度に「戦争」が遠のいていくのを感じていました。けれども、ときどきどうしても奮い立って、だんだん近づいてくる恐怖に気づくんです。だから自分の方から積極的に戦争のことを調べるようになりました。

 

そうすると初めて戦争のことが見えてきて。それに、自主配給ですから自分で色々な地域の劇場を回っていくと、みなさん感想の代わりに自分の身内であった戦争の話を聞かせてくださるんです。そうして実際にあった出来事がだんだんと立体的になっていく。

 

『野火』のような出来事って「こんなのありえない」って言う人もいるのですが、ごく普通にあったことなんです。普通にあったことが今はないようにされてしまっていることが一番怖いですよね。映画を通して「本当にあったことなんだよ」と言うことができたので、作ってよかったなと思います。

 

荻上 大岡昇平自身も自分の戦争体験をテキストにぶつけたということもあるでしょうから、多くの戦争体験者の方と近いリアリティーがあると思います。原作に近づこうと作られた映画に、戦争体験の中にあったものが埋め込まれているように感じました。

 

塚本 そうですね。僕自身、原作を読んで感銘を受けて、そして自分で映画を作ることで今までボヤーっとしていた頭がすっきりしたんです。いま目の前で焼かれてしまっている人々の叫びや怨嗟の声がすぐそばで聞こえるような感覚になることができて。あの原作の価値が今更ながらすごいなと感じますね。そういう本は今後読み継がれていかなければならないと思います。

 

荻上 映画では、帰国後PTSDを抱えている田村の姿が妻の視点から描かれていて、その「どうすることもできない距離感」が強調されているように感じました。あれは完全に原作になかったシーンですよね。

 

塚本 原作では日本に帰ってからの話が結構長いですよね。映画ではその部分を原作者に申し訳なくならない程度に短くしましたが、あれはあれで良かったんだと思います。原作通り精神病院に行くところを描かなくても、ご飯が出たときのあの異常な反応で戦争後遺症を患っていることは伝わると思ったので。

 

荻上 戦争後遺症になった兵士の手記などを読むと、たとえば「自分が殺した子どもと同じくらいの子どもを抱きしめたり見つめることができない」といったことや、食事に関しては「どんなにお腹を壊しても全部食べないと気がすまない」という話があります。トラウマ体験とは表に出にくいかもしれないけど、あちこちに刻まれていますからね。

 

塚本 劇場周りをする中で、そうしたトラウマ体験のお話もたくさん聞きました。夜眠れないとか大声を出してしまうという話は特に多かったです。それに印象的だったのが、日本に戻ってきて働いている間は元気だったのに、定年退職した後にトラウマが甦ってきてアル中で亡くなったというお話でした。

 

荻上 ずっと蓋をされていたということですよね。【次ページにつづく】

 

 

 

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