2015.02.17

日本にあるもう1つの言語 ――日本手話とろう文化

金澤貴之 ろう教育

教育 #日本手話#ろう文化

手話の「発見」

手話は、耳が聞こえない人たち(すなわち、「ろう者」)の間で使われる、主として手を用いてお互いの意思を伝え合う手段である。手話は、今やテレビ番組にもしばしば登場するし、街中で見かけることも珍しくはない。専門外の人たちにとっても、「手話」という言葉を知らない人は少ないだろう。

ただ、その手話なるものが、音声言語の代替手段にすぎない、身振りに毛の生えたものだと考えていないだろうか。手話は、日本語、英語、他の音声言語と比べて遜色なく機能する、日本語とは異なる統語構造によって成り立っている1つの完成された言語である。

手話が1つの言語として成り立っていることについては、もう少し言葉を足して説明をしなければなるまい。ここで言うところの「手話」とは、主として耳が聞こえる者(ろう者に対して、こちらを「聴者」という)が、音声を発しながら手話単語を併用して表出するものを指すのではない。ろう者同士の間で用いられており、音声を伴わないでなされるものである。

ろう者同士の手話をよく観察すると、必ずしも日本語の口形を伴わず、日本語とはどこか異なるテンポで、そして豊かな表情を伴いながら、非常にスピーディーかつなめらかに手が動いていく。

それは、手話が読み取れない人には、なんの話をしているのか皆目検討もつかないものでもある。その、ろう者がろう者同士の間で用いている手話こそが、「日本手話」と呼ばれ、身振りとは異なる統語規則を備えた、1つの言語なのである。

手話が言語である前提として、その言語を構成する最小単位となる「音韻」を有している必要がある。そしてその音韻は、それぞれの言語によっても異なってくる。例えば日本語の場合、「あ」は「え」と区別されるし、「あ」と「か」も別物として扱われる。一方、英語の場合、“la”と“ra”は別物として扱われるが、日本語では区別されない。

それと同様に、手話にも手話を成り立たせる最小単位となる「音韻」がある(「音韻」という学術用語ができた時には、音声言語のみを想定されてきたため、「音」という言葉が用いられているが、手話に音があるわけではない)。

それは、手形、位置、運動の3要素により同定される。手の動きが、特定の音韻として整理され、ある1つの単語に同定されていくことで、その言語の統語規則を習得している者同士に共通理解されていく。この点こそが、あるものの動くさまなどを連続的な動作によって模して示す「身振り」との大きな違いといえる。

さらに手話の文法を語る上でもう1つ重要な要素がある。それは、手話は手の動きのみで成り立っているのではなく、眉や顎、目の動きといった、非手指動作(NMM= Non-Manual Markers)が文法を構成する重要な要素となっているということである。

このNMMによって、例えば単語を倒置したり、複文構造を作ったりすることが可能になる。ここでその文法について詳述する意図はないが、手話の文法の重要な要素が手の動き以外の部分によって構成されていることは、以下の2つの重要なことを意味する。

1つは、手だけを分析していても、その文法の巧緻さは見抜けないこと、そしてもう1つは、手話をするろう者の顔の表情の「豊かさ」には、感情表出だけでなく、文法機能も含まれていたことである。

手話には音声言語の音韻に相当する構成要素があること、 そしてNMMがあること、こうした知見が示されるようになったのは、世界的にも、Stokoe(1960)からであり、日本において、日本手話が日本語とは異なる統語規則を持った言語であることが知られるようになったのは、さらに遅く、1990年代中頃になってからであった(例えば、市田1994など)。

手話が言語であるという「発見」は、ごく最近のことなのである。そして、手話における音韻やNMMの存在を見抜けないまま近年に至っていたことで、手話そのものの見られ方が低く貶められ、ろう者の教育における手話の扱われ方も否定的なものとされてきた。

手話に音韻があることが発見されなければ、身振りとの違いも説明できない。そしてNMMが発見されなければ、複文などの精緻な文構造を表現できるとは思われず、日本語に沿って単語をただ並べただけで助詞がなく不完全な文法しか持たないものと説明されることになる。

そしてろう者の表情の「豊かさ」は「文法標識」としては理解されることなく、不完全な文法を補うためにオーバーな「感情表現」をしているだけに過ぎないと理解されることになる。

そして実際に手話は、大正期からごく最近まで、「手真似」「猿真似」と揶揄され、「身振りのようなもの」で、音声言語よりも「文法的に劣ったもの」と見なされ、「日本語獲得の妨げになるもの」と忌み嫌われ、ろう学校において禁止されてきたのである。

では、ろう教育において、手話はどのように扱われてきたのであろうか。

ろう教育と手話

ろう児に教育を行う実践自体は明治以前にもあったが、ろう学校教育の制度化、その後の連続性という観点で見れば、ろう教育は明治11年の京都盲唖院(後の京都府立聾学校)、そして13年の楽善会訓盲院(後の筑波大学附属聴覚特別支援学校)に始まるといえる。その後、大正期に入るまでは手話を用いた教育方法が採られてきた。

しかし、大正期に入り、唇の読み取り(読話)と発音訓練によって日本語を獲得させようとする「口話法」が提唱されたことで、手話は日本中(そして世界中でも)で禁止されていった。手話を認めてしまうと、聾児は厳しい口話法の訓練よりも手話に流れてしまい、口話法による日本語の獲得ができなくなる、との考え方によるものであった。

ただ、実際のところは、手話を禁止し、そのような厳しい訓練を行ったとしても、口話法によって日本語を獲得することは困難であった。

その後、戦後に入り、補聴器の性能が進歩したことで、「口話法」は聴覚障害児の残存聴覚を活用した「聴覚口話法」へと修正されていく。

「ろう児」と称される聴覚障害児のうち、全く聴力がない子どもは非常に少なく、ほとんどの子どもが僅かながらも聴力が残っている。その残存聴力を活用し、不明瞭ながらも音声を受聴した方が、読話のみで日本語を解しようとするよりもより負荷がかからず、日本語獲得が容易になるからである。

そして確かに聴覚口話法は、相対的に聴力の活用が可能な子どもには一定程度の「成果」を挙げていったと言えなくもないが、その実、言語獲得期における手話の使用は禁止され続けた。

聴力が比較的活用でき、ある程度は日本語を獲得できたろう者であっても、聴覚障害がある事実は変わらない。すなわちそれは、常に不透明で雲を掴むような話の中で、僅かな情報を頼りにコミュニケーションすることを強いられることになる。

ろう者にとって、手話が奪われている環境は、どこに行っても充足できるコミュニケーション環境がない、いわば不全感の中にさらされ続けることを意味することになるのである。

そうであるにも関わらず、なぜ手話が禁止され続けたか。その大きな理由こそが、先に述べた、「手話を使うと思考が育たなくなる」「手話を使えば日本語が身につかなくなる」という手話に対する誤解、偏見であった。

ただし、ろう学校が手話を禁止し続けてきたにもかかわらず、ろう者はろう者同士の中で手話を使い続け、次代に伝承してきた。それは時として、学校の中で先生の目に隠れて机の下でこっそりと使われては、しばしば見つかって手を叩かれたりもしながら。伝承の場の中心は、ろう児同士が寝泊まりして生活する寄宿舎であった。親もろう者であるろう児を起点として、先輩から後輩に伝えられ、それが学校全体に波及する形で。かくして、ろう教育の中で手話が禁止され続けても、ろう者コミュニティから手話を奪うことはできなかったのである。

その後1990年代の半ば頃から、ろう児幼児の日本語の言語指導において、手話を「併用」した実践が見られるようになった。その背景としては、聴覚口話法での日本語獲得が困難な子どもがまだまだ少なくないという状況があったことや、訓練的な言語学習よりも、遊びの中での自由なコミュニケーションを認め、広げていく方が言語獲得においてより効果的であるとの考え方が広まっていったことが挙げられる。

この実践は、音声に手話単語を併用するものであるため、前述した「日本手話」を教員が積極的に用いて指導をするものではないが、結果的にはろう児同士での自由な手話の使用も認めていくことに繋がっていった。そして1990年代は少数のろう学校で行われ始めた手話導入の実践であったが、2000年以降、全国に波及していった。

我妻(2008)によれば、2007年において、幼稚部段階で教員全員が指導中に手話を用いている学校は全体の77.5%であり、半数以上の教員が指導中に手話を用いている学校となると全体の86.3%(1997年では22.5%)を占めている。

そして逆に指導中に手話を使用する教員が一人もいない学校は5%(平成9年では71.5%)に過ぎない状況になっている。このように、わずか10年ほどの間にろう学校における手話使用をめぐる情勢は大きく変化していった。

ろう教育における手話の導入に関して、もう1つ見逃せない動きが、「日本手話」によるろう教育を求める、成人ろう者たちによる動きとその成果である。それは、2000年前後に全国各地でフリースクールの形で表れることになった。

そしてその1つであり先駆けでもあった「龍の子学園」がNPO法人化し、平日昼間にろう幼児への教育活動を開始し、ついに2008年4月に、日本手話で教育を行う私立のろう学校「明晴学園」が誕生するに至った。

注目すべきは、この動きが公立のろう学校関係者の外部で進められてきたことである。彼らの教育方法は、「バイリンガルろう教育」と言われ、音声言語の(書き言葉としての)獲得も目標の1つにしてはいるが、何より重要なのは、日本手話をろう児の母語として獲得させることにある。

この点は、これまでのろう教育の中で構築されてきた、「まずは日本語の獲得を」という価値観とは一線を画している。そしてこの背景には、ろう者が聴者とは異なる価値観を、ごく自然なものとして構築している現象がある。

つまり、ろう者の捉える「ろう」状態は、聴者が想定するようなネガティブな状態ではなく、彼ら自身にとってごく当たり前の状態なのである。

ろう者にとっての「ろう」

「ろう文化(ろう文化)」という言葉を世に知らしめたのは、「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である」の宣言文で始まる、木村・市田(1995)による「ろう文化宣言」であろう。

これ以降、医療や特殊教育/特別支援教育といった、従来からの病理的な視点からの「ろう」のとらえ方とは別に、社会学的・文化人類学的な視点からも注目されるようになった。

「ろう文化宣言」でも紹介された、自らを言語的少数者としてのろう者と位置づけ、ろう者による文化的活動を行うD PROの主張は、これまで聴者が抱いていた「障害者」としてのろう者像とは全く異なっていた。

「手話こそが母語である」とする彼らのろう教育への主張は、「聴覚口話法による日本語の獲得こそが最優先課題であり、手話は日本語が獲得できた後からでやればいい」というこれまでのろう教育の考え方とは正反対のものであった。それだけにとりわけろう教育関係者からは、「極端」というレッテルを貼られることとなった。

この主張のインパクトは、「ろうは障害である」ことが、少なくとも聴者にとっては疑いようもなく、当たり前のこととして考えられていたことの裏返しでもある。

その後D PROはろう者の賛同者も増やしつつ、その後1996年4月には、新たにろう者学研究センターを創設し、啓蒙活動を中心とした運動体から、研究組織へと変化させていった。手話学、ろう歴史学、ろう文学、ろう教育、手話教授法といった研究チームを発足し、研究成果を発表していったことで、ろうの世界において、もはや無視できない存在にまで一定の認知を得るに至った。

そしてD PRO関係者が中心になって1998年秋に発足した「ろう教育を考える会」によるフリースクール「龍の子学園」の開校こそが、ろう者の積年の夢の実現である、日本初の日本手話と日本語のバイリンガル教育による学校法人「明晴学園」の開設に繋がるものであった。

聴者と異なる言語と文化がろう者にはあり、ろう者は自分たちのことを障害者とは思っていないというメッセージは、聴者から見れば強がりのような、あるいは戦闘的な響きを与える。

しかしながら、興味深いのは、こうした主張が当のろう者にとってはなんら驚くに値しない、ごくあたりまえの日常的な意識を公的にアピールしたにすぎないことである(棚田1996;木村1998)。

「ろう文化がある」というのならば、他の障害者にも「文化」がありそうである。確かにろうの世界に手話があり、ろうコミュニティが作られるように、例えば盲の世界にも点字が存在するし、盲人の集団も古くから存在してきた。

しかし、ろう文化と他の障害文化とは以下の2点からはっきりとした違いがある。1つは、ろう者にとって、「ろう文化宣言」は自然体を表したものとして解釈できるのである。

例えば棚田(1996)の「ろう者の視点からすれば、『耳が聞こえないこと』は『当たり前』のことであり、ことさら『不便』だと思うこともない、というのが実感である」の言葉に示されるように、そもそも障害者として自らを意識していないことを示したものである。

自らを障害者だと思っていないのであれば、「ろう文化宣言」の主張は、ろう者にとって、強がりでも開き直りでもなく、ごく自然な思いの表明にすぎない。もう1つは、聴者(「健常者」)との関係性にある。

ろう者と聴者との関係は、理屈として理解し合えばよくなるものではない。「話せばわかる」のではなく「話ができない」のである。ろう者は聴者と一緒にいることで、自らのハンディを意識することになるのであり、ろう者だけでいる限りにおいて、そこにはハンディは存在しない。ろう者同士の持つ求心性は、聴者からの遠心性と表裏一体であると考えられる。

また、「ろう」の意味する想定も、聴者とろう者では異なっている。聴者にとって「ろう」は「耳が聞こえないこと」を意味する。しかしろう者が「あの人はろう者か難聴者か」と言うとき、それは耳がどの程度聞こえないのかを意味しているのではなく、手話話者かどうかを意味している。

聴者にとってはより聴者に近い「難聴者」である方がポジティブな価値を持つのとは対照的に、ろう者の間ではより「ろう者らしい」ことがポジティブな価値を持つ。家族みんながろう者である「デフファミリー」は、ろう者の間ではうらやましい存在としてポジティブに語られる。そして両親ろうのろう者はしばしばろうコミュニティにおいてオピニオンリーダーの立場に立つ。

ではろう者の間で自然に行われているところの「ろう文化」なるものは、いったいいかなるものなのであろうか。

「ろう文化」とは?

「ろう文化」には、ろう者が自然に行うろう者独自の方法(Deaf Way)から、芸術表現に昇華されたものまで、総称して語られるところのものである。

聞こえない身体状況が生み出すろう独特のやり方として、例えば注意を喚起する際に、肩や机を叩く方法がある。ただし、ただ単に叩けばいいのではない。そこには細かい暗黙のルールがあり、強弱によって、相手に与える印象は異なり、ろう者はそれを場面や状況に応じて使い分けている。

また、手話話者であるがゆえにできあがった方法もある。聴者の場合、最も奥まったところが「上座」となるが、ろう者の場合、みんなの視線が集まりやすい真ん中の位置になる。

また、手話言語の構造や言語によって構築される思考と関わるろう独特の行動様式もある。日本人はアメリカ人から見れば「曖昧な表現を好む」と言われるが、ろう者は日本人であっても結論を先にいい、婉曲表現を避ける。

例えば、トイレに行く際の方法として、聴者の場合は、静かにその場を去るだけで十分に意味が通じるが、ろう者の場合は「トイレ」と、意思表示をする。こうした行動様式の相違は、時として摩擦に繋がる。

聴者社会の中でろう者がしばしば「ズケズケと失礼な物言いをする人」と評されてしまうことの背景には、「常識がない」のではなく、ろう者の常識、行動規範に沿って振る舞っているだけであることが多い。

芸術表現として、手話ポエム(手話歌)、演劇、手話文学も生まれている。これらの芸術性は、内容そのものだけでなく、手話によって語られる中に表れてくる。手話ポエムや手話歌と言われるものは、音や音楽を伴わず、ろう者のリズムで手話が繰り出され、手の動きで「韻」が踏まれる。

演劇は舞台向きの手話表現で進行する。デフジョークと称される冗談では聴者を皮肉るネタも多く、なかなか聴者側からは笑えないものもある。

こうした「ろう文化」は、聴者の知らないところ(しかし実はあちらこちら)に満ちあふれている。そして重要なのは、聴者はろうコミュニティに入ろうとすることで初めて、ろう文化を知らない聴者ならではの失敗をしてしまったり、失礼な行為をろう者から大目に見てもらったりといった経験ができることである。

逆に言えば、そうした経験を積むことが無ければ、いかに普段、ろう者が聴者文化に合わせているのか実感をもって理解することができない。

手話は長い歴史の中で劣ったものとみなされ、また、手話を使うろう者のやり方もまた、「社会常識がない」ふるまいと見なされてきた。それは、手話を読み取れない聴者による手話に対する誤解、偏見によるものであると同時に、ろうコミュニティの外部にいる聴者による、ろう文化への誤解、偏見によるものでもあった。

90%ルール」が生み出すもの

ろう者の人口学的な特徴として、すでにいくつかの知見がある。ろう学校および難聴学級に在籍するろう児のうち、ろうの両親をもつろう児の割合は10%程度と言われる(前田・森下1984;古田・吉野1994)。

また、Schein & Delk(1974)によるアメリカの調査では、ろう者の80%程度がろう者と結婚し、ろう者同士の結婚から生まれる子どもの10%程度がろう児であるという。これらが「90%ルール」と呼ばれるものである。

・ろう者の約9割は聴者の親のもとに生まれる。

・ろう者の約8割はろう者同士で結婚する。

・ろう者の約9割は聴者の子どもを産む

ろう児の親の9割は聴者であり、医療関係者もろう学校教員も、ほとんどが聴者である。医療関係者は聴覚になるべく障害が起きないよう最大限の「治療」行為を行い、教育関係者は聴覚障害の結果生じる「ことばの障害」の「改善・克服」をする。

それは、「聞こえない」障害がないことを望み、それがかなわないならせめてその障害が少しでも軽減されることを願う聴者の親のニーズと合致する。

しかしその一方で、ろう学校などのろうの集団が形成される場があることで、ろうコミュニティは血縁関係を離れて結束し、そこで手話やろう文化が継承されてきた。

そして親や周囲の聴者は、結婚相手は聴者であってほしいと願ったとしても、ろう者はろう者同士で結婚し、ろう者同士の強い結びつきの中で、手話の必要性を実感しつつ、生まれてくる子どもはろう者であったらいいな、と期待することも珍しくない。しかし実際に生まれてくる子どもはといえば、たいていは聴児となる。

ろう文化は血縁関係を基盤としない結びつきによって支えられている。すなわちろう者は、新しいコミュニティの成員となる次代のろう児を,自分たちが望むようには育てられない社会システムに抗いながら,自らの言語と文化を伝承していかなければならない宿命を背負っているのである。

ろう児は聴者のもとに生まれた時点では、文化的にはろうではない。ろう者同士のコミュニティにつかることで、「ろう者」になっていくのである。だからこそ、ろうコミュニティにとって最も大きな「脅威」は、聴覚障害児を持つ親が、我が子の就学先として通常学校を選択すること(統合教育)なのである。

そしてそれは一方で、聴者である親にとっては望ましい願いでもある。ろう学校で手話が禁止されていた時期も、そこにろう児・者のコミュニティがある限り、ろう者はろう者同士で手話を使用し、伝承してきた。

しかし聴覚に障害のある子どもが通常学校に就学することは、ろうコミュニティの離散を意味する。ろうコミュニティ自体が存在しなければ、手話も培われなくなっていく。だからこそ、統合教育を医療技術的に促進させる手段となりうる人工内耳の存在もまた、ろう者にとっては大きな脅威となる。

聴者にとっては、「障害を持った子どもを分け隔てせずに、普通の子どもと一緒に過ごさせる」ものであるが、ろう者にしてみれば、「ろうの子どもを、他のろう児から分離させ、聴児集団の中で孤立させる」ものとなる。

2014年1月20日、ようやく日本が障害者権利条約に批准した。国連で同条約が採択されたのが2006年12月、日本が条約に署名をしたのが2007年9月であり、実に7年ほどの歳月を費やしたことになる。

この間、条約批准に向けていくつかの国内法の改正が行われた。中でも、障害者基本法の改正は、ろう者にとって相矛盾する2つの問題が提示されることとなった。

1つは、第3条3である。日本の国内法で初めて、手話が言語として規定されることとなった。これまで誤解と偏見にさらされてきた言語が、ようやく正当な地位を確保した、いわばろう者にとって記念すべき条文が誕生した。

第三条 三 :全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること。

そしてもう1つは、第16条である。障害のある子どもが障害のない子どもと共に学ぶための施策を講じるよう求めた条文である。

第十六条  国及び地方公共団体は、障害者が、その年齢及び能力に応じ、かつ、その特性を踏まえた十分な教育が受けられるようにするため、可能な限り障害者である児童及び生徒が障害者でない児童及び生徒と共に教育を受けられるよう配慮しつつ、教育の内容及び方法の改善及び充実を図る等必要な施策を講じなければならない。

統合教育の実現を目指すべき姿として法律上明記したことは、障害者問題全般からすれば、喜ばしいニュースである。しかしろう者にとっては、ろうコミュニティが今後ますます脆弱化していくことを意味するものであり、手放しには喜べないものである。

ある側からすれば非常に価値的で、望ましく喜ばしいことが、逆の側からすると全く価値のない、あるいはとんだ迷惑な話であること。こうした現象は社会の至るところで見られるものではある。

問題はそのある側と逆の側が、等価な力関係にない場合である。手話、ろう文化、そしてそれを成り立たせるろうコミュニティは、常に聴者の中でマイノリティに置かれ続けてきた。それゆえに、あらゆる意思決定の場で、自分たち不在の中で、自分たちの問題が、自分たちにとって価値的ではない方向に、決められてきた歴史を積み重ねてきている。

手話を学ぶとき、単なる言語学習ではなく、その背景にあるこうした問題に目を向けていくことが、聴者の側に求められるのではないだろうか。

引用文献

・我妻敏博(2008)「聾学校における手話の使用状況に関する研究(3)」ろう教育学50(2)27-41.

・古田弘子・吉野公喜(1994)「ろうの両親をもつ聴覚障害児の実態について」ろう教育科学36(1)37-45.

・市田泰弘(1994)『日本手話の文法と語彙』日本語学13、25-35.

・木村晴美(1998)「「ろう者」として.現代日本文化論5 ライフスタイル」

岩波書店、79-109.

・木村晴美・市田泰弘(1995)「聾文化宣言」現代思想、23(3):354-362.

・前田直子・森下裕子(1984)「聾児をもつ聾の母親を取りまく諸問題」ろう教育科学、26(2)、79-96.

・Schein、 J. and Delk、 M. (1974): The deaf population of the United States. Washington DC: Gallaudet University Press.

・Stokoe、 W. (1960) :Sign language structure: An outline of visual communication systems of the American deaf. Studies in Linguistics Occational Papers、 8、 Washington、 DC、 Gallaudet University Press.

・棚田 茂(1996)「メディアとろう者」現代思想 臨時増刊、24(5)、137-141.

プロフィール

金澤貴之ろう教育

東京学芸大学、同大学院修士課程で聾教育を専攻。筑波大学大学院博士課程中退。 同大学文部技官、助手を勤めた後、2000年4月から群馬大学教育学部障害児教育講座に講師として着任。現在、同大学教授。2013年3月、博士(教育学)取得。主な著書は、金澤貴之編著『聾教育の脱構築』明石書店(2001年)金澤貴之、大杉豊編著『一歩進んだ聴覚障害学生支援──組織で支える』生活書院(2010年)金澤貴之著『手話の社会学──教育現場への手話導入における当事者性をめぐって』生活書院(2013年)

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