テクノロジーの〈いま〉を哲学する 01 ーーテクノロジーと世界観

テクノロジーとは何か。それは私たちにとって何を意味し、私たちをどこに連れていくのか。私たちはテクノロジーをどのように扱い、それによってどんな未来を描き出していくのだろうか。この連載では、最新の科学技術の動向を俯瞰しながら、テクノロジーの〈いま〉を哲学していく。それによって、私たちが置かれている時代を広く見渡し、そこに潜む問題を、あるいは未来への展望を考えていく。

 

 

東京オリンピックと科学技術

 

日本政府は、2020年に開催される東京オリンピックに向けて、「科学技術イノベーションの取組に関するタスクフォース」を発足させている。これは、オリンピックを一つの契機として日本の様々な科学技術を推進させようとするプロジェクトであり、たとえば通信機器やロボット技術を活用した「スマートホスピタリティ」、最先端の空間映像技術を用いた「新・臨場体験映像システム」の開発が掲げられている。その中心的な理念は「科学技術イノベーションで世界を大きく前進させる。」というものだ。

 

言うまでもなく、オリンピックはスポーツの大会であり、平和の祭典である。科学技術を推進することは、スポーツとも平和ともさしあたり関係が無いように思える。少なくとも巨額の国家予算を投じてタスクフォースを結成し、「世界を大きく前進させる」という崇高な文言を掲げることが、オリンピックの開催にとって必然的な要件であるかは定かでない。とはいえ、日本政府がそうした施策をとること自体には、ある一貫した理由がある。それは、そもそも日本が科学技術の推進を国是とする国である、ということだ。

 

たとえば、1995年に制定された科学技術基本法には、科学技術に日本の未来を託そうとする姿勢が鮮明に打ち出されている。その主旨はだいたい次のように要約できる。日本はこれまで他の先進諸国の後を追う存在であったが、今後は世界のトップランナーとして存在感を発揮しなければならない。そのために科学技術の進歩が不可欠である。一方で、日本は天然資源に乏しい上に急速な高齢化を迎えているため、産業の空洞化を回避するために「独創的、先端的な科学技術を開発し、これによって新産業を創出することが不可欠」になる。こうした文言には科学技術に対する日本の期待の高さが示されている。しかし、同法の施行理由には次のような興味深い言葉が付け加えられている。

 

 

さらに、科学技術は、我々の自然観や社会観を大きく変え、新しい文化の創成を促すという側面を有するため、これを人間の生活、社会及び自然との関わり合いの中でとらえていく必要があり、このような視点も踏まえ、新たな視点に立った科学技術を構築していくことが求められます。

 

 

この一文はどう解釈したらいいのだろう。科学技術が自然観・社会観・文化を変化させていくということは、ポジティヴな現象なのだろうか、それともネガティヴな現象なのだろうか。科学技術を「人間の生活、社会及び自然との関わり合いの中でとらえていく」ことは、希望を語ることになるのだろうか、警告を語ることになるのだろうか。

 

一般的に、自然観・社会観・文化は、人文科学が対象とする領域である。そうである以上、科学技術のあり方を考えていくためには、理系・文系の区別に囚われずに、横断的に、俯瞰的に思考することが必要である。とはいえ、問題はそう簡単でもないのかも知れない。もう少し哲学的に考えていこう。

 

 

テクノロジーによる世界観の変容

 

テクノロジーは自然観・社会観・文化に対して影響を与える。それは、私たちが普通に考える学問領域を横断する現象であるとはいえ、決して珍しいことではない。むしろ、新しいテクノロジーが開発されるとき、そうした現象は常に当然のように発生してきた。その意味では、この現象は極めて凡庸なものでもある。これについて、少し足を止めて考えてみたい。

 

話を単純にするために、自然観・社会観・文化を、以下では「世界観」と総称する。そう呼ぶことでいくらかイメージは変わるかも知れないし、問題が巨大化したように感じられるかも知れない。しかし、問われていることに変わりはない。テクノロジーは私たちの世界観を変える。それは具体的には何を変えることになるのだろうか。

 

世界観とは何か、という問いは、それだけで無数の本が書けるほど巨大な問題であるが、ここでは次のような大まかな定義を与えたい。すなわち世界観とは、世界で起きる事象を意味づける統一的な解釈の枠組みである。事象は、それだけでは意味をもたず、世界観というフィルターを通すことで、はじめてそこに意味を見出される。

 

たとえば虹という事象を使って説明してみよう。私が雨上がりの虹を見たとする。私は「虹だ」と思う。その虹をみて、「ああ、今日は良いことがあるかも知れない」と思うとする。しかし、虹という自然現象と、私に幸運が起きるという予感との間には、一切の必然的な関係が存在しない。そのとき私は、論理的な関係を飛び越えて、虹という現象のうちに幸福の予感という「意味」を見いだしている。何故だろうか。それは、私が「虹は幸福の前触れである」と考えられるような一つの「世界観」をもっているからである。

 

世界観は文化によって形作られていく。もともと「虹」という漢字は、空をまたぐ巨大な蛇の意味であり、ここには漢字文化圏の人々の世界観が反映されている。漢字文化圏の人々にとって、虹は大蛇を意味していたのである。一方、英語圏において虹は「rainbow 雨の弓」を意味している。虹という一つの事象が、大蛇に見えるか、弓に見えるか、それは世界観によって決定されるのだ。ギリシャ神話の世界観において、虹はイリスという名の天使である。キリスト教の世界観において、虹は神との契約の象徴である。このように、虹は、それがどの世界観によって解釈されるかによって、まったく違った意味をもつようになる。

 

要するに、同じ一つの事象であっても、それがどのような世界観に属するかによって、違った意味をもつものとして立ち現れるのだ。世界観が変われば、そのなかで現れる物事の姿も変わってしまう。そうである以上、テクノロジーが世界観に影響を与えるということは、それよって私たちの前に現れる物事の意味をも変えてしまう、ということになる。

 

最初の問題に戻ろう。では、テクノロジーによる世界観の変容は私たちにとって何を意味するのか。その変容は私たちにとってどのように経験されるのだろうか。テクノロジー的な世界観というものが仮にあるとすれば、それは私たちの生きる世界をどのように意味づけてゆくのだろうか。

 

この問題に極めて深く切り込んだ哲学者がいる。20世紀の巨人マルティン・ハイデガーだ。

 

 

挑発される自然

 

技術の本質とは何か。この問いに対するハイデガーの回答は少し変わっている。ハイデガーに拠れば、技術の本質は、それが生活を便利にしていくとか、日ごとに進歩していくとかいうことにあるのではない。むしろそれは、私たちと自然の関係を変えてしまうという点にこそある。私たちがテクノロジーを当たり前のように使用し、そのことに何の疑問も抱かなくなっているとき、私たちは今までとは異なる形で自然と関わることになるのだ。私たちの議論に引きつければ、それは世界観を変えてしまう、ということと同義である。

 

ハイデガーはその関わり方を「挑発」と呼ぶ。「挑発」とは、ハイデガー自身の表現を用いれば、「エネルギーを、つまりエネルギーそのものとして掘り出され貯蔵されうるようなものを引き渡せという要求を自然にせまる」(注1)ことである。テクノロジーの本質は自然を「挑発」するということにある。しかし、これだけでは何が何だか分からない。もう少し具体的な例を使って考えてみよう。

 

(注1)マルティン・ハイデッガー『技術への問い』関口浩訳、平凡社、2009年、p. 23

 

ハイデガーは水力発電所を例に挙げる。水力発電所は河の水圧を利用してタービンを回し、電力を供給するテクノロジーである。もしかしたらその河は、人間が利用する前から、単なる河としてそこに流れていたかも知れない。私たちは、発電所が建設される前には、その河を美しい自然の景観の一部として眺めていたかも知れない。しかし、一度発電所が建設されると、河の見え方は一変する。河はそれよって電力を生産するための道具として、いわばそのための資源として理解される。私たちは、河を眺めて、美観を見いだすのではなく、そこからどれくらいの電力が獲得されるかを算定するようになる。このとき私たちは、自然を、エネルギーを貯蔵する容器のようなものとして捉え、そこからエネルギーを抽出するために自然に迫っていく。それが自然を「挑発」するという関わり方である。

 

ここで問題になっているのは、水力発電所の建設によって環境が破壊される、といったことではない。むしろ問題は、私たち自身の自然の眺め方が一変してしまうという点にある。ハイデガーは次のように述べている。

 

 

水力発電所はライン河のなかに、その岸と岸とを何百年ものあいだ結びつけてきた古い木の橋々のように建てられるのではない。むしろ河の方が、発電所のための用材のひとつとして使われるのである。河は、発電所の本質にもとづいてそれがいま河としてあるところのもの、すなわち水圧供給者である。しかし、ここに存している途方もないものをほんのわずかでも計り知るために、少しのあいだ、次のようなふたつの表題で言表される対立に注目しよう。すなわち、発電所のための用材とされた「ライン河」と、同じ名前を冠したヘルダーリンの賛歌という芸術作品のなかで言われた「ライン河」と。(注2)

 

(注2)前掲書、p. 25

 

 

ここでハイデガーは水力発電所に用いられる「ライン河」とヘルダーリンの作品となった「ライン河」を区別している。ある意味では、両者はともに同じライン河である。しかし、それはまったく異なったものとして私たちの前に立ち現れる。水力発電に用いられた「ライン河」は、もはやヘルダーリンが詩にした「ライン河」と同じものではない。それは、テクノロジーによって「挑発」され、そこから電力を引き出すためだけに存在するような、単なるエネルギー貯蔵地でしかないからだ。

 

とはいえハイデガーは、だから、テクノロジーは悪であると批判しているわけではない。むしろ彼が批判するのは、こうしたテクノロジー的な理解だけが唯一の理解であると思い込んでしまうことである。私たちは水力発電所のための河に心を奪われているとき、その同じ河が、ある時には詩情に満ちた美しい景色としても立ち現れるということを、忘れてしまう。私たちがテクノロジーを当たり前のように考え、ある事象を、それがどのように役に立つか、という眼差しのもとでしか理解しなくなるとき、私たちは、その同じ事象が、別の眼差しのもとではまったく違ったものとして存在しうるということを、忘れてしまう。そのとき、私たちと自然との関係は貧しいものになってしまうのだ。

 

 

もう一つの眼で眺めること

 

ハイデガーの議論から何を学ぶことができるのだろうか。前述の通り、私たちはテクノロジーについて考えるとき、それを単なる有用性の観点からだけでなく、自然観・社会観・文化への影響という観点からも考えなければならない。それは、テクノロジーによって世界観が変容し、今まで私たちが馴染んできた物が、まったく違った意味を帯びて立ち現れてくる、ということだ。そして、重要なのは、私たちは往々にしてその変容に気付かない、ということである。

 

詩情に満ちた風景としての「ライン河」は、それが水力発電の動力源になった瞬間に、ただの「水力供給者」になる。その変化は静かに、目立たずに、私たちの気付かないままに行われる。そして私たちがその変化に自覚できない限り、私たちは「ライン河」を詩情に満ちた風景として眺めることが決してできない。私たちは、「ライン河」が、まるで最初から私たちの電力のための「水力供給者」だったように思いこんでしまうのだ。

 

もちろん、そうしたテクノロジーによって変容された世界観が必ず悪いわけではない。しかし、必ずしもそれが絶対的に望ましいとも限らない。問題なのは、テクノロジーによって変容された世界観が私たちにとって望ましくないとき、もう一つの眼で世界を眺めることができるかどうか、ということである。「水力供給者」としての「ライン河」を詩情に満ちた風景として眺めるためには、いわばそうした眺め方を取り戻すために、私たちには「もう一つの眼」で世界を捉える力が必要なのだ。

 

この連載では、私たちの社会を彩る様々なテクノロジーについて、それを「もう一つの眼」から眺めていきたい。ただしそれは、テクノロジーを批判するためにではない。むしろ、テクノロジーの〈いま〉により深く迫り、その本当の姿を捉えるために、またそれを通じて、私たち自身の世界を、新しい光のもとで考えていくためにである。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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