2013.05.21
震災復興と地域産業 ―― 社会的役割を深める「道の駅」
地域を支える「道の駅」
震災前から、東北地方はじめ全国の農山漁村では、「農」と「食」を起点に地元の資源を地域のアイデンティティの象徴として再生させる動きが高まっていた。とくに海に面した三陸では、幾多の条件不利を乗り越えながら、地域資源の恵みを活かした取り組みが重ねられてきた。
その背景には地方や農山漁村特有の問題、具体的には人口減少と超高齢化、過疎化、限界集落の急増などがあげられる。さらにその誘因として、製造業や建設業を中心とした雇用の場の縮小、第1次産業の担い手不足、耕作放棄地の増加などがあり、地域問題をスパイラルに構造化させていた。一方で、地域に根深い問題を、住民や行政が自らの手で克服していくかのような試みも各地で生まれつつあった。
そうしたなか、地域での受け皿として存在感を高めてきたのが「道の駅」である。地域産業振興の拠点、人びとの交流の拠点として、地域に根差しながら進化を遂げてきた。最近では、公共的な機能、民間の自立的な活動の場が相互に作用し、それぞれの地域を象徴する場として、多くの人を惹きつける存在となりつつある。
道の駅が誕生したのは1993年のことであり、今年4月でちょうど20年の節目を迎えた。その数は2013年3月末時点で全国1005カ所にのぼり、右上がりに増えてきた。道の駅の機能の柱は、(1)休憩機能、(2)情報発信機能、(3)地域の連携機能の3つとされる。当初は休憩機能の要素が強かったが、取り組みを重ねるにつれ、次第に地域の連携機能を深め、その地域ならではの産品を掘り起こし、販売する拠点へと発展を遂げた。土日・休日となれば、車であふれかえる道の駅も少なくない。もはや、道の駅は「通過点」ではなく「目的地」になりつつある。
消費者からすると、生産者から直接に新鮮な農産物を購入できることが魅力であろう。他方、農業者にとっても新たなチャレンジの場となっているようである。オリジナルの商品開発も盛んであり、数多くのご当地ヒット商品を生むまでにもなった。地域の産業衰退が叫ばれるなか、新たな地域産業のプロデュース拠点、都市・農村の交流拠点として注目を集め、地域の期待を背負う存在となりつつある(*1)。
(*1)(財)地域活性化センター『「道の駅」を拠点とした地域活性化』(2012年3月)では、全国の道の駅に対してアンケート調査を実施し、地域の中で道の駅が果たすべき役割や方向性について検討している。(http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/7_consult/kenkyu/docu/H23houkokusyo-.pdf)
こうした経済的な要素もさることながら、最近では社会的な役割も担うようになってきた。山深い中山間地域の道の駅では出荷できなくなった高齢の農業者をまわり、軽トラで「集荷」を実施しているところも増えている。さらに、条件不利地域での買い物難民対策も講じ、食料やお弁当、日用品を配送する道の駅も登場している。多くが公設民営の道の駅であるからこそ、地域の課題を民間の発想や行動力で解決に導いているようである。
そして、東日本大震災では防災拠点としての役目を果たしたことが注目される。震災当日の晩冬の夜、被災地の道の駅では多くの住民が暖をとった。食料品や毛布なども提供された。断水するなか、トイレを開放し、スタッフたちが手作業で対応に当たったことも報告されている。通常、道の駅は避難所としての指定を受けていない。しかしながら、あの状況下では一時避難所まで行くことのできない人びとがどれほどいたことか。駅長やスタッフたちの柔軟な対応により、住民たちを救った道の駅も少なくないのである(*2)。
(*2)東日本大震災における道の駅の具体的な対応策については、筆者が企画編集した『地域開発』2013年4月号の特集「防災拠点として注目される『道の駅』」((財)日本地域開発センター、vol.583)を参照されたい。「被災の前線に立つ道の駅」、「後方支援に従事した道の駅」、そして津波で流されながらも再開を果たした「被災から復旧・復興した道の駅」の3つの類型に分けて、それぞれの道の駅が果たした役割や課題を論じている。
道の駅が生まれて20年、その数は1000件を超えるまでとなった。存在感を高めつつあるのは、必ずしも地域活性化や経済的側面といった理由だけではない。むしろ、社会的機能を深めつつあることが注目される。ここでは東日本大震災での経験を踏まえ、道の駅の社会的役割に焦点を当ててみたい。
町内の商業機能が停止するなか、真っ先に営業開始した道の駅
岩手県山田町は山田湾と船越湾を擁し、入り込んだリアス式海岸沿いに漁村が連なる町である。三陸海岸にある他の地域と同様、養殖業が盛んであり、特産品の殻付きカキのほか、イカ、アワビ、ウニ、ホタテ、ワカメ、サケなど自然の恵みの宝庫であった。だが、大震災は豊かな自然と町を一挙に襲った。津波ばかりか、山田町の中心部は猛火にも包まれた。大規模火災により中心市街地の多くの家屋や商店が焼失。養殖施設も壊滅状態となった。
岩手県下の町村は「産業開発公社」を設置し、地域産業の振興に力を入れてきた。行政やJA、JF、森林組合、商工会等の経済団体が出資する第3セクター方式によって、特産品開発や販路開拓に果敢に取り組んできた。1980年代半ば頃から各地で設置され、一部の市とほぼ全ての町村に普及していった。岩手県の町村では、道の駅の運営もこの産業開発公社が担ってきたのであった。
そのようななかにあって、山田町では産業開発公社が設置されておらず、民間が出資する「山田町特産品販売協同組合」が道の駅「やまだ」の運営にあたっている。行政に依存しない、民間主導の産業化を目指し、1999年に設置された。町の水産業、農業、商業者約40名が出資している。公社方式が普及した岩手県では異例の民間主導の道の駅である。
山田町の中心市街地から国道45号を南に下ると、道の駅「やまだ」がある。震災後、国道が寸断された状態となり、道の駅は孤立。震災直後から避難者を受け入れ、売り物であったお弁当、パン、クッキー類を配布、さらに近隣の家にもスタッフが食料を持って行くなど対応に当たった。夜には1台の石油ストーブを囲み、カーテンや段ボールを毛布代わりに、50人程が道の駅や車で寝泊まりし、夜を明かした。
その頃、道の駅からほど近い山田の中心部は猛火が燃え広がっていた。副支配人の豊間根仁氏は、避難して来る人に状況を聞きながら、紙に「国道45号は寸断。山田は火災」といった被災状況を書き連ね、道の駅の玄関に張り出していった。震災当日、混乱のなかにあっても住民の安全を確保するために、現場の柔軟な判断で対応にあたったことがうかがえる。
翌日には自衛隊が道路を整備し、寸断箇所も開通した。道の駅やまだでは、引きつづき道路情報を発信していくと共に、住民の安否確認も実施していく。カレンダーの裏に、道の駅を訪れた人びとに名前と避難先を書いてもらい貼り出していった。すると、確認するためにやって来る人が多くなり、情報も集まるようになった。手書きでの道路情報と安否確認の発信は3月末までつづけられた。また、道の駅にあった青果物や菓子、加工品などを避難所に持って行き、周辺への食料供給をつづけた。震災後1カ月間、スタッフたちは交代で寝泊まりをつづけるなど、懸命に支援活動に当たった。
そして、電気、水道も開通していない状況下で、震災から1週間後の3月18日に道の駅を再開することをスタッフたちは決断する。「自分たちがやらなければ、誰がやる」との認識であったという。豊間根氏は自らバンを運転し、ガソリンが不足するなか盛岡に仕入れに行った。盛岡の業者が用意をして待っていてくれ、食料ばかりか、普段、取り扱わない日用品、長靴や下着なども荷台に詰め込み、発電機も借りて戻って来た。こうして震災から1週間たった3月18日、まだ町の店舗は1店も開いていないなかで、道の駅やまだは営業を再開したのであった。
「臨時営業します」と看板を掲げたところ、自転車や徒歩で多くの人がやって来た。隣の大槌町から歩いて来る人も少なくなかった。商品の購入数は制限しなかったが、買い占める人は誰ひとりとしていなかったという。道の駅に出荷する山田町特産品販売協同組合のメンバーのうち、山間部や内陸に住む組合員から無償で野菜や手づくりの団子などが届けられた。営業再開に際して、出荷者や組合員が一丸となって支えたことがうかがえる。
さらに、仮設トイレを設置し、自由に使えるよう開放していった。当初6基を揃えたが、とても足りずに増やしていった。水道も通っていないなかで、山手からタンクで水を持ってきて、手作業で対応にあたった。こうして、スタッフたちは「物販販売」と「トイレ対応」の2班に分かれ、臨時営業を約1カ月ものの間、しのいだのであった。4月末まで臨時営業し、その後、通常営業を再開する。水道は3月下旬から、電気が4月上旬、下水道が4月下旬に完全復旧したことにより、本格再開にこぎつけた。豊間根氏は「われわれに責任が重くのしかかってくるが、今回の経験を活かして住民の安全を第一に考えたい」と、経験を踏まえ、道の駅の防災拠点化を進めていく構えである。
このように、震災時に、道の駅が果たした役割は極めて大きい。道路情報だけでなく、住民たちの安否情報を蓄積、情報発信していった。被災者に寄り添いながら、刻々と変わるニーズにも柔軟に対応していった。食料品だけでなく、避難者用に下着や長靴等の日用品も揃えた。被災地はじめ東北の道の駅は、ボランティアや自衛隊、建設関係者が立ち寄ることも多くなり、温かい食事を提供するなど、フル稼働で対応した。そして、営業再開後は被災した水産加工業者や食品会社、農業者の再起の場、「産業復興の拠点」として重要な役割を担っている。
被災しながらも支援するということ
災害直後、支援物資が届くまでは地域内で必要な食料や物資をまかなうことが課題となる。その点、ほとんどの道の駅は農産物直売所を併設しているため、支援が届くまでの数日間はしのぐことができ、行政や近隣の避難所に食料を供給した道の駅も少なくなかった。また、内陸で被災しなかった道の駅が後方支援にあたり、被災地に食料を供給したケース、自衛隊などの中継地点を意識し軽食を用意したケースなど、柔軟な支援体制がみられた。道の駅が地域の防災拠点として有望視されるのは、こうした地域を背景にする食料備蓄のような機能を兼ね備えていることとも関係しよう。
だが、食料供給だけでなく、緊急時の利用者の生命の安全を確保することが何よりも重要であり、この段階を乗り切るには、マンパワーに加え設備面での充実も課題となってくる。現場で事に当たったスタッフからは、非常用電源(発電機)、衛星通信電話、非常用トイレ、食料・飲料水や毛布の備蓄庫、燃料備蓄などが必要との声があがっていた。
では、道の駅の防災拠点化を図っていくには、今後どのようなことが必要になってくるのであろうか。東北地方の道の駅十数カ所を訪問、駅長やスタッフから話を聞かせていただいたが、災害時対応の責任を誰が負うのかといった問題が浮き彫りになった。一般に道の駅の管理者は市町村であり、運営を公社や第3セクター、生産者組合、民間、NPOなどが指定管理者として請け負っている。今回の震災では、道の駅の駅長やスタッフが避難者に対して無償で食料や支援物資を提供し、結果として運営側の公社等が責任を負ったことが問題となったケースが少なからずみられた。行政からの委託業務の内容に災害時対応が含まれていなかったからである。
防災設備を備えている道の駅もあり、震災後に設置するところも増えている。道路管理者である国が設置者の市町村に対し、備蓄倉庫、貯水槽、非常用電源、災害時用トイレ、情報提供施設などを提示し、各駅の実状に応じて必要な設備を配置するというかたちをとる。整備に際しての費用負担は、道路管理者の国と設置者の市町村が、施設に応じて案分することになっている。
だが、これら設備の運用に関する権限は指定管理者の公社や組合等にはなく、設備の設置者の国と市町村側にあることから、現場ではとまどいがみられる。災害時、設備が目の前にあるのに、現場のスタッフたちは使用することをためらう状況に置かれている。これは指定管理制度に内在する問題といえよう。これも契約の範囲に、災害時対応が含まれていないことと関係する。
こうした食料供給やハード整備を十全に機能させるには、自治体等との「災害時協定」を結んでおくことが求められる。一方で、道の駅と自治体の役割を固定化してしまうと緊急の対応を阻んでしまう恐れもあるため、今回の経験を踏まえ、できるだけ現場に任せつつも、責任の範囲の線引きを柔軟に考えておくことが望ましい。道の駅の防災拠点化を進めていくには、こうした議論が不可欠となってくる。
来客の減少に負けず、全国行脚する道の駅
他方、福島では農作物の風評被害に直面する道の駅も少なくない。福島空港のすぐそばに位置する道の駅「たまかわ」。玉川村生産物直売所「こぶしの里」を併設するとともに、空港内には「空の駅たまかわ」を置き、玉川村の特産品を販売していた。さるなしやトマトを使った加工品が売りであった。
東日本大震災では地震の被害はほとんどなかったものの、福島空港が緊急避難場所となったため、沿岸部から多くの避難者が押し寄せ、道の駅は通常営業をつづけるとともに、空港ではおにぎりやお弁当を炊き出しに近いかたちで販売、スタッフや生産者たちは朝晩三交代で対応しつづけた。原発事故の情報に翻弄されながら次第に人は多くなり、東京に向けての臨時便のキャンセル待ちをする人のために働くという、複雑な状況であった。
3月末、高速道路が開通するようになると、燃料を確保することもでき、自由に移動できるようになった。しかし、放射能の影響により、住民たちも外出を控え、来客もストップし、一転、静寂な雰囲気に包まれた。そこで、穂積俊一駅長は出荷制限のかかっていない安全な作物や加工品について、他地域での販売を決行する。同年4月の長野県安曇野市の直売所を皮切りに、東京上野駅や赤坂サカスなどで出張販売を実施、11月までの間に全国50カ所近くを行脚した。「福島で待っていては誰も来ないので、外に打って出た」と語り、生産者が営農をつづける大きな励みともなった。
さらに、2011年8月5日には東京・築地場外市場にアンテナショップ「緑の駅」を開店。風評被害に負けずに生産者に元気を取り戻してもらうことを目的に、福島県内業者の参画をも促している。興味深いのが、このアンテナショップのスタッフとして、玉川村や周辺の高校生、村出身の大学生がアルバイトとして働いていることである。週末限定で高校生ら7~8人が店頭に立つ。「道の駅は情報が集まる拠点。昔の商店街の機能とよく似ている。かつて商店街は子どもを育てていた。それを、緑の駅でやっている」と、穂積駅長は語る。新しい商品開発に関わるなど、高校生たちもアイデアを出し合って地域を盛り立てている。
震災後、原発問題に揺れ動く福島で、道の駅は果敢に新たな一歩を踏み出し、地域や生産者に希望を導く存在となりつつある。道の駅は地域の生産者なくしては成り立たない。大きな問題に直面しつつも、新たな岐路を切り拓いてきた駅長やスタッフの行動力から、学ぶべきことは大きい。
生産者から支えられ、地域を支える
道の駅や直売所に出荷する人びとは「毎日の出会いが楽しい」「生活が一変した」と笑顔で語る。道の駅を起点に、農山村の女性たちの起業も活発化しつつある。全国的に道の駅の数が増えつづけ、来客数も右上がりで伸びていることをみてもわかるように、道の駅は都市と農村の新たな関係を築く場となってきた。
小売店やスーパーなどの流通と異なり、道の駅には生産者や組合員が直接出荷する。そのため、今回の震災のように多くの水産加工業者が生産を中断し、従来の流通網が回復しない状況に置かれたとしても、最低限、道の駅への出荷は継続することができる。生産者にとって、地元に販路が確保されているということは、生産再開に向けての大きな励みとなっているようである。
被災地では人口減少と超高齢社会のなかで、地域資源の恵みを活かした取り組みが重ねられてきた。東日本大震災で道の駅が果たした役割を振り返ってみると、「生産の場」としてだけでなく住民の「生活」を支える存在にもなっていることが明らかとなろう。駅長やスタッフたちは、地域の産業を支え、復興拠点としての役割を担っているという意識が強い。
震災後、地域へ還元する道の駅も相次いでいる。たとえば、道の駅「やまだ」では山田町に売上の一部を寄付、岩手県遠野市・道の駅「遠野風の丘」では売上の一部を基金にし、遠野市とボランティア団体に寄付している。地域のなかで、道の駅は大きな社会的役割を担っていることに気づかされる。生産者に支えられる道の駅は、地域全体を支える存在になりつつある。
道の駅が登場して20年、地域内外の交通と物流の中心機能を持つことから、多くの人びとが集う交流の場にもなり、着実に機能を拡充し、進化を遂げてきた。いまや、農山村や中山間地域、過疎地域の道の駅は、経済性、公共性、コミュニティ、福祉、観光、防災などさまざまな機能を持つまできなってきた。休憩、情報発信、地域の連携という3つの基本機能を超えて、地域持続のための複合拠点としての役割を担う。とくに、震災を経験した道の駅は、地域が直面する課題に対応しながら、地域の複合拠点としての性格を色濃くしているようにみえる。
プロフィール
松永桂子
大阪市立大学大学院創造都市研究科准教授。1975年京都市生まれ。島根県立大学准教授を経て2011年より現職。専門は地域産業論、地域社会経済。現場でのヒアリングや対話を通して、地域社会や地域産業のあり方を研究。主著に『創造的地域社会―中国山地に学ぶ超高齢社会の自立―』(新評論、2012年)。