2014.12.25

固定的人間関係原理から見た解釈の矛盾──新自由主義と「第三の道」の場合

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #リスク・責任・決定、そして自由!#ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼

前回は、1970年代までの国家主導的なシステム、とくに、アメリカ・リベラル派や旧来の社会民主主義の担った福祉国家システムが、固定的人間関係原理と流動的人間関係原理との「幸せな総合」によって根拠づけられていたということを見ました。この「総合」を可能にしたのが、社会契約説の理屈で、前回はとくにアメリカ・リベラル派の代表的政治哲学者、ジョン・ロールズの「無知のベール=天使の社会契約」の論理について検討しました。

こうした社会契約説の理屈付けはたしかにフィクションですが、私は、1970年代までの先進国の状況の中では、人々に自然に受け入れられる現実的根拠を持っていたのだと述べました。しかし、そのあと1980年代以降、固定的人間関係のシステムが崩れて流動的関係が世界をおおうにつれて、本来矛盾する両人間関係原理を「総合」させてきた「天使の社会契約」の理屈の無理矢理さ、中途半端さが露呈していくことになります。ロールズも各方面からの批判を受けて、次々と致命的な後退を余儀なくされて行きます。

さて今回は、1980年代以降の社会システム転換で、福祉国家体制に替わって採用された新自由主義と、その後の「第三の道」が、どのような思想的立場でこの転換を理解したのかを検討したいと思います。結論から言うと、本来は流動的人間関係がメジャーになるシステム転換だったのに、まったく逆の固定的人間関係原理にフィットした思想の視点から、この転換を解釈したということです。そこに根本的なボタンの掛け違えがあったということを確認しようと思います。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

国家間バトルロワイヤルというグローバル市場観

まず、新自由主義のボタンの掛け違えから見ていきますが、これについては、読者のみなさんの多くも私と同じく新自由主義に批判的な立場でいらっしゃるだろうという前提に甘えて、時間と紙幅の節約のために、いささか印象論的な議論ですませることをご容赦下さい。今回の議論は、このあとで見る「第三の道」のボタンの掛け違えの検討の方に重点をおきたいと思います。

さて、私見では、新自由主義はナショナリズム思想を採用したと言えるでしょう。ナショナリズムは、国家という身内集団への忠誠に一番の価値を置くという点で、典型的な固定的人間関係原理の思想です。

ところが、現実のグローバル化・市場化は、これとはまったく逆に、流動的人間関係原理がメジャーになる転換です。ではこの事態は、ナショナリズムに立つ新自由主義の立場からは、どのようにとらえられたのでしょうか。

一言で言えば「国家間バトルロワイヤル」のイメージだっただろうと思います。つまり、「日本系企業」「アメリカ系企業」「韓国系企業」等々と、企業どうしが国ごとでまとまって、国際市場を舞台に仁義なき戦いを繰り広げるというイメージです。そしてこの国際競争に勝ち抜くためにと称して、規制緩和で生産性を上げるとか、賃金を抑制するとか、法人税を下げるとかが叫ばれたわけです。福祉をはじめとする財政の削減も、同様に、国際競争力をつけるための効率化と言って正当化されました。

ところが、新自由主義を後押しした新古典派経済学が嫌う財政支出は、別に福祉などにかぎった話ではなかったのに、新自由主義の政治家は、こと「成長分野」の産業育成だの技術開発だの電源開発だの鉱物資源確保だのに限っては、おおかたの新古典派経済学者のタブーを無視して、国家予算を大々的につぎ込むことに躊躇しません。これは、経済学者の目から見たらまったく矛盾した態度に見えますが、政治家たちが、「企業を武将として使う経済戦争」というイメージで物事を考えているのだと解釈すれば、すっきり説明がいきます。

国際競争に勝とうとすると国の独自性がなくなる

もちろん、本当はこのイメージは現実と合致していません。大企業が国旗を背負って世界で戦ってくれるなどというのは政治家の勝手な思い込みで、もともと資本の論理は国家に忠誠など持ちません。必要とあらば、いつでも国内の工場をたたんで世界に出ていくし、いつでも外資に身売りします。調達先は世界中の一番有利なところを選び、世界中から優秀な人材を抜擢します。それをやり抜いた企業が勝つということこそ、グローバル時代の国際競争なのです。

そうすると、国際競争に勝てば勝つほど、いったい誰の勝利なのかわからなくなってきます。行き着くところは、日系企業と称する企業は世界中で活躍しながら、日本国内には本社とせいぜい開発部門しか残らず、そこでは世界から集めた少数のエリートが英語で仕事をしているだけ。世界中で外貨を稼いでも、日本に送金されて円に換えれば円高になってますます国内産業を空洞化させ、さもなくば海外で再投資されて国内の雇用にはさっぱりつながらない──そんなことになりかねません。

労働条件を切り下げて、法人税を下げて、なるべく企業を国内に呼び込もうとしても、結局淘汰の末、外資ばかりが生き残るかもしれません。かつてイギリスのサッチャー政権下で行われた金融自由化の結果、イギリス国内の金融業は活性化したはいいが残っているのは外資ばかりということで、外国人選手ばかりが活躍するテニスの選手権大会になぞらえて「ウィンブルドン効果」と呼ばれました。それはよそ事ではありません。

あるいはそうならなくても、生き残ろうと思えば、企業の運営の仕方にしても、経済全体のシステムとしても、世界で一番成功しているやり方をまねしないわけにはいきません。それは多くの場合、アメリカのやり方ということになるでしょう。あるいは、大きな企業の都合にとって、世界で一番緩い基準、世界で一番軽い負担に、どこの国も制度を合わせていくことになります。

かくして、「日本が強くなるため」として「国際競争力」なるものの向上に成功すればするほど、日本の労働者の雇用も賃金も抑えられ、日本企業から「日本の」企業という内実はなくなり、日本国家からも固有の日本らしさは失われて、ますます世界のどこにでもある、身も蓋もない権力装置一般になってしまう動きが起こります。

こんなことが進行すると、ナショナリズム感情を満足させるためには、経済やテクノロジーの必然にさしあたり抵触しないような、歴史認識だの文化だの宗教だのといったところでのナショナルプライドにこだわるようになるのは自然な流れでしょう。しかし、ますます多くの人が、取引や共同事業、雇用などで、ますますグローバルで緊密な国際的人間関係にさらされるようになる今日、一見経済と無関係のようなそのような分野での自己満足的ナショナリズムが進行することは、やがてボディブローのように確実に経済的メリットを蝕んでいくに違いありません[*1]。

[*1] 日本の場合、戦争評価で「アメリカ様」の虎の尾を踏むという点でも、新自由主義の自家撞着に陥る。

「小泉パッケージ」は成り立たない

だからそもそも、ナショナリズムのような固定的人間関係原理にフィットした思想で、市場化、グローバル化という、流動的人間関係がメジャーなシステムへの移行をとらえようとすること自体に無理があったわけです。

今日では、市場化、グローバル化を推進しようという立場の人は、国の自立性や独自性はなくなってもOKと言わないわけにいきません。世界に権力機関はアメリカ政府だけあれば十分、各国にあるのはその出先機関でいい。そう言い切ってこそすっきり筋が通ります。逆にナショナリズムにこだわろうと言うならば、市場化・グローバル化に歯止めをかける立場に立たないと筋が通りません。

だから、今日に至ってもなお、市場化・グローバル化・「小さな政府」の推進とナショナリズム強調の両方が載る「小泉パッケージ」を掲げる人は、両者の矛盾に気がつかない能天気な人であるか、さもなくば、実は自分の都合で国を選べる絶対強者のエリートの利益に立っていながら、大衆を目くらましするためにナショナリズムを利用している悪意の人であるかのどちらかでしょう。もはや、文楽に公金を出さずにジャズと同列に自由選択される私事にしながら、「君が代」は自由選択の余地なき強制にするという、矛盾した政治は成り立たないのです。

コミュニタリアン思想に依拠した「第三の道」

では、新自由主義のもたらした歪みの是正を掲げて登場した、ブレア=クリントン流「第三の道」路線の場合はどうでしょうか。以下では、筆者が、2013年の共著書『市民参加のまちづくり【グローカル編】──コミュニティへの自由』(創成社)の第1章「コミュニティからの変革の政治哲学的基礎付け──リベラル風コミュニタリアンの蹉跌を超えて」で述べたことを、要約してご紹介したいと思います。詳しくはこの本をご検討下さい。

ブレア=クリントン路線の掲げるスローガンが、昔の社会民主主義やアメリカ・リベラル派のものと違う大きな特徴は、市民を一方的な福祉の受給者とみなさないということです。もちろん、自助努力の名のもとに社会的排除を進める新自由主義とも違うとされていますが、しかし、お年寄りや障がい者のような社会的弱者にも、従来は専業主婦であった層にも、働くことを通じて社会参加を求めることが強調されているのです。

ここでキーワードになっているのが、「社会的包摂(インクルージョン)」ということです。お年寄りも障がい者も、いろいろな人々をコミュニティの一員として受け入れ、いっしょに日々の暮らしを作っていこうという理念です。

こうした路線は、政治哲学では「コミュニタリアン(共同体主義者)」と呼ばれる潮流によって正当化されました。コミュニティでの人のつながりを重視する思想潮流です。90年代のアメリカでは、民主党の政治哲学のブレーンがリベラル派からコミュニタリアンに入れ替わったのです。「大きな政府」による社会保障を充実させようとしたアメリカ・リベラル派に替わって、クリントン政権ではコミュニタリアンのウィリアム・ガルストンさんがホワイトハウス入りしました。そして、「大きな政府」よりはむしろコミュニティと「アソシエーション」(ガルストンさんの場合、民間社会事業を指す言葉)に依拠しようという政策方向を打ち出したのです[*2]。ブッシュ大統領に大統領選挙で惜敗した民主党のゴア候補が、自分のことを「コミュニタリアン」と公言していた[*3]ことは時代を象徴していたと言えるでしょう。

[*2] 坂口緑 (2007)「コミュニタリアニズムの政策論──エッチオーニとガルストン」、有賀誠・伊藤恭彦・松井暁編『ポスト・リベラリズムの対抗軸』ナカニシヤ出版、第3章、45-46ページ。

[*3] 同上48ページ。

さらに、ヨーロッパでは、もともと協同組合や非営利組織が、「第三セクター」とか「社会的セクター」と呼ばれて、分厚い層をなしてきましたから、ブレア労働党の「第三の道」はじめ、多くの社会民主主義勢力が、行き詰まった福祉国家路線に替わるものとしてこうしたコミュニタリアン的路線に向かったことは自然なことだっただろうと思います。

しかし、コミュニタリアン思想は、個人に先立ってまず共同体ありきで話を説き、共同体の一員として人が作られるものなのだと強調します。明らかに固定的人間関係原理の側の思想です。それが、多少なりとも「小さな政府」を容認し、市場原理を積極的に活用しようとする「第三の道」の流動的人間関係志向の姿勢と、どうつじつまを合わせたつもりだったのでしょうか。

コミュニティ路線が極右排外主義を生んだ

この矛盾を正面から取り上げた本があります。2012年に出た水島治郎さんの『反転する福祉国家──オランダモデルの光と影』(岩波書店)です。

90年代以降オランダで取られた、その名も「オランダモデル」こそ、「第三の道」の典型モデルだったと言えます。その具体的な政策としては、有名なものでは、ワークシェアリング(労働時間短縮による雇用創出)、ワークフェア(就労を通じた福祉)、フレキシキュリティ(解雇規制の緩和など労働市場の柔軟化と非正規労働者の地位向上=事実上の正規化の組み合わせ)などがあげられます。これらのそれぞれについては、「第三の道」的立場に立つ人たちの間でも、賛否両論さまざまあるでしょう。しかし重要なのは、これらの政策がひとつの共通の理念で貫かれているということです。

それが「参加」ということです。コミュニティへの参加を通じた社会的包摂の実現を目指す政策[*4]という点で、本稿に言う、コミュニタリアン思想に立ったブレア=クリントン路線の典型だったと言えるわけです。主として90年代の社会民主主義政党とリベラル派の連立政権下で、それをどの国よりもめざましく実現してきたことが、水島さんのこの本の副題に言う、「オランダモデルの光」にあたります。

[*4] 水島同上書、42-43ページ。

他方で、水島さんの本の副題の「影」にあたるのは、従来「寛容」で知られ、「アンネの日記」の昔から異質な移民をオープンに受け入れてきたオランダで、今世紀に入ってから移民排斥を唱える新しい右翼運動が隆盛していることです。その広がりの前で、既成政党もこの主張を無視できなくなり、オランダ国家の移民・難民政策は、門戸制限の方向に大きく舵をきることになりました。

水島さんのこの本が衝撃的なのは、これが本の副題にあるように、「オランダモデルの影」なのだということです。「光」と「影」が別物なのではなくて、「光」の側面が「影」を生み出している構造を喝破したことが重大なのです。

すなわち、「参加」の重視ということが、参加できる者とできない者との間に線を引くことをもたらすのです。コミュニティの一員として「社会的包摂」を目指すということは、コミュニティのために貢献しない者、「包摂しがたい存在」を、コミュニティの一員でない者として排除することに通じます。「包摂」と「排除」は表裏一体ということなのです[*5]。

[*5] 同上書、191-199ページ。

水島さんによれば、オランダにおいて、従来の政策を転換して移民制限を進めた右派系のバルケネンデ首相は、自らの立場を「コミュニタリアン的」と称しているそうです。そしてエツィオーニさんやマッキンタイヤーさんのようなコミュニタリアンの有名論客を引用していると言います[*6]。思い返せばかつてフランス極右「国民戦線」を創設したルペンさんは、フランス人にはフランス人の、イスラム教徒にはイスラム教徒の伝統があるのだから、それぞれ互いに尊重しあって干渉しないために、互いの場所に入り込んではいけないというレトリックで移民排斥を語ったものでした。

[*6] 同上書、150ページ。148-149ページも注目のこと。

イスラムはじめ、欧米先進国以外をも巻き込んで展開するグローバル化に直面する中にあっては、コミュニティをベースにした社会的包摂型の福祉社会という路線は、その背景にあったコミュニタリアン思想自体から、理の当然として排除の論理を生み出すわけです。

第8章で取り上げましたように、日本において、20世紀型福祉国家である「所得分配中心・ニーズ決定型の福祉国家」から、新しい「社会的包摂中心・ニーズ表出型の福祉ガバナンス」への転換を唱えてきた[*7]代表的論客は、宮本太郎さんです。ほかならぬこの宮本さんが、今日、ワークフェア型福祉と、北欧極右などの福祉排外主義との関連を指摘している[*8]ことからも、この問題の重大性を見て取ることができます。

[*7] 例えば宮本太郎(2006)「新しい福祉国家のガバナンス──新しい政治対抗」、『思想』2006年3月号。

[*8] 宮本太郎(2004)「新しい右翼と福祉ショービニズム──反社会的連帯の理由」、斉藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房、第2章、61-62ページ。

コミュニタリアンのリベラルとの妥協

もちろん、コミュニタリアンの論客たちが、排他的な閉鎖集団への力学を警戒しないほど鈍感だったわけではありません。それは、80年代の「リベラル・コミュニタリアン論争」[*9]で、リベラル派の側からさんざん言われつくされた論点だったと言えます。

[*9] 簡単な解説は、碓井(2012) 『革新の再生のために──成熟社会再論』文理閣、143-145ページ。

あのときは、いまや白熱教室で有名なサンデルさんが、当時新進気鋭のコミュニタリアンの論客としてリベラル派の大御所のロールズに挑んだのですが、サンデルさんたちは、人間というものはもともと、どこかの特定の共同体に埋め込まれた存在で、リベラル派の想定するような、のっぺらぼうの抽象的個人なんかどこにもいないのだと批判しました。曰く──リベラル派が普遍的だと思っている人権などの正義は、実は普遍などではない欧米社会の個別的な「共通善」の一種にすぎない。だから、政治過程から、何が「善」かの道徳的価値観をぬぐい去って中立を装うことなどできない。それぞれの共同体によって形成される「善き生き様」を重視し、人々の間のきずなに基づく道徳秩序を再興せよ!

こんな論調に対して、リベラル派はやっきになって、共同体が個人を抑圧する危険を指摘し続けたわけです。

こうした批判を受けて、1990年代には、コミュニタリアンたちは、「ニュー・コミュニタリアン」と名乗り、リベラル派の論点への譲歩を見せました。その見解は、エツィオーニさんによって編まれた『ニュー・コミュニタリアンの考え方』[*10]という論考集に示されています。冒頭の論文[*11]でエツィオーニさんが述べているのは、自分はリベラリズムが主張する論点を否定しているわけではなくて、すべて受け入れているのだという弁明です。

[*10] Etzioni, Amitai ed. (1995) , New Communitarian Thinking: Persons, Virtues, Institutions, and Communities, The University Press of Virginia.

[*11] Etzioni, A.,“Old Chestnuts and New Spurs”, ibid., pp.16-34.

──「個人」か「共同体」か、などという根源をめぐる論争は不毛であって、互いに根拠づけあっている。共同体の多数メンバーが合意することだからと言って何をやってもいいわけではない。やはり人権が優先されるのは当然だ。個人の権利と社会的責任は表裏一位なのであって、権利をないがしろにするつもりはない。バランスが大事なのであって、自分はロックやスミスのようなリベラリズムの創始者と違うことを言っているつもりはない。ロックやスミスは、集団の縛りが強すぎてバランスがとれていない時代にいたから個人の権利を強調したのだ。自分は、いまのアメリカは逆に個人の権利を主張しすぎる方向でバランスがとれていないと思うから、共同体と社会的責任を提唱しているだけである──等々。

スプレージェンズさんは、その名も「コミュニタリアン・リベラリズム」と題した章[*12]で、リベラリズムは本来コミュニタリアニズムと違いがないのだと論じました。すなわち──リベラリズムも決して価値中立的ではなく、「自由」というものを根源的な社会的価値として提唱しているのだし、リベラリズムの古典である、ロックもスミスもミルもコンドルセも、大真面目に道徳のことを考え、当然のように「共通善」を求めた。しかもリベラリズムはもともとから、「自由・平等・博愛」の価値観に立って、「博愛」を自由な社会の究極目的とみなした。これは、コミュニティの市民間の友愛にほかならず、コミュニタリアンの立場と同じである──と言います。

[*12] Spragens, Jr., T. A., “Communitarian Liberalism”, ibid., pp. 37-51.

ウォルツァーさん[*13]は、コミュニタリアンによるリベラリズム批判なんて自家撞着していて、「コミュニティ」のような基礎概念もはっきりしないし、ちゃんとしたひとつの思想になっていないと言います。しかしなぜ彼自身コミュニタリアンを続けているのかというと、コミュニタリアニズムの存在意義は、リベラリズムの行き過ぎを正すことにあると言うのです。だから、彼もやはりリベラリズムの個人の自由と権利を尊重する立場を受け入れているのだけど、自由主義的社会では個人間の社会的きずなが失われる傾向が常にあるために、ときおりコミュニタリアンがやってきて批判する必要があるというわけです。

[*13] Waltzer, M. “The Communitarian Critique of Liberalism”, ibid., pp. 52-70.

こんなふうなバランス論的な折衷によって、90年代のコミュニタリアンは、コミュニティの再建を求めることが、個人の自立や開放性、人権原理などと両立すると請け負ったわけです。そして、それを真に受けて、ブレア・クリントン・オランダモデル、そして日本の民主党政権に至る路線は、「寛容」と人権を旨とする左派、リベラル派の王道を引き継いでいるつもりで、自律したコミュニティへの包摂路線を推進したわけです。

アメリカのコミュニティだから成り立った妥協

このようなニュー・コミュニタリアンによるリベラリズム論点丸呑みは、一見ごく真っ当に見えるかもしれません。しかし、それはアメリカ人である彼らがアメリカのコミュニティを念頭においているからこそ言えることだと思います。

すなわち、建国の共和主義的理念を引き継ぎ、「大草原の小さな家」のような自立した独立生産者たちが作った伝統の共同体。それはその共同体の価値観の中に本質的に個人の自立と自由、互いの権利の尊重が含まれています。その建国の理念は、もとを正せばロックたち啓蒙思想家に行き着くのですから、彼らリベラリズムの創始者たちがアメリカ・コミュニタリアンの提唱する価値観を唱えていたのはそもそも当り前です。

こんなコミュニティを前提しているかぎり、コミュニティでの決まりごとよりも、個人の尊厳や人権が優先すると言ってみせても、実際にはそこに深刻な対立など想定されていなかったと言えるでしょう。

しかし日本に住む私たちが、ムラ社会や会社の共同体の価値観を思い出したならば、そうは牧歌的にいかないぞという気持ちになります。ましてこれが例えば、タリバンのコミュニティの価値観だったらどうなるでしょうか。

リベラル対コミュニタリアン論争のとき、コミュニタリアンが、「人権」などのリベラル側の言う「普遍的価値」は実は「普遍」ではなく、特定の「善」の一種にすぎないと言ったことを、90年代の妥協的コミュニタリアンは忘れてしまったのかもしれません。だが、現実にはそれは欧米世界の価値観で、世界には「人権」など知らない生活をしている人々がたくさんいたのです。そういった世界のコミュニティから見れば、アメリカ人の言う「人権」など、欧米世界の特殊な「善」の一種にすぎず、自分たちにはそれと異なる独自の「共通善」があるのだということにならないでしょうか。

こう考えれば、90年代のニュー・コミュニタリアンのような軽々しい妥協はできなかったはずです。それなのにそこをあいまいにして、我々のコミュニティの共通善は大事で人権は優先されるぐらいのまとめ方でいたから、いざそれとかけ離れた価値観のコミュニティとぶつかったならば大ごとになります。「我々アメリカ人のコミュニティの共通善は大事で、人権原理などは、その価値ある共通善のひとつとして世界に広げてしかるべき」と言ってネオコンに流れる人が出ることも自然です。

コミュニティの独自性尊重でいいのか

もちろんコミュニタリアンは、それは自分たちの本意ではないと言うでしょう。実際エツィオーニさんは対外宥和を訴え、ガルストンさんもイラク戦争に反対しています[*14]。国内でも国際関係でも、それぞれのコミュニティが互いを尊重しあい、それぞれの「善」が共存しあう状態を望むのがコミュニタリアンの立場だとされています[*15]。しかし、それで問題が解決するのでしょうか。

[*14] ただし、左派コミュニタリアンとして知られたウォルツァーは、アフガニスタン攻撃に賛成した。碓井前掲書、48、146ページ。

[*15] 坂口前掲書、58-59ページ。

世界には、陰核切除をするコミュニティもあるし、悪魔狩りをするコミュニティもあるし、レイプの犠牲者の女性側を殺すコミュニティもあります。それぞれのコミュニティの「共通善」を尊重するというならば、これらに対して批判することも、「先進国の特殊な価値観からの裁断である」として退けられなければならないことになります。しかしこれらのコミュニティのメンバー全員が、こうした価値観を受け入れているのかというと、やはり同調圧力からこぼれ落ちて抑圧を感じる犠牲者は必ず存在します。深沢七郎の『楢山節考』でも、姥捨ての風習を内面化して淡々と死に臨む老婆とともに、どうしてもそれを受け入れられず最後まであがいて殺される老人が描かれているように。こうした犠牲者のことは座視してすませてよいのでしょうか。

この問題のわかりやすいケースが、今年のノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんのことですね。教育などへの女性の権利を訴える活動をした結果、「欧米の文化を推進した」としてタリバンから銃撃されてしまいました。彼女のことをこんなふうに「欧米の手先」扱いしているのは、タリバンみたいな過激な人たちだけでなくて、現地の伝統的な大衆にも多いのです。では、それがそのコミュニティの「共通善」なのだからと言って、マララさんの訴えに耳をかさなくてもいいのでしょうか。

あるいはこんな仮想例はどうですか。コミュニタリアン・リベラルは、もちろん右翼と違って移民に寛容です。では私が移民となって少女婚のあるコミュニティに移り住み、現地の慣習に従って本人の意思にかかわらず少女と結婚し、彼女が浮気したら現地の慣習に従って彼女を殺害してもいいのでしょうか。先進国の価値観を押し付けることなく、そのコミュニティの「共通善」を受け入れて同化しているのですから、コミュニタリアンの立場からすれば、誉められこそすれ非難される言われはないことになりませんか。

ブレア=クリントン=日本民主党政権のコミュニタリアン・リベラルの姿勢では、先進国の主流コミュニティに向かっては、同性愛も中絶も認めろ、女性差別も児童虐待もするな、排外主義は駄目だと言って、しばしば伝統的な価値観を否定する一方で、移民や発展途上国(いまや十分工業国になった国も含む)のコミュニティに関しては、同性愛抑圧や女性差別や児童虐待や外国人イジメがあっても、文化の独自性などを理由にして、口出しを控える傾向があります。このことが、それぞれの先進国の主流コミュニティの大衆の中に、自分たちのアイデンティティを損ないながら、ヨソモノばかり配慮するものとの反発を生み、その後の極右流行の素地を作ったことは間違いありません。

だから結局こっちの方も新自由主義と同じ自家撞着に陥ったわけです。どちらも両人間関係原理を無造作に同居させたことから帰結する矛盾です。コミュニタリアン・リベラルの場合は、個人の自己決定と普遍的人権を重視する、流動的人間関係原理にフィットしたリベラルな姿勢と、元来のコミュニタリアンの固定的人間関係原理とが相容れなくなっているのです。

極右の解決はスッキリくるが破滅への道

とどのつまり、流動的人間関係原理に徹するか、固定的人間関係原理に徹するか、どっちかにしないと矛盾が解決しないことになります。

固定的人間関係原理に徹する解決の場合はどうなるでしょうか。

新自由主義の矛盾からは、市場化・グローバル化の肯定の立場を捨て、ナショナリズムに徹することが導かれます。すると、同胞福祉にも民族文化保存(文楽!)にも国土の緑の保全にもおカネがかかりますから、もはや「小さな政府」というわけにはいきません。しかもTPPなどもってのほか。モノもカネも、一国内での自給自足をなるべく目指すべきだ、そうすれば国際競争など気にせずに、各国独自の経済のやり方を守っていける──こういうことになります。

コミュニタリアン・リベラルの矛盾からは、リベラルの側面を払拭すべきだということが導かれます。自分の国もヨソの国も、それぞれの伝統価値観を守っていればそれでよろしい。人はみな、好むと好まないとにかかわらず、生まれたコミュニティの「共通善」は受け入れて生きるべきであって、ゆめゆめ嫌がってヨソに移動してはいけません。そうして各国のコミュニティどうし、お互いに干渉しあわずにいけばよろしい──ということになります。

今日のヨーロッパで見られる新しい右翼は、自民族の優越を信じた昔のファシズムとは違って、「差異論的人種主義」に基づいていると分析されています。これは、それぞれの共同体が異なったものであることを形式的には「平等に」承認したうえで、自分たちの国家共同体の純化を要求するものです[*16]。先にバルケネンデ首相やルペンさんについて触れたとおり、まさにコミュニタリアンが左派的なつもりで言ってきた理屈が逆手にとられているのです。

[*16]  宮本太郎(2004)「新しい右翼と福祉ショービニズム──反社会的連帯の理由」、斉藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房、第2章62ページ。畑山敏夫の分析であり、「差異論的人種主義」という概念はP-A・タギエフのものである。

これを合わせるとすなわち、国家を共同体とみなしてそこへの個々人の埋没を目指す、ナショナル・コミュニタリアンの極右思想が立ち昇ってくるということがわかります。それは、流動的人間関係がメジャーな社会原理になりつつある目下の経済とテクノロジーの動きに逆行する志向です。本気でこんなことを実現しようとしたら、世の中確実に破滅するでしょう。

しかし、この立場をとれば、これまでの矛盾が解消されてスッキリ筋が通ることだけは間違いありません。そうである以上、この立場はある程度まとまった勢力として今後必ず現われてきます。左翼側は、不安定な条件で雇われて働く人たちや、その他の社会的弱者の支持を奪われないように、本気でがんばらないと怖いことになるでしょう。

さて、こっちの解決が駄目ならば、残るは流動的人間関係原理に徹する解決しかありません。それはどのような政治哲学思想になるのでしょうか。次回以降そのことを考えていこうと思います。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

サムネイル「Contradiction」Stéfan

http://www.flickr.com/photos/st3f4n/2706040341

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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